第111話 母への挨拶
男二人が幸せそうに抱擁しあうのをしばらく見守った後。
婚約書に署名と捺印をするよりも前に、ルカからの申し出で作業は中断された。
一同はヴィクトルの私室へと場所を移す。これもルカのたっての希望だった。
ヴィクトルの部屋には、妻のルイーゼを描いた肖像画が常時飾ってある。
ルカは絵の前に進み出ると、深く頭を垂れ、右手を心臓に当てた。
アレクシアと結婚させてほしいという意志と、彼女を幸せにするために全力で努力するという決意をきっぱりと明言する。
さらにアレクシアをこの世に生んでくれたことを、言葉では言い尽くせないほどルイーゼに感謝しているという旨も熱く述べた。
もちろん答えはない。
肖像画の中のルイーゼは、生前と変わらない嫋やかな美貌でそっと微笑んでいるだけだ。
だがルカが亡き妻に敬意を払い、婚約に際してもきちんと筋を通そうとしてくれたことに、ヴィクトルは感情が上限まで極まった顔をしていた。大きな手で押さえた太い眉は、涙腺が今にも決壊しそうなほど小刻みに震えている。
「公爵令嬢でいらしたルイーゼ様を、僕のような身分の者が母と呼ぶのはおこがましいとは承知していますが……」
「いや、そんなことはない。ルイーゼもきっと喜んでいるはずだ」
ヴィクトルが威厳をしぼり出しながらそう言い、アレクシアもうなずいた。
ルカはおずおずと、しかし心から幸せそうに破願する。
「僕は母がいたことがないので、初めて母と呼べる方ができてとても嬉しいです」
「ぐうッ!」
ヴィクトルの喉の奥から変な声が出た。
実母の顔も知らず、継母は母親らしいことを何もしない女だったルカの生い立ちを思い出して、秘孔を突かれたらしい。
「辺境伯!? 大丈夫ですか!?」
「大丈夫だ。何でもない」
あわてて駆け寄り、ヴィクトルの体調を心配するルカに、ヴィクトルは胸を押さえたまま大きな首を振った。
「……それに……辺境伯ではない」
「えっ?」
「その……さっきは言ってくれたではないか……」
「あ……」
ルカはヴィクトルを見上げて、少し照れたようにはにかみながら呼んだ。
「……義父上」
「ふぐうぅッ!」
ヴィクトルの臓腑の奥からさらに変な声が出た。
二人はそのまま、吸い寄せられるようにぎゅっと抱き合う。
開け放たれた部屋の外には、リートベルク城で働く使用人たちがそわそわと浮き足立ちながら集まっていた。
先ほどから情緒が忙しい城主の様子をうかがいつつ、早く婚約が結ばれないかと期待に胸をふくらませ、今か今かと発表の瞬間を待ちわびながら、廊下にずらりと列を作っている。
減った体重があっという間にリバウンドし、まん丸い頬をつやつやさせているのは主厨長のハンス。
ドアの影から縦に三つ、雁首をそろえてこちらをうかがっているのは騎士のユリウスとクラウスとマリウスだ。
収容所が襲撃された日以来、ずっと動揺と緊張にさらされてきたこの城に、ようやく穏やかで満ち足りた風が吹きわたるかのようだった。
「えー、それでは……」
家令のエッカルトがあたりを見回し、コホンとひとつ咳払いをする。
父への報告と母への挨拶を経れば、ようやく満を持して、みんなが待ちに待っている婚約の締結だ。
「ルカ様。ここにご署名を」
エッカルトは婚約書を再び広げると、飾り羽のついたペンとともにうやうやしくさし出した。
「どうぞ、ルカ様。変更前のこれまでの名と、変更後のこれからの名を記していただきます」
ルカはまずは慣れた手つきと落ち着いた様子で、名乗り慣れた自分の名前をすらすらとサインした。
──Luca・Warten
そして急速に早まる鼓動を必死になだめ、挙動不審に震える手を抑え、息継ぎすることさえも忘れながら、新たに授かった名前をはじめて書き記した。
──Luca・Victor・Liedberg
「ふああぁぁぁ……!!!」
ルカは悶えた。
自分で書いた署名に、自分で興奮が抑えきれなかったらしい。
「……こんな……こんな尊い名前……っ!」
ゴツくて厳つい中年のおっさんである父の名をもらってこんなに喜ぶのはルカだけではないだろうか……とアレクシアはひそかに思うが、全身で喜びを表現しているルカがとても可愛いので、止めることはせずそのままにしておく。
「そんなに嬉しいのか?」
「嬉しい!」
即答だった。
「アレクシアと同じ姓を名乗れるだけでも幸せなのに、義父上の名をミドルネームにできるなんて……最高すぎて……夢みたいだ……!!」
また涙ぐむルカの大きな瞳を微笑ましく見つめて、アレクシアはふわりと相好を崩した。
自分が社交界で野蛮令嬢と揶揄されているのは言わずもがな、父のヴィクトルも貴族らしからぬ風貌をした、辺境の野蛮人として敬遠されている。
その父の名を授かったことをここまで手放しに喜ぶとは、はっきり言って想像以上だった。
見た目からして恐れられる父をルカが慕ってくれるのも嬉しいし、身分を理由に拒絶されてもおかしくなかったルカを父が認め、愛でてくれるのもとても嬉しい。
二人が睦まじくなればなるほど、心が和む。
「……可愛いな」
男を可愛いと思う日が来るなんて、想像もしなかった。
何と言えばいいのだろう。「格好いい」は格好悪いところを見たら幻滅して、目減りしてしまう気がするのに。
「可愛い」は無敵だ。
笑っていても、泣いていても、可愛いは減らない。
喜んでいても、感激していても、行き過ぎて挙動不審になっていても、ルカの全部が可愛い。
男を可愛いと思う時は、すでにその男に落ちているのかもしれない──と、ふと思った。
ヴィクトルは「愛い奴よ……」とほっこりしながら目を細め、太い腕で再びルカを抱きしめる。
父と婚約者がいつまでもいちゃいちゃと絡み合っている横で、アレクシアもさらさらと書類に署名を済ませた。
二人の名が記載された書類を、家令のエッカルトが胸を張って高く掲げた瞬間。
割れんばかりの拍手がわき起こり、廊下で待機していた使用人たちが、なだれを打ったように一気に飛び込んできた。
「おめでとうございます!」と満面の笑みを咲かせる者。「この日を待っていました……」とえぐえぐ泣き出す者。
喜びの声があふれ、喝采と万歳が唱和して、部屋はまたたく間に祝福の色に染まる。
ユリウスとクラウスとマリウスがルカを取り囲み、わっしょいわっしょいと胴上げしている横で、アレクシアはそっと窓の外に広がる森と田園風景を見下ろした。
「……」
この城の地下牢に捕らえていたマティアスの身柄はつい先日、中央から派遣されてきた王家直属の兵士たちに引き渡した。今ごろは王都へと移送されている最中だろう。
あの甘やかされた軟弱な虚け者は、さぞかし慣れない虜囚生活に難渋しているはずだ。
──まだ、終わってはいない。
あの男との決着はこれからだ。
彼の起こした事件に関しては、すでに首都の王立裁判所に提訴を申し立てている。
まもなく開かれることになる法廷の場において、あの男の罪を白日のもとにさらし、きっちりと落とし前をつけなくてはならない。
「──あの男爵令息と男爵夫人に、引導を渡してこなくてはな」




