第149話 初めての夜
天には星が、地には花があふれていた。
夜露を葉に乗せながら、花は閉じることなくほころんでいた。絹糸のように垂れる夜のとばりの奥から、星屑をちりばめた銀河がうっすらと浮かんで見える。
にぎやかな祝いの宴は、薄暮があたりを染めてからも続いた。
騎士のユリウスとクラウスとマリウスは朝からずっと真面目に警備に徹していたが、交代の時間をもって無事にお役御免になった。
三人はさっそくルカの元へ飛んでいくと、肩に手を回して囃したて、輪になってごきげんに踊った。
それから特製の婚礼料理を心ゆくまで味わい、浴びるように酒を飲み、しまいには大樽ごと持ち上げて豪快にあおりながら、何度も乾杯をくりかえす。
千鳥足になったユリウスとクラウスとマリウスが、ルカにもかわるがわる酒を注ぎにやってくるのを、ブリギッタは厳しく制した。
「いけません。これ以上の深酒はご法度です」
騎士たちよりずっと小柄な老婆なのに、迫力のある眼光でブリギッタはぴしゃりと遮る。
「今宵は、ご夫婦で過ごす初めての夜なのですから」
初めての夜とは初夜のことだ。だからこそ、初夜とは初めての夜のことをさすのだと思っている。
──と、謎の構文が頭によぎるほどには緊張が極限に達して、ルカはごくりと生唾を飲んだ。
「……!」
祝宴に浮かれる領民たちの熱は高まるばかりで、冷める気配はまったくなかった。
盛り上がる人々を街に残し、主役の二人はマリーやブリギッタたちと共に、先に城内へと引き上げた。
今夜から使われることになる新婚夫婦の寝室は、メイドがあらかじめ室内の清掃を済ませておいてくれた。
大きなベッドの寝具には甘い香りが焚きしめられ、枕元には子宝を祈願するという言い伝えのある飾りつけもされていて、何だかちょっとプレッシャーを感じる。
「……」
先に湯浴みと着替えを済ませ、寝室でアレクシアを待っているうちに、緊張とは別の震えが体の芯から沸き上がってくるのをルカは感じた。
言いようのない鋭い痛みが、胸元に凝る。
この日を無事に迎えられた幸福を汚すような、黒くくすぶる桎梏が、じわじわと澱みながら降り積もっていく。
思わずぎゅっと押さえた手の内側に、それはあった。
ルカの胸に刻まれた、古い火傷の痕。
引き縺れて歪んだ醜い創痕は、かつて継母のヘルミーネから刻まれたものだ。
──おまえなど生まれてこなければよかったのだ──そう呪詛の言葉を吐きながら、ヘルミーネは烙印を押すように、幼いルカの胸に火傷を負わせた。
ヘルミーネのことは人として軽蔑しているし、彼女の言葉になど傷つくことはない。
ヘルミーネが押しつけた悪意ある罵倒を真に受けて、「自分は生まれてこなければよかったんだ」とか、「こんな傷のある自分には価値がないんだ」とか、そんなことを思っているわけでもない。
ではなぜ引け目を感じているかというと。シンプルに醜いからだ。
十年以上が経っても消えずに残る熱傷の痕は、はっきり言えばグロテスクだ。
痛々しくてまがまがしくて、自分でも余り直視したくない。
アレクシアを世界で一番美しいと信じて疑わないルカだからこそ、そんな醜悪でいびつな傷を、最愛の人の目に触れさせることがためらわれた。
落ち着かなくて、そわそわとまごついた瞬間。
おもむろに寝室のドアが開いて、ルカははじかれたように立ち上がった。
アレクシアは純白のウェディングドレスから、白絹の夜着に着替えていた。
繊細なレースをあしらった上品なナイトドレス。露出は少ないが生地は薄く、しなやかな身体のラインを正確に写し取っている。
繊細に編み込まれていた飾りはすべてほどかれていた。まだ結い跡を残しながら、黒曜石を溶かしたような髪が艶やかに波打っている。
「……!」
ルカはまばたきも忘れて、アレクシアに見惚れた。
青玉の瞳が眇められる。無駄なく鍛えられた強靭な肢体が、月光の中に神秘的に浮かび上がる。射干玉のような髪がしっとりと揺れて、同じ色をした夜と溶け合った。
(……綺麗……)
いっそ現実味がないほど美しくて、ルカは吸い込まれるように硬直した。
それなのに、胸の痛みは収まらなかった。
収まるどころかかえって強く増しながら、身体の内側からルカを痛めつける。
(なんで……?)
こんな待ちに待った、夢にまで見た、妄想に妄想を重ねた絶好のシチュエーションを前にして、どうして胸の古傷がこんなにも痛むのだろう。
「……どうした?」
アレクシアはかすかに小首をかしげた。
「私も緊張している。だが、ルカはそれだけではなさそうだな」
「うん……」
とても言いづらいが、言わなくてはいけない。
覚悟を決めて、ルカは顔を上げた。
「誰にも言ったことがないけれど……実は……僕には傷があるんだ」
「知っている。見た」
「!?!?」
意を決して告げたつもりが、あっさりと返されてルカは大きく目を剥く。
「……見……た……?」
「あっ、わざと見ようとしたわけではなくて……バルーが……」
ルカが思いのほか愕然としたからか、アレクシアも軽く焦った。
故意に服を脱がせたわけではないこと、寝ているルカにバルーがじゃれついて、胸元をはだけさせてしまったのだということを説明する。
「それって……いつ……?」
「ルカがお父様と初めて会った日だ。お父様の部屋で酔いつぶれて寝ていただろう? あの時だ」
「そんな前に!?」
ルカが初対面のヴィクトルと意気投合して、彼の私室で飲み明かしたのは、もう一年半も前のことだ。
淡い払暁の光の中、目が覚めたらアレクシアがいて、飛び上がるほど驚いたことは覚えているけれど、まさか服の内側を見られていたなんて思わなかった。
そっか……とルカは茫然とした。
「……もう……見られていたんだ……」
気に病んでいた火傷の存在は、とっくにアレクシアに知られていたのだ。
安堵は感じなかった。むしろ心が痛んで、ルカは表情を暗く曇らせる。
アレクシアは肩をすくめた。
「別に気にするようなことではないだろう? 私も生傷は絶えないし、お父様にも目立つ古傷がある」
ヴィクトルは猛将として知られた武人だ。過酷な訓練や苛烈な実戦で負った傷など数えきれない。
特に目立つのは顔の傷だ。ヴィクトルの眉間から頬にかけて、深々とした裂傷が走っている。
三十年前にヴィクトルが当時の最大の脅威であった敵国の大軍を国境付近で迎え討ち、撃退した際に負った傷だ。
敵軍に包囲され、多勢に無勢で襲いかかられ、顔面をしたたかに切り裂かれてさえ、ヴィクトルは一歩たりとも退かなかったという。
ルカは静かにかぶりを振った。
「僕の傷は、義父上のような名誉の負傷ではないんだ」
ヴィクトルの傷は勝者の傷だ。
国境を死守し、人々を護り、この国を救った英雄の傷だ。
だが、ルカの傷は違う。
「僕は戦場にいたわけじゃない。ただ自分の実家にいただけだ。国や民を守るために最前線で戦った、偉大な義父上とは全く違う」
ルカに刻まれたのは敗者の傷だ。
疎まれ、蔑まれ、貶められても何一つやり返すことはできなかった。
弱くて情けない、負け犬の傷だ。
誇るべき傷と恥じるべき傷を、同列に語ることなんてできない──。
そう思いながら、ルカは自分でも自分の心がわからなくなる。
アレクシアが傷の痕など気にするような性格でないことは知っている。
彼女はルカの傷をいたわりこそすれ、蔑んだり見損なったりするような人ではない。
よく知っているのにどうして、自分はこんなにも引け目を感じているのだろう。
英雄の父と高貴な母を持ったアレクシアに比べて、自分の生い立ちが粗末すぎることを改めて思い知るからだろうか。
ルカは父親に守ってもらえず、継母に虐げられた。
ただ生まれてきただけで嫌われた。ただ生きていただけで激しく憎まれた。
この傷は、ルカが誰にも愛されない子供だったあかしなのだ。
「……」
どう言えばいいのかと迷って、アレクシアは端正な口を結んだ。
戦場ではなく自分の実家にいたのに負傷する方が悪質ではないかと思うし、その傷はあの元男爵夫人に負わされたものだろうと問い正したい。
悪いのはあの卑劣な女であって、ルカが気に病むことは何一つないと言いたい。ルカを苦しめるあの女を、今からでも同じ目に遭わせてやりたい。
思わずにぎった拳を理性で収めて、アレクシアは静かに願った。
「もう一度、見せてくれ」




