第106話 頼み
涙があふれた。
「……っ……!」
止まらずに流れる雫がルカの頬を撫で、首をつたって、胸にまでしたたっていく。
刻まれた古傷を濡らして、大粒の涙がぽろぽろとすべり落ちた時。
アレクシアははじかれたように目を覚ました。
「ルカ!? 気が付いたのか!?」
尋ねる声色も確かに、ルカが世界で一番好きな人のものだった。
聞き間違えるはずもない、アレクシアの声。
「具合は? 気分はどうだ?」
「大丈夫……です」
アレクシアは両手を伸ばしてルカの顔や喉や首元をべたべたと触り始めた。目の焦点が合うか、脈が正常か、呼吸に異常がないかなどを真剣な顔つきで確認している。
(はわあああっ……!!)
かつてない積極的な接触に、ルカはどぎまぎと心臓をあわ立たせた。
なんだこれは天国かと思い、やはり自分はもう死んでいるのではないかと疑ったが、もちろん拒否などするはずがない。心のしっぽを全速力で振りながら、されるがままになっている。
「心拍が速すぎる。本当に大丈夫なのか?」
「いえ、それは……その、アレクシア様にドキドキしているだけです」
アレクシアはきょとんとしつつ、ルカが無事に返答することに安心したようだった。固い表情をようやくゆるめて、ほっと笑う。
「良かった……」
生きている。──ルカが生きている。
そう思えるだけで、安堵がこみあげた。
彼の心臓の音が聴こえるだけで、確かな息吹が感じられるだけで、これまで覚えたことのないほどの多幸感がアレクシアを包んだ。
「本当に良かった……」
アレクシアの指は離れることはなかった。そのまま自然とルカの手のひらへ降りていく。
触れるアレクシアの手は鋼鉄のように固く、剣胼胝がいくつもつぶれていた。どんな白魚のような傷ひとつない手よりもずっと美しい、ルカの一番好きな手だ。
「あの、あれからどうなったのでしょうか? 城下の街や領民は……」
「街にも民にも被害は出なかった。みんな無事だ」
長い昏睡から目覚めてすぐに考えることが他人の心配なのかと、アレクシアは胸の奥を衝かれるような心地がする。
「ありがとう。ルカのおかげだ。どんなに礼を言っても足りない。……本当に勇敢だった」
ただ、とアレクシアは唇を結んで、強く戒めた。
「あんな無謀なことは二度としないでほしい」
「はい……」
ルカは殊勝にうなずいた。
怒られてもうれしい。うれしくてつい顔がゆるんでしまう。
目覚めて最初に会う人がアレクシアだなんて幸せすぎる。怒られが発生しようがご褒美でしかない。
それも、ヘルミーネの夢を見ていた後なのだ。
地獄のような過去の記憶からの、天国のような現実の光景。
高低差の激しさに心臓がついていかなくて、指摘されたばかりの心拍数の速さはまったく落ち着く気配がなかった。
(好きぃ……! 癒されるぅ……!)
動悸は速まる一方なのに、負荷は少しも感じなかった。むしろ目の前にアレクシアがいる絶景は、癒しの効果が抜群に大きい。
どれだけの時間眠っていたのかわからないが、さすがにルカの体力も気力も空っぽだった。
心臓が鼓動を刻むたびに、身体のあちこちに鈍痛が走る。血液が体内を循環するたびに、関節や骨がきしんでひどく痛む。喉の奥も苦くて、肺に塵煙が溜まっているような重たい感触がした。
それなのにアレクシアの姿を見て、声を聴いて、同じ空気を吸っているだけで、心だけはどんどん回復していくような気がするのだから、我ながら単純だなぁ……と思ってしまう。
特に手のあたりが太陽の光に当たっているみたいにあたたかくて、ぽかぽかして、ものすごく心地がい──。
(手……?)
ふと膝のあたりを見下ろせば、そのあたたかい温もりの正体が目に入った。
まだ重ねられたままの、アレクシアの手。
「あっ……!」
ルカが恐縮して体勢を直そうとするよりも先に、アレクシアが口火を切った。
黒くて長い睫毛がゆっくりとまたたく。蒼玉の双眸はルカを映したままで、視線を離さなかった。
「ルカ。頼みがある」
「頼み?」
「ああ。ヴァルテンの姓を捨ててくれ」
「えっ……?」
その言葉の意味を察して、水色の瞳が大きく瞠く。
「そして、私の姓になってくれ」
ヴァルテンの姓を捨てるということ。
リートベルクの姓になるということ。
「私の夫になって、私の人生をいちばん近くで見ていてほしい。ルカの人生をいちばん近くで見ていたい。このリートベルクの地で、私と共に生きてほしい」
胸に焼き付けられた古傷が疼いたが、もう痛みは感じなかった。
どんな苦痛もたやすく凌駕するひとことを、アレクシアが伝えてくれたからだ。
「──私もルカが好きだ」
しばし、時が止まった。
「……生きてて……」
刮目したままのルカの眼から、真珠のような涙がこぼれた。
「生きていて……良かった……」
今、この瞬間のためだけに、これまでの人生はあったのだ。




