第104話 自覚
ブリギッタはしぶしぶと曲がった腰を上げ、退室していく。
アレクシアは横たわるルカの枕元に片膝をついた。
「……ルカ……」
眠るルカの顔は青白く、手足や頭に巻かれた包帯が痛々しい。
あんなに生き生きと輝いていた彼の表情は精彩を失っていて、あんなに天真爛漫にきらめていたまなざしは硬く閉眼している。
そのことが胸が抉られるほど痛くて、苦しくて、悲しくてたまらなかった。
「ルカ……起きてくれ……もう一度目を開けてほしい……」
答えはない。彼はまるで蝋で作られた人形のように、静かに伏せっていた。
その昏睡は眠りというには深すぎて、死に近いと認めるには辛すぎた。
辛くて、痛みさえ伴うほどに苦しくて、ほの昏い深淵の底に引きずられてしまいそうになる。
だが、目をふさいではいけないとアレクシアは思った。
どんなに悲しくても、どれほどの激痛を感じようとも、決してこの目を反らしてはいけないと思った。
「……」
あの日最後に見たルカの姿が、アレクシアの中に今もありありと焼きついている。
彼に振り払われた手の感触が、今でもはっきりと掌の中に残っている。
疾風のような速さで遠ざかっていく彼の背中を今でも、何度でも思い出す。
城や街に背を向けたルカは、囚人たちがすでに避難を終え、無人の砦だけが残る孤島の方角へとまっしぐらに駆け抜けていった。
あの絶体絶命の非常時に、彼はもっとも被害を軽減できるルートをとっさに選んだのだ。
的確で賢明な判断だった。──彼自身を犠牲にしたことを除けば。
「…………」
ルカにはこれまで何度も愛を告白された。
好きだとも、愛しているとも、はっきりと言葉にして伝えてもらったはずだった。
それなのに、初めて振り払った手の強さと、少しでもアレクシアから離れようと遠ざかる背中から、今まででもっとも強く彼の愛情を感じずにはいられなかった。
ルカの感情は一時の気の迷いだ。勘違いだ。恋ではなく感謝や恩義だ。
いずれ冷静になって、我に返って、思い込みは解けるのだろう。そう信じていた。
過去にアレクシアに求婚してきた貴公子たちが、あっさりと手のひらを返しように。
ルカの気持ちも不変ではない。遅かれ早かれ熱は冷め、心変わりし、自分から離れていく。そう理解していた。
だから彼の告白も真に受けることなく、深入りすることなく、己を平静に保ってきたのだ。
だが──もうだめだ。
もう偽れない。
ルカの勇気と行動、そして献身をこの目で見た今では、もう彼の本心を疑うことなど不可能だった。
(失いたくない……!)
これまで感じたことがないほど大きな恐怖が、アレクシアの胸にこみあげた。
ルカがこのまま亡くなることを想像しただけで、耐えがたい痛みが全身を襲う。
こんな苦しみを味わったことがなかった。こんなにも誰かを取り上げないでほしいと天に願うのは、母を亡くした子供の時以来だった。
(……嫌だ……)
ルカが死ぬのは嫌だ。心の底からそう思った。
寒くなどないのに、震えが止まらない。
泣きたくなどないのに、視界が滲む。
喉が締めつけられて息ができない。胸が押し潰されて呼吸ができない。
嗚咽をこらえようとして、アレクシアがみぞおちにぐっと力を込めると、かわりに涙がひとつぶ生まれて頬をつたった。
流れ落ちる雫があらわにするのは、たったひとつの切望。
(ルカと……共に生きたい……!)
彼に死んでほしくない。目を覚まして、生きてほしい。
生きてほしいのだ。──自分と一緒に。
ルカがこの地に来て以来ずっと、明るく笑う姿に癒されていた。
不幸に酔わず、悲しみに溺れず、どんな時も前向きに頑張っている彼に励まされていたのは、アレクシアの方なのだ。
『──僕が好きなのはあなたです』
ルカと一緒にいると心が澄んだ。苦手なダンスさえ楽しいと思えた。彼のまっすぐな気性を、屈託のない明るい瞳を、よく働く謙虚な性格を好ましく感じていた。
どれだけ同じ時間を過ごしても飽きるどころか、ますます可愛いと思わずにはいられなかった。
『片想いなのはわかっているけれど、僕はあなたが好きです』
男に告白されて、迷惑だと思わなかった相手も彼だけだ。
勘違いではないかとは疑いはしたが、嫌ではなかった。疎ましいとも、鬱陶しいとも、やめてほしいとも思わなかった。
『アレクシア様……好きです。誰よりも愛しています──』
迷惑どころか……心地良かった。
自分だけに向けられる彼の心が。ひたむきに注がれる真摯な想いが。まっすぐに捧げられる愛の言葉が。
とまどいはしたものの、拒みたいと思ったことは一度もなかった。
(ああ……そうか……)
アレクシアは青色の双眸を、まじまじと見開いた。
ルカはもうとっくに自分にとって、必要な存在になっていた。
彼の無垢を、掛け値のない優しさを、踏みにじられても汚れない心の美しさを。もう、とうに好ましく思っていたのだ。
「気が付くのが……遅すぎたな……」
ルカはあんなにもアレクシアに好意を伝えてくれていたのに。
見返りを求めない想いを、愛を、ずっと捧げてくれていたのに。
アレクシアはこの想いの名前さえ、知らなかった。
だが、もう手放すことはできない。
ルカを失って生きていくことはもうできない。
「ルカ……」
これからの人生を共に歩むのは、ルカであってほしい。
他の誰でもなく、彼にとなりにいてほしい。
春のひだまりのような彼の笑顔が見たい。
夏の湖のような透明な瞳に自分を映してほしい。
冬の空気のような澄んだ声でもう一度、名前を呼んでほしい。
あの秋の日の祭りにもう一度、ルカと一緒に行きたい。




