第103話 昏睡
リートベルク監獄が襲撃を受けた、あの日。
城内にいたブリギッタはいつにない騒擾の気配に震えていた。
聞き慣れない爆音と、嗅ぎ慣れない火薬の香り。
地鳴りのような轟音がとどろき、焦げついた煙が黒くけぶりながら、城にまで届いてくる。
外でいったい何が起こっているのか、ブリギッタたちには何もわからなかった。
ただマリーたちと身を寄せ合い、怖がるエミールや泣き出すリリーを一緒に抱きしめて、神の加護を祈ることしかできなかった。
耳をつんざくような爆発音が響く。まるで戦場の中に放り出されたかのような、激しい乱闘の余波が伝わってくる。
監獄内で暴動が起きたらしい、とか、囚人たちが集団で脱獄を図ったらしい、などという一報も入ってはきたが、情報が錯綜して何が真実なのかもわからない上に、非力なブリギッタたちにできることは何もなかった。
女子供たちはみな尋常でない気配におびえながら、ぶるぶると身を寄せ合うしかなかった。
アレクシアが跳ね橋を上げて籠城するようにと命じていなければ、不安はさらに強かったことだろう。
上がりきった橋と固く閉ざされた城門は、あたかも自分たちを守ってくれる巨大な盾のようで、恐ろしい騒動の中にあってもただ心強かった。
やがて地響きのような喧騒がやみ、あたりが水を打ったように静まり返った後。
おそるおそるブリギッタは様子を見に外へと出た。
そこで、意識のないルカを横抱きにかかえて城に戻ってきたアレクシアと鉢合わせたのだ。
『──お嬢様!』
アレクシアはずぶ濡れで、服からも長い髪からも水がしたたっていた。
後から聞いたが、アレクシアは止めるニコラウスを振りきって湖に飛び込んだらしい。
そして、嵐のように大きくうねる水の中からルカを引き上げ、ここまで運んできた。
いったいなぜルカが湖の底に沈んでいたのか。理由を聞いてブリギッタたちは絶句した。
孤島に建っていた収容所が賊の襲撃を受け、崩壊したこと。
犯行に及んだ暴徒たちは、外国製だという未曽有の弾薬を持ち込んでいたこと。
そしてルカがその爆薬を抱えて走り、自ら北方の湖に身を投じたのだということを。
『ルカ様が……?』
ルカはすぐに城内の医師の元へと運ばれ、応急処置を受けた。
彼はかろうじて呼吸だけは自発的にできていたものの、目を開けることはなく、指一本動かすこともなかった。
血色のない顔は死体のように白く、およそ生気というものが見当たらない。
水色の瞳は固く閉じられたままで、いくら呼びかけても、揺さぶっても、何の反応も返ってはこなかった。
火の点いた弾薬を持っていたせいで、手や腕には熱傷が残っていたが、深刻なのは目に見える外傷だけではなかった。
激しく燃え上がる煙を相当吸い込んだはずだから、肺もダメージを受けていることだろう。傷ついた気道がふさがれて、窒息しても不思議ではない。
物理的に激しい衝撃を受け、全身が打撲するほどの挫傷を負ったことが、極度の昏睡状態に陥った原因であるらしい。
体にどれだけの負荷が加わり、脳にどれだけのダメージを受けたのかはわからないが、もはや医師にもできる処置はないという。
数日以内に目覚めるなら良し。そうでなければこのまま意識を取り戻すことなく息を引き取るだろうというのが、医師の見立てだった。
『……そんな……!』
マリーたちは泣きくずれたが、それでもルカが即死することなく、一命をとりとめたのは奇跡のようなものだった。
爆薬を放り投げるのがあと一瞬でも遅ければ、彼の肉体は粉々に四散していてもおかしくなかった。
意識のないルカを運び込んだのは、城の二階にある客室だった。彼が初めてこの地にやってきた日に、ブリギッタが案内した部屋だ。
ルカはその翌日にはすぐに「気後れするから」と言って使用人たちと同じスペースに移ってしまったので、ちゃんとこの部屋で眠るのは初日以来のはずだ。
事故の直後、エミールとリリーもこの部屋に駆けつけてきたが、目を覚まさないルカを見て大きなショックを受けていた。二人ともわんわん泣いて止まらないので、母のマリーが部屋から連れて出た。
騎士のユリウスとクラウスとマリウスも三人そろって駆けつけてきた。三人とも子供よりわんわん泣きわめくので、騎士団長のニコラウスが首根っこをつかんで部屋からつまみ出した。
以来、ブリギッタたちが交代でこの部屋を見守っている。
この数日、ルカの容態に変化はなかった。
彼は身じろぎひとつしてくれないが、かわりにこの部屋には来客が多い。
厨房や菜園や医務室、厩舎や牧場や騎士団まで、ルカが仕事を手伝っていた各部署の人間たちがひっきりなしに訪れては、彼の快癒を祈った。
置いていかれる花や食べ物や見舞いの品々が山のように積み上がり、部屋は日に日に手狭になっていく一方だった。
「……ルカ様はちょっと働き過ぎでしたわ」
ブリギッタは横たわるルカの寝顔をじっと見つめた。
縫い物をしていたようだったが、手元はろくに進んでいない。少し針を動かしては手を止めて、ブリギッタはわざと軽く笑った。
「たまにはこのくらい長く、寝過ごしたっていいはずです」
「そうだな……」
アレクシアも無理をして笑う。
ルカはこの地に来てから、ずっと働きづめだった。
料理や掃除や諸々の雑務だけではない。最近ではヴァルテン家で学んだ経営や資産管理の知識を生かしたいと言って、執事のエヴァルトの元に通いつめていた。
彼はずっと寝る間も惜しんで努力を重ね、休みなくこの城のために尽くしてくれていた。
だからこんなに長い時間、こんこんと眠り続けるのは初めてのはずだ。
「以前……ルカ様にひどいことを言ってしまいました……」
ブリギッタは白くなった頭を上げずに言った。
かつてブリギッタはルカに激怒したことがある。──末端令息がお嬢様に言い寄るなどあつかましい、と。
リートベルクに何の利益も齎さない分際で、アレクシアを愛するなどおこがましい──と。
ルカは怒らなかった。
ブリギッタの言う通りだと肯定し、自分が地位も財産も何も持っていないのは事実だと認めた。
「……ルカ様はリートベルクを……私たちを守ってくださったのですね」
身一つでこの地にやって来た男は、身一つでこの地を救ってくれた。
何も持たない男は、その命をかけてブリギッタの大切な「私のお嬢様」を守ってくれた。
うなだれたブリギッタの、ひと回り小さくなった背中を、アレクシアは優しくさすった。
「ブリギッタ。ルカについていてくれてありがとう。交代しよう」
「いいえ、お嬢様こそ休息を取ってくださいませ」
アレクシアはここ数日、ほとんど眠っていない。
眠る暇もないほど、事件の後処理に忙殺されていたのだ。
「ルカ様がお目覚めになったらすぐにお知らせいたします。ですからお嬢様も少しでもお身体を休めて……」
「いや。このままここにいる」
アレクシアはかぶりを振った。静かだが、決して譲る気はない声音だった。
「私がここにいたいんだ。ブリギッタは休んできてくれ」




