第147話 結婚式(2)
山の一部では雨が降っていたらしい。
まだしずくの残る大気中に光が屈折して、太陽とは反対側の空に、七色の虹がくっきりと現れる。
いつもならすぐに消えてしまうはずなのに、虹はいつまでも上空にほとぼっていた。七色の帯が大きな半円形を描いて、山と山とをつなぐ架け橋のようにきらめいている。
まるでこの日のために天が特別に用意してくれたような、晴れやかな陽光に恵まれた日だった。
浮かぶ雲もまた虹のように、鮮やかな色をまとっていた。
彩雲の下を新緑が芽吹き、新緑の中を春風がそよぐ。春風に乗って蝶が舞い、蝶は軽やかに川を渡る。澄んだ川に花筏が流れ、水面のきらめきを受けて彩雲がいっそう輝いた。
堅牢な城塞に守られた辺境伯領の全域では、領主の一人娘であるアレクシアの結婚を祝って、町全体が慶祝の色に染まっていた。
遠い王都では「野蛮令嬢」と恐れられているらしい彼女も、リートベルクの民にとってはかけがえのない「私たちのお嬢様」だ。
その大切な令嬢の門出を祝福するため、民たちは気合いを入れて街中を飾りつけた。
家々の窓辺に、軒先に、径に、荷馬車を曳く馬たちのたてがみにまで色とりどりの花があしらわれて、祝祭の日を華やかに寿いでいた。
「しかし、お嬢様ならもっと高位の家からご夫君を迎えてもおかしくないと思ったが……」
「ああ、意外なお相手だったな……」
領民たちの間では、次期領主であるアレクシアの夫となる男が、廃絶になったばかりの男爵家の庶子だという話題でもちきりだった。
ただでさえ侯爵位に等しい辺境伯家と、新興の末端男爵家では家格が釣り合わない。
それなのに新郎は平民の血が流れる私生児である上に、すでに実家は取り潰されているというのだから、にわかには信じられない話だ。
「いや、しかし……旦那様がそんな話を隠しもせず正直に公表しているのなら、むしろ婿殿に非はないということでは?」
長年この地を統治する辺境伯ヴィクトルは、領民たちにとっては信頼と尊敬に値する偉大な領主である。
その主君が認めたということは、婿となる男は家族に迎え入れるのに何ら問題はない人物だということだ。
「なんでも婿殿はうちのお嬢様と結婚するために、あえてご自分の爵位を継がなかったって話だよ」
「そうか。貴族の当主になったら別の家の籍には入ることはできないもんなぁ」
「愛のためなら爵位を捨てるのも辞さないなんて、見上げた覚悟じゃあないか!」
感心する人々の中に、昨年の晩夏にリートベルク収容所が奸賊に襲われた際の話が舞い込んだ。
凶悪なならず者たちが湖上に建つ監獄を襲撃し、破壊し、辺境伯領を動揺と恐怖に巻き込んだ事件の衝撃は、まだ人々の記憶に新しい。
花婿はあの事件の際、身を挺してこの地と領民を守った功労者でもあるらしいと聞いて、民たちの輪からは称賛の声があがった。
「そりゃあ、いいお方をお選びになった!」
「うちのお嬢様のお目は確かだな!」
人々は互いに顔を見合わせて、満足そうにうなずく。
さらに花婿の実家の男爵家はすでに爵位を返上し、貴族ではなくなったものの、莫大な財産は彼がすべて相続したこと。
そしてその巨額の資産を惜しみなく使って、近年の悩みの種でもあった街道の大改築を手がけているのだということを聞いて、感嘆はますます大きくなった。
「婿入り道具が大規模な新路だとは、景気がいいねぇ!」
そんなこんなで、身分差のある結婚にも関わらず領民の間から反発の声はほとんどあがらなかった。むしろ諸手を挙げて祝福されたと言っていい。
「そうじゃあ、ここじゃあ……なつかしいのぅ……」
老人たちが杖をつきながら、ゆっくりと丘を上がってくる。
結婚式の会場となる教会をしみじみと見上げて、禿頭の老爺と白髪の老婆が感慨深そうに顔を見合わせた。
「旦那様と奥様の結婚式はなぁ、当時再建されたばかりのこの教会で行われてなぁ……。名門公爵家から嫁いでいらしたという奥様は、それはそれは目もくらむほどにお美しくてなぁ……」
「ああ、よーく覚えておる。あの時はリートベルクに天使が嫁いできたと、そりゃあ大変な評判になったもんじゃあ……」
三十年近くも前のことになるヴィクトルとルイーゼの結婚式を知る長老たちは、当時の光景を思い返しながらなつかしんだ。
──かつて同じ教会でヴィクトルと愛を誓ったルイーゼは、その可憐な美貌で領内の話題を独占した──。
そんな年寄りの昔語りを話半分に聞き流しながら、若者たちは思わずぷっと吹き出した。
「いやいや、天使って!」
「そりゃあさすがに大げさだろ!」
老人はとにかく過去を美化しがちな生き物だ。
昔は良かったとか、今の若い者はけしからんとか、説教じみた話はもう聞き飽きている。
そりゃあ公爵家のご令嬢のような殿上人は庶民に比べたら洗練されているのだろうが、目もくらむだとか、天使のようだとかはいくらなんでも言いすぎだ。思い出が補正されて、誇張されているに決まっている――。
そう冷やかす若者たちの目前で、警備についていたユリウスが教会の入り口に進み出たかと思うと、クラウスとマリウスが左右の扉を同時に開いた。
鳴りやまない拍手の中、寄り添いながら外へと出てきたのは、今日この日の主役である新郎新婦。
ふわりと春風に揺れたのは、クラシカルなデザインのウェディングドレスだった。
黒檀の髪が純白の衣装とよく映えている。すらりとした長身がレースの引き裾とよく似合っている。優美な瞳の虹彩は、胸元にきらめく見事なサファイアとよく似た青の色。
「「「天使だぁ……!!!」」」
全員同じ感想を同時に叫びながら、若者たちは腰を抜かしてその場にへなへなと座り込んだ。
品のいい上質なドレスを着こなし、大粒のサファイアのネックレスを身につけたアレクシアは、まるで天使が地上に降り立ったかのような美貌の持ち主だった。
アレクシアは教会の前に集まった人々を見て微笑み、そっと手を振る。
そのはにかんだ笑顔もまた透き通るように美しくて、誰もが目を奪われずにはいられなかった。
「ああ、奥様じゃあ……!」
「あの時の奥様によく似ておられる……!」
老人たちも感極まった。
会場の教会も花嫁のドレスも当時と同じせいだろうか。アレクシアの顔立ちはなおさら母と瓜二つに見える。
まるでかつての結婚式の日が、今日もう一度再現されたかのようだった。
「奥様にまたお目にかかれたようじゃあ……」
腰を抜かした若者たちとは対照的に、老人たちは曲がった背筋がみるみる伸びていく。弱った足腰さえ矍鑠として、杖を取り落としたことにも気が付いていなかった。
「うわぁ……お嬢様、お綺麗すぎる……!」
息をするのも忘れてしまう。目をそらすのももったいないと思ってしまう。
うっとりと引き込まれながらも、若者たちはふと我に返り、チッと舌を打った。
「……くっそ。もう人のものなのかよ……!」
「どこの馬の骨か知らねーが、こんなお美しいお嬢様を独り占めするとはふてぇ野郎だ……!」
許せん爆発しろ──というやっかみを込めて、人々はアレクシアのとなりに立つ花婿をきつく睨みつけた。
──え? こっちも天使じゃない?
花嫁の腰に手を添えて笑んでいるのは、まるで幸福という言葉を生きた人間にしたような男だった。
陽光と溶け合って波打つ蜂蜜色の髪は一本一本がキラキラして、純金のように明るくきらめいている。
あどけなさの残る整った顔立ち。澄んだ海のような大きな双眸。引き締まった体躯に映える正礼装はつやのある生地で織られているが、服の光沢以上に本人がまぶしいほど光輝いていた。
「やだ……カワイイ……っ!」
「何? この気持ち……!?」
トゥクンと高鳴る胸を押さえた人々は、なぜか口調も変わっている。
花嫁を愛おしそうに見つめる目は、彼女がつけている指輪の宝石と同じ海の色。
その花婿本人がつけている指輪の宝石は、花嫁の目と同じ青玉の石。
彼の極上の笑顔から、注ぐ視線から、添えた指先から愛情が尽きることなくあふれて、見ているこちらにまで伝わってくるかのようだった。
「へぇ……彼、うちのお嬢様のこと本当に好きなのねぇ……」
「そうよねぇ。じゃなきゃお嬢様は任せられないわぁ……」
口調が戻らない。
こんなにもありったけの幸せをまるごと煮詰めたような顔をされては、妬むに妬めない。
むしろ邪気のない笑顔に無性に絆されてしまって、嫌でも祝福せずにはいられなかった。
「はぁぁ……お美しいお二人だのぅ……」
「ありがたやありがたや。寿命が延びるわぁ……」
新郎新婦を拝みながら、老人たちが手を合わせる。
よい冥土の土産になった。もう思い残すことはない──と彼らは涙しながら天を仰ぎ、未来の領主夫妻の前途に幸あらんことを祈った。




