第125話 一番大切な人
ヘルミーネが絶句していると、マティアスが勢いよく立ち上がった。
「あ、兄上!」
媚びた目つきで、マティアスはルカににじり寄る。
「たとえ血のつながりがなくても私たちは兄弟です! そうでしょう、兄上? 私たちは共に仲良く育ってきたではありませんか!」
「共に? 仲良く? 僕にはそんな記憶はまったくないけれど」
あっさり否定されても、マティアスはめげなかった。
たった今、ヴァルテン家の全財産を相続すると王太子直々に認められたルカに食らいつき、何が何でも手放すまいと、必死で情に訴える。
「兄上は私がナターリアと婚約したことを恨んでおられるのですね!? 違うのです! あれはナターリアが私に言い寄ってきて仕方がなく……。い、いいえ、兄上の婚約者を奪う結果になったことはお詫びします! 兄上に未練があるなら、あの女は譲っ……」
「ないし、不要だ。クレーフェ伯爵令嬢にも失礼だ」
王宮のパーティーであんなにも大々的に愛を誓った相手をあの女呼ばわりとは、ナターリアが気の毒になってくる。
彼女も浅はかではあるのだが、婚約者が有罪判決を受けて没落しては立つ瀬がないだろう。
婚約破棄したとしても白い目で見られるのは間違いないし、社交界で噂の餌食にされるのも避けられない。
「兄上、冷静になってください! 血縁関係がないと知った途端にそんな冷たい態度を取らなくてもいいではありませんか! 私たちは家族でしょう!?」
「血縁関係があると思っていた頃からずっと冷たい態度だった君には言われたくないし、僕たちは他人だ」
にべもない物言いに、マティアスは「兄上のくせに生意気な」という罵倒をぐっと飲み込み、ヘルミーネは必死に愛想笑いを浮かべた。
「た、他人だなんて水くさいわ、ルカ!」
「そうです、血のつながりなどたいしたことではありません! 私たちにはそんなものを越えた絆があるはずです! 兄上、たった一人の弟を見捨てないでくださ」
「僕は君の兄じゃない」
マティアスが言い終わらないうちに言葉を切って、ルカは厳しく突き放した。
「君は僕の弟ではない。僕たちは兄弟なんかじゃない」
ぞっとするほど冷酷な眼だった。
普段優しい人間ほど怒ると怖いという説を裏付けるかのような、芯から震え上がるほど冷たい声。
「アレクシアを傷つけようとしたことも、リートベルクを危険にさらしたことも、決して許しはしない。僕は君を軽蔑している。犯した罪を償ってもらうつもりだ」
きっぱりと糾弾する言葉に、傍聴席からは歓声があがった。
拍手する者もいれば、もっと言ってやれ! と煽る者もいたが、ルカはすでに気圧されて戦意を喪失した様子のマティアスにはそれ以上一瞥もくれることなく、王太子エドガーを見上げて一礼をした。
エドガーも深くうなずく。
「ルカ・ヴァルテン。先ほどの話の続きをしよう」
「はい、王太子殿下」
先ほどの話とは、ルカが唯一の相続人としてヴァルテン家の有する爵位と領地と財産とを継承するという件だ。
現在の当主はアウグストだが、彼は先ほど隠居する意向を表明している。
今すぐという話ではないにしても、遅かれ早かれいずれはルカが父からすべてを受け継ぐことになるはずだ。
エドガーがアウグストに視線を向けると、アウグストは深く一度、首を縦に振った。
やはり引退を撤回する気はなく、男爵家の今後についても口を挟むつもりはないらしい。
「殿下。領地と爵位と財産は、不可分ではありませんよね?」
「ああ、そうだ。君の意向はもう固まっているようだな」
「はい」
エドガーの指摘する通り、ルカはすでに心を決めていた。
純金の星を散りばめたような蜂蜜色のかぶりが、髪の一本すらも迷うことなく明るい光煕をはじく。
「まず男爵家の所有する領地ですが、すべて王家にお返しいたします」
おおお、と傍聴席がどよめいた。
傍聴人たちが漣のように揺れながら「領地を返上?」と驚愕にざわめいている。
「続いて、爵位の相続は放棄します。僕は男爵にはなりません」
「ヴァルテン男爵の子は君一人だ。君が拒否するということは男爵家は断絶することになるが、いいのか?」
「はい。承知の上です。ヴァルテン家は廃絶とし、貴族の地位を返上いたします」
さらに一段と大きいどよめきが傍聴席から沸き起こって、大法廷を波のように包んだ。
爵位や領地を喉から手が出るほど欲する者はあれど、あっさりと手放す者など聞いたことがない。
「自ら爵位を捨てるとは前代未聞だ。理由を聞かせてもらえるか?」
エドガーが興味深そうに問い、ルカははっきりと答えた。
「僕の婚約者はリートベルク辺境伯家の後継者です。夫婦はどちらか片方しか爵位を有することはできないと、王国法で定められています」
「辺境伯令嬢がいずれ当主として叙爵を受けるために、婚約者である君は自分の爵位を捨てるというのだな」
「はい」
ひとすじも迷いのない声が、法廷に響きわたる。
「婚約者は僕にとってこの世で一番大切な人です。愛する人と結婚できるのなら、僕は爵位などいりません」
傍聴席から悲鳴めいた歓声があがった。
「愛のために爵位を捨てるというの?」
「素敵! 恋愛劇のようだわ……」
「そんなに愛されている辺境伯令嬢が羨ましいわ……!」
貴婦人たちは顔を見合わせて、うっとりとささやいた。
家督は男子が継ぐものという風潮はまだまだ根強く、女当主の婿は「男のくせに情けない」と揶揄されることが少なくない。
いかに格上といえど、辺境伯家の婿になるよりは男爵家の当主になる方が男らしい生き方であり、一家一城の主となるのが男の本懐だと、持論を振りかざす者も多いだろう。
以前マティアスがクレーフェ女伯爵の夫になるより、自らがヴァルテン男爵になることを望んでいたのも、こうした価値観に由来するものだ。
しかしルカは愛する人との結婚のためなら爵位はいらないと言い切った。
家を継げない立場ならばともかく、相続できるにも関わらず放棄して婚約者を選ぶ彼は、女性陣にはあたかも架空の恋物語のように映ったらしい。
エドガーは腕を組み直して、ルカをじっと睥睨した。
「爵位は放棄、領地は返上か。ではヴァルテン家の財産はどうする?」
「相続します。辞退はしません」
ルカはきっぱりと答えた。
「ヴァルテン家の財産は、僕がすべて相続します」
「よかろう。君の希望は理解した」
エドガーは鷹揚に笑んだ。
目の前にいる青年は純真そうに見えるが、欲がないわけではないらしい。金など不要だとは言ったりしないところに、かえって好感を抱いた。
この裁判の行方は、議事録とともに国王に報告される。
ヴァルテン家の処遇については国王の公許を得た上で、正式に決定する運びとなる。
「陛下の意向はまたおって伝えよう。まぁ、反対なさることはないだろうが」
国とは与える時は慎重を期して渋るものだが、取る時は迅速で遠慮のないものだ。
領地を返納するというルカからの申し出を、王家が拒むはずもない。
由緒ある高貴な大貴族ならばいざ知らず、成り上がりの新参男爵家の廃絶ならば、国王も反対などせず許可を出すはずだ。
「とはいえ、一つの家を取り潰すとなれば煩雑な手続きは避けられない。すぐに片はつかないと覚悟して、しばし王都に逗留するのだな」
「はい」
エドガーはちらりと判事に目くばせした。
マティアスは自らの出生を知って衝撃を受け、すっかり茫然自失としている。ルカから兄弟ではないとはっきり拒絶されたこともあり、もはや抜け殻のように虚脱しきっていた。口頭弁論を続けても、質疑応答に耐えられる状態ではないだろう。
「双方ともにこれ以上の発言はないようだ」
「はい」
判事は手元の訴状に目を落としてうなずいた。
監獄襲撃事件の詳細についてはこの訴状にしっかりと綴られているし、被告側の言い分も聴いた。
提出された証拠を精査し、双方の主張を斟酌あるいは却下して、正当な判決を下すのが法の番人たる者の務めである。
秘書官が次回の期日を事務的に指定する。
判事はおもむろに木槌の柄を手に取った。
「これをもって、口頭弁論を終わりとする」
木槌が台座に打ち鳴らされる音が、大法廷に高らかに響いた。




