第122話 一羽のつばめが夏をもたらすのではない
この国には「一羽のつばめが夏をもたらすのではない」ということわざがある。
つばめの飛翔は初夏の到来を感じさせるが、一羽だけでは信憑性に欠ける。
一羽のつばめだけで夏が来たとは言えないように、一つの証拠だけで何かを断定することはできない。仮説を真実だと証明するにはもっと多くの証拠が必要だ――という意味だ。
アレクシアはそもそも王宮のパーティーに出席する以前から、ヘルミーネの人間性に疑問を持っていた。
当主の長男であるルカにミドルネームも許さず、従者もつけず、粗末な身なりで辺境に放り出すとはいったいどういう神経をしているのだと。
ルカの胸に酷い火傷を負わせたのも彼女だと推測される。
連れ子がいるとわかっている夫に嫁ぎながら、なぜ少しもルカの母親になろうとしなかったのかと、ヘルミーネに対して憤りを感じていた。
マティアスはそれでもルカの異母弟だ。まだしも誠実な男だろうと思っていたが、違った。
王宮のパーティー会場で、マティアスと直接対面したアレクシアは強い違和感を覚えた。
軽薄で虚言ばかりを吐くマティアスが、半分とはいえルカと血を分けた兄弟だとはどうしても思えなかった。
疑惑をぬぐえずにいたアレクシアがふと思い出したのは、かつて父のヴィクトルが初対面のルカと飲み明かした深夜に、ヘルミーネについて語っていた言葉だった。
『シェンバッハ家のヘルミーネなら私と同世代だ』
父は特にヘルミーネと親交があったわけではないが、年齢の近い令息令嬢の噂くらいは耳にしたことがあったようだ。
『昔からいたく評判の悪い令嬢だったな。高慢で意地が悪く、《《身持ちも悪い》》と……』
その評判について、気にかかるものがあった。
前半はいい。だが後半が引っかかるのだ。
高慢や意地が悪いというのはわかる。貴族の中には特権階級である驕りから、横柄だったり、高飛車だったり、人を人とも思わない性格をした人間もしばしば存在するものだ。
しかし、身持ちが悪い、というのは余り聞かれない。
特に若い未婚の女性であれば、美貌や教養と同様か、あるいはそれ以上に純潔と貞節が重要視される。
ヴィクトルは武骨な武人だ。華やかな社交界でかわされる噂話など、決して詳しいわけではない。
そのヴィクトルがヘルミーネの名を聞いて、すぐに思い出した風評の一つが「身持ちが悪い」なのだ。
貴族間の社交には明るくないヴィクトルですら耳にしたことがあるということは、それだけ有名な噂だということでもあり、真実味は強いと言える。
「身持ちが悪い」──その悪評は兄弟でありながらルカとまったく似ていないマティアスへの不信感と重なって、アレクシアの中に芽吹いた疑惑をより強めていた。
その疑念を裏付けるかのように、マティアスはルカと似ていないだけでなく、アウグストとも似ていなかった。
初めて足を踏み入れたヴァルテン男爵邸の、壮麗なダイニングホールで。
当主のアウグストのとなりの席に案内されたアレクシアは、繊細ながらも上品なアウグストの面ざしはどことなくルカと重なるが、マティアスとは重ならないことに疑いを強めた。
しかし、似ていない親子や兄弟などこの世にいくらでもいる。
外見や性格などで、血縁の有無は判断できない。
いくらヘルミーネに身持ちが悪いとの噂があり、限りなく怪しいと睨んではいても、真実は神のみぞ知る。
人は親子関係の真偽を証明する手段など、持ち合わせてはいないのだ。
そんな葛藤に揺れる中だった。
目から鱗が落ちるような画期的な研究報告は、思いのほか早く、アレクシアの目に飛び込んできた。
その翌日、オステンブルク公爵家での平和なお茶会を終えて、大図書館を再訪した時のことだ。
先に大図書館に来ていたルカが、再会してすぐに昂奮ぎみに伝えてくれたのだ。
四つの血種の発見と、その鑑定方法を記した研究論文を。
ルカはあくまでも医療行為の範疇として、輸血の精度が高められることと、より多くの人々を救命できることに期待して心をはずませている様子だったが、アレクシアはそれに加えて別のことにも思いを馳せていた。
(──これは使えるのではないか?)
この血種の鑑定をヴァルテン家の三人に対して行うことができれば、あるいは男爵夫人の不義を証明できる可能性があるのではないか──?
そう閃いてアレクシアは息を飲んだが、逸るのはまだ早い。
首尾よく鑑定を行えたとしても、望むような結果が出るとは限らない。
血はたったの四種類なのだ。同じ血種を持ちながら他人であることも、異なる血種を持ちながら親子であることも、いくらでもあり得る。
たとえばアウグストとマティアスの血種がどちらもA種だった場合、親子の可能性もあるし、他人の可能性もあるのだ。
鑑定の結果によっては、確実なことは何も言い切れないかもしれない。
疑惑を立証することのできる証拠には、ならない確率の方が高い。
それでも、一縷の希望があるのなら実行してみたかった。
何もせずにあきらめることはしたくなかった。
そう決意したアレクシアは、リートベルクに帰還して真っ先に、父のヴィクトルに話を持ちかけた。
『お父様、相談があるのですが』
話を聞いたヴィクトルは黒髭の生えた顎をさすりながら、なるほど、と神妙に相槌を打った。
『成功する保証はないが……おまえは挑戦したいと思っているのだな』
はい、とアレクシアは迷うことなくうなずいた。
『以前にお父様がおっしゃっていたことも勘案すると、決して無謀ではないと信じています。賭けに出る価値はあるかと』
切り出した内容は、言ってしまえば他家の父子関係に干渉する行為だ。
それも正攻法ではヘルミーネはまず鑑定など同意するはずがないから、裏から手を回してこっそり血液を採取するしかない。騙し打ちのようなやり口だ。
露見すればあまりにもこちらの分が悪く、非難はまぬがれない。
しかもそれだけ危険を冒し、労力を費やしても、期待するような結果は出ない可能性が高い。
リートベルクにとって利があるわけではない行動を、家長である父はさすがに承諾しないだろうとも思っていた。
しかし意外なことに、ヴィクトルは反対しなかった。
『いいだろう。おまえの思うように動きなさい』
反対するどころか、拍子抜けするほどあっさりと承認したのだ。
『言っておくが、一人で完遂しようなどとは思うな。目的を達成したいのなら、使えるものは躊躇なく使え』
『いえ。お父様の力を借りる気はありません。今回の件はすべて私の一任で……』
『何を甘いことを言っている』
『しかし……』
逡巡したのは、相談を持ちかけたアレクシアの方だった。
父の了承は得たかったが、力を借りようとの意図はなかった。
むしろリートベルクのためを思えば、父の名は極力伏せておきたいと思っていた。
もしも狙った成果が得られなかった場合――他家に過度の干渉をしたことが露見した場合――不利になるのはこちらの方なのだから。
しかしヴィクトルは一分たりと怖じなかった。
『当主などというものはな、責任を取るためにいるのだ』
ヴィクトルとしても、ルカを冷遇したヘルミーネに一泡吹かせてやれる可能性があるのなら、賭けてみたかったのかもしれない。
そのくらい父はルカを可愛がっていた。後には自分の名をミドルネームとして名乗ってほしいと、彼に望むほどに。
『失敗はしてもかまわない。だから、後悔はしないようにしなさい』
そうヴィクトルに背を押されて、アレクシアは覚悟を決めた。
……今にして思えば、だが。
あの時「あんな恥知らずな家族の元に二度とルカを返したくない」と語るアレクシアに対して、ヴィクトルは複雑そうな顔をしていた……ような気がする……。
もしかしたら父はあの日、気がついたのだろうか。
娘がルカのために無謀とも言える手に打って出ようとする根底には、いったいどんな想いが秘められているのかを。
だから後日、婚約の許しを得に行った時。ヴィクトルは二人を引き裂こうとはしなかった。
意外なほどすんなりとルカを受け入れ、息子として認め、アレクシアとの結婚を許可してくれた。
アレクシア自身すらまだ自覚していなかった、ルカへの特別な感情を――父はあの時点でもう……察していたのかもしれない。




