第110話 新たな名前
「正式な婚約のための書類を作成しようと思うのだが」
家令のエッカルトがうやうやしくさし出した書類を手に取って、アレクシアが言った。
印璽の入った上質な紙。王家に正式に提出することになる、貴族の婚約の締結を証明する書類である。
「……こ、これが……婚約書……!」
エッカルトがほくほく顔で用意してくれた婚約書の書式を、ルカもとびきりのほくほく顔で見つめる。
平民の結婚は紙一枚届け出るだけで成立するが、貴族は違う。
まずは婚約に際して所定の書面を作成して王家に提出する必要がある。そこで国王の許可が下りなければ、それ以上の話を進めることはできなかった。
とはいえよほど王家にとって不都合な縁組でもなければ、却下されることは少ない。
辺境伯の令嬢と男爵家の庶子の組み合わせは、身分違いで不釣り合いだとは思われるだろうが、謀反の含みありと警戒されることはないだろう。
必ず記さなくてはならないのは、結婚後の姓の変更だ。
夫婦は同姓を名乗らなくてはならないと法で定められているため、夫となる者と妻となる者のどちらが姓を変えるのかを正確に記載する必要はある。
あとは結婚に際して用意する持参金の額や、両家の間で締結する援助の契約、土地の譲渡などがあればそれらも詳細に申請しなくてはならないが、今回の結婚に関してはそうした取り決めはない。
アレクシアから「身一つで来ればいい」と言われた通り、本当に持参金のひとつもなく、身一つで婿に行くことになりそうだった。
「ルカの姓をヴァルテンからリートベルクに変更する、ということで本当にいいだろうか?」
「もちろんです」
「では、新しい姓を名乗るにあたって提案がある」
「提案……?」
「ああ。リートベルクの姓に変える際、ミドルネームも付けるのはどうだろうか?」
「ミドルネームを?」
貴族は通常ファーストネーム・ミドルネーム・ファミリーネームの三つの名を連ねて名乗る。
ミドルネームは同性の肉親の名にあやかるのが慣例で、男児には父親の名、女児には母親の名を付けるのが一般的だ。
祖父母や親戚の名をミドルネームにすることもあるが、両親の名から取ることの方が圧倒的に多い。
だが、ルカにはミドルネームがない。
生まれてから一年は父アウグストの名をミドルネームとして冠していたらしいが、弟のマティアスが生まれた際に抹消されてしまった。愛する息子が忌々しい継子と同じミドルネームを名乗るなど嫌だというヘルミーネの強い要望で。
以来ずっとミドルネームを持たない、ただのルカ・ヴァルテンとして生きてきたのだ。
「僕のミドルネームを復活させる、ということでしょうか? しかしヴァルテン家側は了承しないかと思いますが……」
「ヴァルテン家の承諾は不要だ。意向を聞く気もない」
「でも……」
アウグストはヴァルテン家の当主だ。父の許可なくアウグストの名を戻すことはできないだろう。ルカからミドルネームを剥奪したのはヘルミーネだが、彼女が許可するとも思えない。
「復活させるのではなく、新たに付けたいんだ」
新たに、の意味がわからなくてルカが首をかしげると、アレクシアが花のように笑んだ。
「ルカさえ良ければ、お父様の名をミドルネームにしないか?」
「え……」
ルカは大きな瞳を、こぼれそうなほど大きく見開いた。
「辺境伯の名を……僕に……?」
予想もしなかった提案だった。
はじかれたようにヴィクトルを振り返ると、ヴィクトルは照れたように大きな手で頭をさすりながらうなずいた。
「ルカ君。君さえ良ければ名乗ってはくれないだろうか?」
──ルカ・ヴィクトル・リートベルクと。
アレクシアの夫として。ヴィクトルの息子として。
新たな姓だけではなく、新たなミドルネームを持たないかという提案を前に、ルカは震える。
「僕で……いいんですか?」
ルカはまだ幻の中にいるかのように、夢うつつで聞き返した。
「僕が辺境伯の名を名乗ってもいいのですか?」
「君に名乗ってほしいんだ」
「強くて優しくて男らしくて格好良くて偉大な辺境伯の名を……本当に……!?」
「そう言ってくれるのは君だけだよぉルカくぅ~ん!!」
素で絶賛されて、ヴィクトルは感涙にむせび泣いた。
いつもは部下に熊とかゴリラとか言われているからな……とアレクシアは思う。自分も言われているが。
「僕が……ミドルネームを……?」
ミドルネーム。平民にはない、貴族だけに許された特別な名前。
生まれた時に与えられたルカのミドルネーム「アウグスト」は、とっくに継母に取り上げられて捨てられた。
これといって、アウグストの名を名乗れないことを悲しく思ってはいなかった。
ルカがミドルネームを剝奪されたのは一歳の時だ。記憶も残っていなければ、自らミドルネームを名乗ったことも一度もないのだから、愛着もない。
姓しか持たないなどまるで平民のようだと嘲笑されたことは数えきれないが、ないものは仕方がない。その他たくさんの嘲りや蔑みや嫌味と同様、気にすることなく受け流してきた。
ミドルネームがほしいと、切望したことなどなかった。
実の父の名を名乗れなくても、別に悲しくなどなかったのに。
それなのに、今。
ヴィクトルの名を名乗れることが、涙が出るほど嬉しくてたまらない。
「ありがとうございます! 身に余る光栄です……!」
礼を言いながらべしょべしょと泣いていると、ヴィクトルが巨体を折ってルカに目線を合わせた。
「ルカ君、私には息子がいない。それを残念だと思ったことはないが、私の名をミドルネームに持つ者がこの世に存在しないのは事実だ」
ヴィクトルの最愛の妻が産んでくれたのは女の子だった。
妻の唯一の子ということは、ヴィクトルにとっても唯一の子だ。
娘が男であればよかったと思ったことはただの一度もないし、息子が十人いるよりもアレクシアが一人いる方がいいと本気で思っているが、娘が選んだ男を息子と呼べるのならば、話は別だ。
「だから、君に受け継いでほしい」
「辺境伯……」
「父と呼んでくれ。息子よ」
ルカは目を瞠いた。
うれしい。うれしすぎて、言葉にならない。
「義父上えぇぇぇ!!!」
「ルカきゅぅぅぅん!!!」
父とルカがまたしても熱烈な抱擁をかわすのを見守りながら、アレクシアはつぶやいた。
「もうお父様とルカが結婚すればいいのではないか?」




