第105話 極寒の夜、灼熱の傷
降りしきる雪の中に、ルカはいた。
六花があとからあとから、薄墨色をした空より落ちてくる。
ひどく寒い夜だった。王都が一面の銀世界と化した、真冬の日のことだった。
しんしんと沫雪が降り続き、宮殿も街並みもすべてが白く染まっていた。
リートベルクに降るような大きな雪片ではない。淡くてはかない細雪だ。
その日、幼いルカは真夜中に叩き起こされた。
何が何だかわからないまま一方的にがなりつけられ、腕が脱臼するほど強く引きずられながら、普段は出入りを禁じられている壮麗なダイニングホールへと強引に連れていかれた。
『旦那様はどこへ行ったの!? おまえは知っているんでしょう!?』
ヘルミーネがぎゃんぎゃんと怒鳴っている。
旦那様とはルカの父アウグストのことだ。近ごろのアウグストはまるでヘルミーネを避けるかのように無断で外出をくり返し、この日もまだ屋敷に帰ってきてはいなかった。
『早く答えなさい! 旦那様はどこ!?』
そんなこと、知るわけがない。
父はルカと会話なんてしようとしないし、目すらろくに合わせてくれないのだ。
こんな夜中までどこに行っているのかなんて、見当もつかない。
ヘルミーネだってそれは知っているはずなのに、ただ抑えきれない鬱憤を八つ当たりしたくてルカを呼びつけたようだった。
だから知らないとはっきり答えても、何も聞いていないと首を振っても、納得してはくれない。
自分を避ける淡白な夫への不満を募らせたヘルミーネは、そのいら立ちを膨らませてルカにぶつけた。ありったけの侮辱の言葉でなじりながら、手に持っていた扇で何度も打擲する。
扇の骨が折れるほどしたたかに殴られたルカが血を流して転倒しても、まだ彼女の怒りは収まらなかった。
『あの人は何を考えているの! おまえのようないらない子供をまた増やすつもりなの!?』
ヘルミーネは折れた扇を投げ捨てる。
かわりにつかんだのは、あかあかと燃えさかる暖炉に焼べてあった火かき棒だった。
服が溶ける。
皮膚が焼ける。
じゅうっと煙をあげて、胸の肉が焦げる。
『忌々しい子!』
襟首をぐっとつかまれて持ち上げられた時は、助けてもらえる、と思ったけれど、そうではなかった。
したたかに蹴り上げられて、小さな子供の身体は宙に浮く。
そのまま吹雪の舞い散る外に放り出されて、ルカは痛みにうめきながらうずくまった。
『おまえなど、生まれてこなければ良かったのよ!』
一面に氷の張った冬の庭は、体の芯から凍えるような寒さだった。
歯の根が合わないほど冷たいのに、胸の火傷だけが焼けるように熱い。
(……た……すけて……)
ヴァルテン家にはお抱えの医師も常駐していたのに、呼んではもらえなかった。
痛くて、苦しくて伸ばした手は、誰にも取ってはもらえなかった。
声も出せずに倒れ伏したルカの粗末な服に、痩せた手首に、はだしの踝に、白雪が降っては積もっていく。
(…………)
朦朧としながら、ルカは悟る。
そうか、自分はあの時に死んだのだ。
何もかもが夢だった。辺境の地にやって来たことも。アレクシアに一目惚れをしたことも。彼女を知って世界が一変したことも。
城で働き、騎士団で揉まれ、優しい人々とふれあって過ごした日々は、すべてが幻だった。
こんな醜い傷あとを刻まれた、誰にも望まれない存在に、そんな奇跡がかなうはずもなかった。
ルカはあの夜、凍てつく冬空の下で絶命したのだ。
燃えるような熱い火傷と、凍えるような冷たい氷雪にさらされて。十歳になる前の、あの冬の日に息絶えたのた。
みじめで、寂しい人生だった。
生まれてすぐに母を亡くし、引き取られた父にはかえりみられず、継母に虐待されて短い生涯を終えた。
誰にも愛されることなく、誰も愛することなく、幼いルカは孤独に捨てられたまま、ひっそりと息を引き取った。
神がそんな子供を哀れんで、せめてひとときの夢を見せてくれたのだ。
(……幸せで、空しい夢を見てしまった……)
なんておろかで滑稽な幻を、思い描いてしまったのだろう。
こんな時でさえも、脳裏に浮かぶのは凛々しい漆黒の髪と天空のように澄んだ青の瞳で、ルカは自嘲するように薄く笑った。
こんなみじめな自分が、あんな強くて美しい人に出会えるはずがなかった。
誰からも愛されなかった孤独な自分が、あんな運命の恋に落ちるはずがなかったのだ。
本当のルカはずっと、あの冬の夜にひとりぼっちだった。ずっとあの雪の中で凍えていたのに──。
そう悟りながら、ルカはそっと痛む瞼を開けた。
「……ここは……?」
吸った空気で喉がひりつく。ほんのわずか動かしただけの指に痛みが走る。
全身が錆びついたようにズキズキと軋む中、ぼやけた視界が少しずつ照準を結んでいく。
濃い青を基調とした部屋には見覚えがあった。
弓張り型の大きな窓と、煉瓦作りの立派な暖炉。
そうだ。ルカが初めてリートベルクにやってきた日に案内してもらった客室だ。
(……夢の……続きかな?)
この期に及んで、自分はまだ未練がましく、幸せな幻覚を見ているのか。
頭を動かすだけで、またズキッと鈍い痛みが走る。
硬くこわばった首をゆっくりと反対方向にめぐらせたルカは、次の刹那、時が止まったかのように硬直した。
「え……?」
アレクシアが座ったまま眠っていた。
いったいいつからここにいたのだろう。いつも凛々しいはずの顔立ちは、これまで見たことないほど疲労の色が濃かった。
「アレクシア……様……?」
少し離れた場所にはソファーも、もう一台のベッドもあるのに、どちらも使われた形跡はなかった。
アレクシアはまるでルカを守るかのようにすぐそばの椅子にかけ、背筋も伸ばした姿勢のままで、長い睫毛を静かに伏せていた。
(……夢ではなかった)
ルカは息を飲んだ。
まだ幻の中に浮いているみたいで現実感が乏しいのに、目の前の彼女のことだけは、何の疑いもなく信じることができる。
(僕は、生きられた……!)
死ななかった。死なずに生きのびた。
生き抜いて、リートベルクにたどり着いた。
そして彼女と──アレクシアと出会ったのだ。




