第131話 父との別れ
「父上。本当にいいのですか?」
「ああ」
さすがに父の今後の生活が心配になったルカがそう尋ねても、アウグストは淡々とうなずくだけだった。
「ルカ、私はおまえに何もしてやれなかった」
実の父と子なのに、こうして対峙すること自体が相当に久しぶりだ。
アウグストとルカはこれまで、二人きりで会話する機会など皆無と言ってよかった。
「許してくれなどとは言えない。おまえはさぞかし私を恨んでいることだろう」
「……」
アウグストはヘルミーネのように、あからさまにルカを差別して虐げたわけではない。
マティアスのように威張り散らして、ルカを理不尽に踏みにじったわけでもない。
本人の言う通り、アウグストは何もしてくれなかった。
こうやって向き合って話した思い出などなかった。同じ家に暮らしていたのに目すら合わせてくれなかった。
以前ヴィクトルがアウグストのことを「薄情で卑怯だ」と評したことがあるが、今はそれがよくわかる。
アウグストは不幸な結婚をして辛かったのだろう。当主として夫としてずっと苦しかったのだろう。
だが父親としては間違いなく薄情で、卑怯だった。
「父上……僕は……!」
マティアスは弟ではなかった。つまりルカにとって血をわけた存在は、この世でただ父一人だけなのだ。
その父に無視同然に見捨てられて、辛くないはずがなかった。
守ってほしかった。愛してほしかった。
父親として、継母の虐待からかばってほしかった。
たった一度だけでいい、大切な我が子だと言ってほしかった。
ルカを害するなと盾になって止めてほしかった。
兄弟を差別するなと妻に意見して、戦ってほしかった。
叶えてはもらえなかった切望に、幼い頃からの悲しみが降り重なる。
届くことのなかった積年の願いをこめて、ルカは父に告げた。
「僕は――生まれてきて良かったです!」
家族には愛されなかったけれど、愛する女性に出会えた。
親は守ってくれなかったけれど、守りたいと思える場所にたどりつけた。
実の父に向き合ってはもらなかったけれど、心から尊敬できる義父に抱きしめてもらえた。
それだけで、生まれてきた意味はあった。
生きていて良かったと、心から思えた。
「僕はもう幸せです。だから父上、この世に生まれてこられたことを感謝しています」
「…………!」
アウグストのきつく噛みしめた口元が、わなわなと震えた。
息子のどんな不満も、真っ向から受け止めるつもりだった。
守ってやれなかった事実をどれほど罵られようと、長年の恨みつらみをぶつけられようと、それが自分に与えられるべき当然の報いだと思っていた。
それなのに──感謝していると言ったルカの言葉に、自分は本当に取り返しのつかないことをしてしまったのだと、アウグストは初めて本当にわかったような気がした。
愛の反対は憎しみではなく、無関心だという。
アウグストはもう息子にとって、憎むにすら値しない存在なのだ。
そういう存在に、自分から成り下がってしまったのだ。
「すまなかった、ルカ……! 私が悪かった……!」
アウグストの口から初めて、謝罪の言葉がこぼれた。
続いて落ちくぼんだ目元をしとどに濡らして、とめどなく涙があふれた。
「……私が弱かったのだ。ヘルミーネの剣幕に流されるままに、おまえが虐げられても見て見ぬふりをしてしまった……。おまえを大切に育てると……そう彼女に誓ったはずなのに……」
懺悔するように語るアウグストの閉じた瞳には 「彼女」の姿が見えているかのようだった。
永遠に若いままで時を止めてしまった、ルカの生みの母。
彼女の最期の願いは、生まれた子供を守ることだった。
──その子をお願いします。私の分まで大切に育ててください──
そう頼んだ彼女の真剣なまなざしも、固くにぎった手の感触も、もちろんだと答えた自分の声さえ、アウグストは今でもはっきりと覚えている。
それなのに、必ず果たすと誓ったはずの約束はアウグストがヘルミーネとの結婚生活に疲弊する中ですり減り、摩耗し、いつしか遠いものになってしまっていた。
たった一人の息子はアウグストの手を離れた場所で、自分の力で幸せになった。
ルカはもうアウグストの愛を欲していない。
父親の庇護を求めていた幼い子供は、もういない。
ルカはすでに婚約の締結にあたって、リートベルク辺境伯の名「ヴィクトル」をミドルネームに授かったと証言していた。
かつてヘルミーネの要求に負けてルカから剥奪したミドルネーム「アウグスト」は、もはや戻る場所などどこにもない。
息子にはすでに、自分よりもはるかに敬愛する「父」がいて、アウグストが入り込む余地などどこにもないのだ。
何もかも自業自得だった。
アウグストの弱さと愚かさが、唯一の実子との訣別を招いたのだ。
悔恨の涙が止まらずにあふれる目元を拭って、アウグストは遠い彼方を仰いだ。
「地位も財産も、もはや何も受け取る気はない。そんな資格など私にはない。……ただ帰りたいのだ。私の人生でもっとも幸せな日々を過ごした場所に……」
無垢な平民の娘と出会い、愛し愛されて、ルカを授かった街。
二十年間も連れ添ったヘルミーネとは険悪な関係しか築けなかったアウグストにとって、亡くなった「彼女」だけが人生でただ一人、心から愛した相手だった。
「辺境伯令嬢には感謝してもしきれない。あの方が真実を突き止め、明らかにしてくださったおかげで、私は解放された……」
ヘルミーネの不貞を知った直後こそ衝撃を受けたものの、おかげでアウグストは妻との離婚を決断することができた。
真実を知らずに鬱々と生きていた日々よりも、何もかも失った今の方が、ずっと心が軽い。
アウグストは澄んだ面持ちでルカを見た。
朔風に揺れる息子の髪は、愛した女性と同じ、混じりけのない蜂蜜の色だった。
「ヴァルテン家の財産はすべておまえのものだ、ルカ。金で私のあやまちが償えるなどとは思ってはいないが……せめておまえの思うように使いなさい……愛する人との、これからの人生のために……」
「……」
ルカは押し黙る。
もう何も言えなかった。
これ以上ルカが援助を申し出たとしても、アウグストは決して受け取りはしないだろう。
アウグストの身につけている衣服や靴、持っている貴金属や懐中時計などを売り払えば、生涯働かなくともつつましく暮らしていくことはできるはずだ。
もはや贅沢な暮らしには何の未練もないらしい父の最後の願いが、母との思い出の詰まった場所に還ることなら、引き止めることはできなかった。
「さようなら、父上……」




