第148話 一瞬の恋と一生の愛
白い鳥が青空に羽ばたいた。
風が吹いて、雲が流れる。澄んだ蒼穹に大陽が耀い、晴れやかな光を燦々と投げ落とす。
周囲の山並みは一面、鮮やかにめかし込んでいた。
桃に桜、ミモザにスイセン、プリムラに満開のクロッカス。
季節の花々が色とりどりに咲き誇って、まるで若い二人の未来を祝福するかのように華やかに、辺境の大自然を彩っていた。
春は大陸のどこにも訪れている。王国中を平等に包んでいる。
だが今日この日のリートベルク辺境伯領ほど、明るい春のひだまりに満ちた場所は世界のどこにもなかった。
「お二人とも! おめでとうございます!」
華やかに着飾っていたのは野山だけではない。
教会の前に集まった領民たちもまた、とびきりのおしゃれに身を包んでいた。
手持ちの中で一番上等なシャツや、とっておきのベスト。一張羅のワンピース。
この地方の民族衣装である、羊の梳毛を織ったスカートを穿いた少女たちの姿も多かった。
いたいけな少女たちはスカートをなびかせ、結婚を祝う歌を口ずさみながら、籠に入れた花びらを街道に撒いていく。
色とりどりにはためくスカートの、独特の格子柄の中にはひとつだけ、鋭利な刃物で切り裂かれた傷を丁寧に縫い直した跡があった。
縫い目をそっとなぞりながら、少女は忘れられない記憶を思い起こした。温もる胸を押さえながら、二人の友人たちと手をつなぐ。
「おめでとうございます……お嬢様!」
教会での挙式の後は、集まった領民たちに向けて大量の婚礼料理が饗された。
ハンスら城の料理人一同はもちろんのこと、元ヴァルテン家の料理長だったヨハンも大いに腕をふるった、特製の祝い膳である。
色とりどりのクロスがざっと広げられる。カラフルな食器と明るい色の装花が心をはずませる。
春らしいテーブルセッティングに次々と並べられるのは、香ばしくローストした牛肉。春野菜をたっぷり詰めた鶏の丸焼き。魚を揚げたシュニッツェルに、多種多彩なソーセージの盛り合わせ。今が旬のベリー類をふんだんに敷き詰めた大きなタルト。木の年輪を模して長寿と繁栄の願いを込めた樹木のケーキは、結婚式には欠かせない定番の縁起物だ。
特別に高級な馳走ばかりというわけではないが、専属の料理人たちが心をこめ、腕によりをかけて作り上げた逸品である。
領民たちは喜んで相伴にあずかりながら、舌鼓を打った。
「なんだこれ、うまっ!」
口にした者たちが次々と驚いているのは、豚肉の林檎酒煮込みだった。
昨年ルカが初めて試作して以来、城ではすっかり定番のメニューになっていたが、町の人々にふるまうのは初めてだ。
領民たちは美味い美味いと喜びながら、自分たちも家で作ってみようと話し合っている。
この地方に新たな定番料理が生まれた瞬間だった。
葡萄酒に林檎酒、蒸留酒も樽ごと提供されていた。子供たちには果実をその場で絞ってジュースを作る。
結婚を祝う言葉を合図に、あちこちで手に持った杯が高く掲げられた。
一気に飲み干し、喉を潤し、人々は顔を見合わせてどっと笑う。
空には好天が、野には笑い声が、絶えることなく満ちていた。
山々は風に乗せて、桃色の花吹雪を散らす。
人々は祝詞に乗せて、籠いっぱいの花びらを撒く。
天にも地にも、鮮やかなフラワーシャワーがひらひらと舞い踊った。
「忘れられない日になったな」
「うん」
和気あいあいと盛り上がる領民たちをながめながらアレクシアは相好を崩し、ルカも嬉しそうにうなずいた。
「みんながこんなにお祝いしてくれるなんて、夢みたいだ……」
悲しくないのに、涙がこぼれそうだった。
言葉では言い尽くせないくらい幸せで、こんなに幸せになれたことが信じられなくて、ただ胸が詰まった。
ルカは潤んだ目をぬぐって、その場に片膝をついた。
人生で一番幸せな日に、涙は似合わない。
「どうか一曲、お相手を」
「ああ」
さし出した手をアレクシアが取り、二人はそろって前に進み出た。
結婚式といえばダンスがつきものだ。
最初の一曲は新郎新婦の二人だけで踊ると決まっているため、参列者たちは主役が踊り始めるのを今か今かと期待の目で待ち焦がれていた。
「すまない。練習したのに……上達しなくて……」
「大丈夫だよ。僕に任せて」
アレクシアはすまなそうに詫びたが、ルカは晴れ晴れと笑った。右手でアレクシアの手を取り、左手は腰に添えて、彼女の体を支える。
ぎこちなく踏み始めたステップは、すぐに軽快なフィガーに連なった。
アレクシアはダンスは相変わらず苦手だ。苦手なままなのだが、ルカはアレクシアの癖を完全に把握し、先回りしてミスを防ぎつつ、上手くリードしてくれた。
攻撃力の高いロンデを完璧に避け、殺傷力の高いスイングを的確にかわして、逆に優雅に見えるよう、巧みに引き立ててくれる。
彼のリードに身を任せているだけで、肩の力が抜けていくのをアレクシアは感じた。驚くほど踊りやすくて、気持ちがいい。
「上手だよ。とっても綺麗」
大勢の人間の前で踊るのは、王宮でのパーティー以来だ。
あの時も合っていた息が、今ではさらにぴったりと合うようになった。
ステップの正確さや振り付けの違いは気にせずに、ただ心の赴くままに体を動かすうちに、花嫁の美しい顔がさらに美しく笑みくずれた。
王宮のパーティーの時の作った表情とは違う、心から楽しそうな破顔一笑。
「お嬢様、きれい!」
「お二人とも素敵です!」
「いいぞ! ご両人!」
くるくると連続でターンする新郎新婦に、素直な歓声がどっと湧いた。
演奏が終わりに近づくにつれ、領民たちはそわそわと浮き足立つ。
最初の一曲の最後の一音が奏でられた瞬間、割れんばかりの拍手が春の野を埋め尽くした。
続けて流れ出す二曲目に合わせて、人々も互いに手を取り合い、軽やかに踊り出す。
うっとりと見つめ合って、ロマンティックに踊る恋人たち。輪になってにぎやかに回る家族連れ。パートナーを次々と入れ替えて、自由気ままに踊る友人たち。
庶民の結婚式ではこのまま夜を徹して踊りあかし、朝まで盛り上がることもめずらしくない。
年齢や性別や職業の貴賤に関係なく、誰もが手を取り、肩を組み、体を揺らして、思い思いにダンスを楽しむのだ。
ファーストダンスの大任を無事に終えた新郎新婦は、そんな人々を見守りながらほっと一息をついていた。
ふと聞き覚えのある曲を耳が拾って、ルカはつぶやく。
「……あっ、旋律……」
誰ともなく口ずさみはじめた古の歌が合唱になり、輪唱になりながら、宴ににぎわう丘を丸ごと包んでいた。
この地の由来でもある、旋律だ。
歴史の趨勢の中に滅び、消えていった先人たちの王国の、今は廃れた古語で綴られた歌。
秋の日に豊穣を寿いで歌われる旋律が、春の日に未来の主君の婚礼を祝って奏でられていた。
まるで悠久の過去と現在とをつなぐようなメロディーが、しみじみと胸を打つ。
ルカは吸い寄せられるように、重ねた手の先を見つめた。
昨日まで婚約者だった最愛の女性は、今は"妻"としてとなりにいてくれる。
「愛している、アレクシア」
──永遠に君だけを愛している、とささやく声に、アレクシアはどんな花よりも明るい笑みを咲かせた。
「君に出会えて、僕は本当に幸せだ」
一瞬で、彼女に恋をした。
一生、彼女を愛すると誓う。
「ああ。私も……」
幸せだと答えるはずだった返事は、降ってきたキスに捕らえられた。
愛の言葉を唇の中に閉じ込めて、ひとつの吐息をふたりで分けあう。
北方に広がる湖は青く澄みながら、晴れた空とそびえる山々を鏡のように写し取っていた。
桃色にけぶる花霞の中に、黒衣の城の尖塔が浮かび上がる。
いつまでも尽きることのない祝福の詩を乗せて。
歌の山は悠然とそびえていた。




