第136話 ヘルミーネの末路
裁判が閉廷を迎え、大法廷の錠がふたたび閉じられた後。
アウグストは速やかにヘルミーネと離婚した。
平素は気だるい倦怠感をにじませ、すべてをあきらめたような沈鬱な顔つきをしたアウグストだが、さすがに今回ばかりは決断も実行も早かった。
王立裁判所での一回目の口頭弁論の後、すぐさま別居を申し立てたアウグストは、以来一日たりとも妻と一つ屋根の下で過ごすことはなかった。
そもそもアウグストとヘルミーネの夫婦仲は、とうの昔に冷え切っていたのだ。
実の子と信じていたマティアスの存在だけが唯一の鎹だったはずだが、その息子との親子関係が否定された今となっては、もはや最後の情も義理も枯れ果てたというのが正直なところだろう。
ヘルミーネはもちろん離婚などという外聞の悪いことは嫌だと強固に抵抗したが、彼女に決定権などあるはずもない。
話し合いましょうと粘るヘルミーネを激しく拒絶し、話すことなどないときっぱり言い渡して、アウグストは離婚状の作成を進めた。
「お互い様よ! あなただって結婚前にもう子供を作っていたじゃない!」
ヘルミーネは不義が明らかになった直後こそひたすらアウグストに謝っていたものの、慣れないことは続かないものなのらしい。そう開き直って逆に夫を責め出すのに、時間はかからなかった。
「私だって同じことをしたって! 裏切りにはならないわ! そうでしょう?」
説明するのも面倒だと言いたげな顔で、アウグストはため息をついた。
アウグストには確かに婚約前から私生児がいたが、それを隠したことは一度もない。
むしろルカの存在を受け入れてくれる女性をこそ、妻にと求めたのだ。
ヘルミーネは初めて会った見合いの席では猫を何匹もかぶり、アウグストの連れ子を母として可愛がることを約束して婚約の話を進めた。
そのことと、結婚前に他の男の子供を孕むことのいったい何が「お互い様」で「同じこと」なのだ。
そもそもヘルミーネとてマティアスの血液鑑定をさせまいとあんなにも必死だったのだから、不貞が有責であることがわからないはずがない。
「い、嫌よ! 身一つで追い出すなんてひどすぎるわ!」
いくら詫びても、泣きついても、夫婦関係の修復は無理だと悟ったらしいヘルミーネが、次に要求してきたのは財産分与だった。
「たとえ離婚しても、長年婚姻関係にあった事実は変わらないでしょう? あなた、せめて男爵家の財産を分けてちょうだい! そのくらいはしてくれたって……」
「財産?」
アウグストは鼻で笑い、妻だった女を冷たく見下ろした。
「財産はすべてルカに譲る。──私の《《一人息子》》にな」
「……!」
一人息子、はヘルミーネ自身がたびたび言っていた言葉だ。
ルカをあからさまに疎外し、存在を無視し、マティアスだけが男爵家の息子なのだと公言してきた。
「あなた……ごめんなさい! もう許して……!」
ヘルミーネがどれほど泣き崩れ、許しを求めても、アウグストは決して折れなかった。
妻との離別が決まったことで、アウグストはこれまでよりも格段に生気を取り戻したようだった。
唯々諾々《いいだくだく》とヘルミーネの要求をのんできた今までとは違い、一片の容赦もなく彼女を拒絶する。
「これからは心を入れ替えます! 貞淑な妻に、優しい継母になります! あなたのこともルカのことも大切にしますから、どうか見捨てないで!」
そんな言葉は、婚約した時にも聞いた。
そして「貞淑な妻」も「優しい継母」も、何一つ実現することなどなかった。
「二十年も夫婦でいた絆は、そう簡単になくなったりしないわ! あなた、お願いです。どうかもう一度私とやり直し……」
「やり直せるはずがない。自分のしたことを考えるがいい」
連れ子を慈しむという約束も守らず、婚家の血を継ぐ跡継ぎを産むこともなかったヘルミーネは、ただヴァルテン家に害をもたらすだけの存在でしかなかった。
「私は不幸になっても仕方のない愚かな人間だが……ルカにはただ申し訳ない……。おまえのような最低の女と結婚したのが間違いだった──」
アウグストはすがりつくヘルミーネを一顧だにすることなく突き放し、速やかに離婚状を提出した。
理由が理由なだけに、不受理にされることもなくあっさりと申請は通り、二人は晴れて他人となった。
ヘルミーネの膨大なドレスや大量の宝飾品は没収され、ことごとく売却されることが決まった。かつてヘルミーネが、彼女の義母にあたる先代の男爵夫人の死後にそうしたように。
今回取り上げられた贅沢品はヴァルテン家の資産を使って購入したものだけに限るが、それは実質、ヘルミーネの持ち物のすべてと言えた。嫁入り前から所有している品などほぼないに等しい。
売却された品々は一流のものばかりでそろえていただけあって、どれもすぐに買い手がついた。売れずに廃棄されたのはマティアスを描いた大量の絵画くらいだ。
その利益は並の貴族の数年分の収入に相当するほどの莫大な額にのぼったが、すべてヴァルテン家の正当な相続人──つまりルカの所有する財産に合算された。
男爵夫人の称号を剝奪され、ほとんど着の身着のままヴァルテン家を追放されたヘルミーネは、実家であるシェンバッハ伯爵家を頼った。
現在の伯爵家の当主はヘルミーネの兄。この兄は昔から、末妹であるヘルミーネと折り合いが悪かった。
幼い頃からわがままで身勝手だったヘルミーネは、成長しても高慢で意地が悪く、家族もほとほと手を焼いていたのだ。
両親である先代の伯爵夫妻は早々にさじを投げたものの、長兄にあたる現伯爵はたびたび苦言を呈し、しばしばヘルミーネと激しく対立してきた。
そんな悩みの種の末娘が、富豪で知られるヴァルテン家の若当主に嫁ぐことが決まった時は、家族も使用人一同も大いに胸をなでおろしたものだった。
ヴァルテン家は家格で言えばシェンバッハ家よりも格下ではあるが、資産で言えば玉の輿と呼んでいい結婚だった。
ヘルミーネの子マティアスは異母兄を抜いて男爵家の継嗣となり、ヘルミーネは後継ぎの母としてさらに安泰な地位を得た──はずだった。
しかし輿入れから二十年も経った今、そのマティアスが罪人として拘束された。
彼を被告とする貴族裁判が開かれたことを機に、ヘルミーネは夫から離縁を言い渡された。
離婚の理由は、マティアスの不祥事ではない。
ヘルミーネの不祥事だった。
王太子エドガーも臨席する大法廷での口頭弁論にて、マティアスはヴァルテン男爵の子ではないこと、実の父親は当時伯爵家で雇い入れていた下男であることまで、すべて詳細に調べ上げられて明らかにされたのだ。
報告を受けたシェンバッハ伯爵は、ヘルミーネへの怒りと失望にわなないた。
「なんということを……してくれたのだ……!」
不義の子を夫の子と偽って、二十年間も騙し続けていたなどと言語道断。
シェンバッハ家の名誉を地の底まで落とす、前代未聞の不行状だ。
裁判の直後から、伯爵家は身持ちの悪い娘を育てた不名誉な家として嘲笑にさらされ、屈辱的な醜聞にまみれる事態となった。
「この面汚しが! おまえは我が家の恥だ!」
シェンバッハ伯爵はそう激怒し、ヘルミーネが実家に出戻ることを断固拒否。伯爵家の門さえ一歩もまたがせることはなかった。
男爵家の面目を潰し、伯爵家の顔に泥を塗ったヘルミーネの不貞。
身内だからといってかばえるはずがない。
兄としても伯爵家当主としても、とうてい看過することなどできない。
「お兄様! 待っ……」
泣いてすがるヘルミーネの前に、伯爵は一枚の紙を突きつけた。
国王の御璽が押されたその書類は、シェンバッハ伯爵家に対して、マティアスに課せられた賠償金の一部を負担することを求める通達だった。
膨大な賠償金は、マティアス一人ではとても払いきれない額である。
ヴァルテン家は血縁関係が否定されたことから支払い義務を免除されたが、シェンバッハ伯爵は間違いなく彼と血のつながった伯父だ。
伯爵自身が罪に問われたわけではないが、親族としていくばくかの連帯責任を負わされた──という形になる。
もちろん伯爵が甥の起こした事件に関与していないことは明白であるため、請求されたのは賠償金のうちの一部だが、それでも伯爵家にとっては手痛い出費となる大金だ。
シェンバッハ伯爵は約二十年前、自身も家庭を持ったり家督を継ぐための事業に精を出したりと多忙を極めており、年の離れた妹の軽率な行いに気付くことができなかった。
もっとヘルミーネを厳しく監督していればと、どれほど悔やんでも悔やみきれない。
悔恨の思いを胸に、伯爵は甘んじて王家からの請求を受け入れた。
「……これはおまえに対する手切れ金だと思え」
伯爵は苦々しそうにそう吐き捨てて、閉ざされた門の奥からひらりと書類を投げ落とした。
「二度と顔を見せるな! この恥さらしが!」
シェンバッハ伯爵はヘルミーネをきっぱりと拒絶し、文字通り門前払いした。
これによりヘルミーネは婚家からも、実家からも見捨てられた形になる。




