第107話 夢よりも美しく輝きながら
永眠にさえ近いような、深い昏睡の中で、ルカは幼いころの夢を見ていた。
継母に酷く暴行され、寒空の中に放置されて、死にかけた夜のことを。
あの日、ヘルミーネは「おまえなど生まれてこなければよかったのだ」とルカに言った。
別にあの日だけに限った発言ではない。ヘルミーネからもマティアスからも数えきれないほど、ルカは存在を否定されてきた。
嫌味にも中傷にも慣れてはいたけれど、悲しくなかったわけではない。
頼る者のいないルカには、彼らの嘲罵が突き刺さった。努力では変えられない出自をくりかえし責め立てられて、辛くないはずがなかった。
自分だけが入れてはもらえない団欒。
弟だけに与えられる継母の愛情。
余りにも露骨な差別や、あからさまな待遇の差は、幼稚だとわかっていてもせつなかった。
──継母の言う通り、自分はいらない子供なのだ。この世に生まれてきてはいけなかったのだ。
自分は間違えてこの世に生まれてきた価値のない存在で、一生幸せになどなれないのだ──。
骨身に沁みるほど、そう痛感していた。
それなのに──今。
愛した女性が目の前にいて、ルカを好きだと、そう言ってくれている。
眦を流れる涙が、視界をにじませる。
淡くきらめく白い光の中に、たった今のアレクシアの言葉が鮮やかによみがえった。
『ルカ、頼みがある。ヴァルテンの姓を捨ててくれ』
アレクシアの声音の一つ一つが、まるで極光の空に浮かぶ細氷のようにきらめきながら、心に沁み込んでくる。
『そして私の姓になってくれ』
生きてきた人生の中で、これまで聞いたありとあらゆる音の中で、一番うれしい言葉だった。
『このリートベルクの地で、私とともに生きてほしい』
一生望むことなどできないと思っていた人からの、夢のような願いごとが、夢よりももっと美しく輝きながらルカを包み込む。
──生まれてこなければよかったのよ、となじるヘルミーネの声がかすれた。
ふるわれ続けた暴力が遠ざかる。
浴びせられ続けた罵詈雑言が薄れる。
ルカを否定した呪詛の言葉が、嫌悪と侮蔑の渦が、もっと強いものにかき消されていく。
まるで小さな氷の棘が、太陽の光を前にして溶けていくみたいに。
踏みにじられ続けた、みじめな日々だった。
親にも守ってはもらえなかった、哀れな半生だった。
だが、アレクシアに出会えたことで全部が報われた。
与えられなかった愛情。
公然と突きつけられた婚約破棄の恥辱。
よってたかって嗤い、蔑み、嘲りの矛先にする人々。
──何もかもが取るに足らない。
たった今もらったアレクシアの言葉に比べたら、価値のあるものなど何一つない。
どんな悪意も、もうルカを傷つけない。
なぜなら──平穏だが彼女のいない人生よりも、どんなに辛い目に遭おうとも、彼女と出会えた人生の方がずっといい。
これまで味わった不幸の全部よりも、アレクシアの方が強いのだから──。
「アレクシア様……」
潤んだ目でアレクシアを見つめるルカは、そこでやっと気が付いた。
彼女からプロポーズしてもらっておきながら、自分はまだ何も返事をしていないことに。
「僕にも言わせてください!」
そもそも返事など「はい」か「イエス」のどちらかしかないのだが、ルカは素早くベッドを降りた。
体に障るから寝ていろと止められたが、かまわずに片膝をつく。
背筋を正して左手を引き添え、ルカは右手をアレクシアへとさし出した。どうしても自分からも求婚したかったのだ。
「アレクシア様。──僕と結婚してください」
この言葉は、彼女と初めて出会った時の第一声でもある。
あれから何度もアレクシアのことが好きだと、愛していると言ってきた。
だがプロポーズの言葉だけは、初対面の時を除いて一度も口にすることができなかった。
「生涯あなただけを愛すると誓います。このリートベルクの地で、あなたと一緒に生きていきたい。だからどうか……僕の妻になってください!」
「はい」
ためらいのない返事。
たった二文字でこんなにも自分を有頂天にさせてくれる言葉を、ルカは他に知らない。
「アレクシア様……」
「様はいらない」
「……アレクシア」
「ああ」
アレクシアはさし出されたルカの手を取った。
手と手が密着すると、まるで心臓と心臓がつながったみたいに、相手の鼓動が伝わってくる。
彼が生きていると感じられることが、他の何よりも嬉しかった。
「今度は男爵夫妻にではなく、ルカに誓う。──私がルカを幸せにする」
以前ヴァルテン家に招待された時、アレクシアは男爵夫妻に向かって宣言したことがある。
──あなた方はもうルカに関わるな。ルカは私が幸せにする──。
あの頃からはっきりとそう思っていた。自分がルカを幸せにしたいと心に決めていた。
それなのに、己の気持ちをきちんと自覚するのがこんなにも遅くなってしまった。
「本当に私でいいのか?」
「いいに決まってます!!!」
ルカは力強く言い切った。アレクシアの感触を見る限り、悪くはなかったらしい。くすっと笑いながら青い目を細めている。
「好き。好きです! 大好きです!!」
「……何度も言わなくていい」
安堵からか、堰を切ったように好きだ好きだと言葉があふれてしまう。
これは鳴き声のようなものなので大目に見てほしいのだが、アレクシアは気恥ずかしかったらしい。
ほのかに頬を染めて視線を反らされてしまったので、ルカは盛大に洩れる心の声を懸命に抑えた。
「じゃあ……一度だけ言う……」
上目遣いに彼女だけを見つめて、たったひとこと。
「愛してる」
二人の顔がどちらともなく近づく。
そっと触れるだけの、静かな口付けだった。
「……っ」
名残り惜しそうに離れたルカの唇が、我慢できないと言わんばかりに再びアレクシアを求めた。
連日の疲れが溜まっているのか、少し荒れた彼女の唇をいたわるように舐め、それからもう一度、ついばむように軽く音を立てて吸う。
まるで体中に満ちた恋心がにじんで、止まらずにあふれ出すかのようだった。
愛おしさがあとからあとから、尽きることなく湧き出して止まらない。
甘くて優しいキスなのに、体の芯が痺れる。彼から伝わってくる熱情に翻弄されて、かき乱されて、頭が真っ白になりそうだった
ルカはアレクシアの手を取った。胸の高鳴りが聴こえるほど距離を縮めながら、まっすぐな瞳で彼女を射る。
ふたつの影がもう一度、音もなく重なった。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
片想いがようやく両想いになりました。
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