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第8話 修正者

 それは、動かなかった。

 ただ、そこに立っている。

 人の形をしている。

 けれど、人ではない。

 輪郭は定まらず、見ている角度によって姿が変わる。

 いや、違う。

 見るたびに、姿が“決め直されている”。


「……触るな」

 ミナが言った。

 その声は、いつもより硬い。


「何だよ、あれ」

 リクが聞く。

 ミナはしばらく黙っていた。

 そして、短く答える。


「上位」


 その一言で、空気が変わった。


「上位って……」

 リクが空を見る。

 さっきまで亀裂があった場所。

 今はもう、何も見えない。


 だが、ユウには分かる。

 閉じたのではない。

 見えなくなっただけだ。


「人間界の上に、別の層がある」

 ミナが言う。

「私たちが見ていた横の世界とは違う。可能性の重なりじゃない。もっと、縦の構造」


「天上界、みたいなものか」

 ユウが言う。


 ミナは少しだけ考える。

「近い。でも、宗教的な意味じゃない。階層としての上」


 リクが苦い顔をする。

「つまり、俺たちの世界の上にも、さらに世界があるってことか」


「ある」

 ミナは即答した。


 その瞬間。

 “それ”が、一歩動いた。


 ただ一歩。

 それだけで、空間が沈んだ。


「……っ!」

 リクが胸を押さえる。

「息、しづら……」


 ユウも同じだった。

 肺ではない。

 体ではない。

 存在そのものに、重みがかかっている。


『――不完全』


 意味が落ちる。


『――構造不安定』


 その言葉と同時に、近くを歩いていた人間の影が止まった。

 本体だけが、一歩進む。

 遅れていた影が、急に追いつく。

 完全に重なる。


 ズレが消えた。


「……」

 ユウは息を呑む。


 それは、一見すると正常だった。

 影が遅れない。

 音が重ならない。

 存在が揺れない。


 だが、違う。

 その人間から、何かが消えた。

 余白のようなもの。

 揺らぎのようなもの。

 まだ選ばれていなかった何か。


「……直したのか」

 リクが呟く。


 ユウは首を振った。

「違う」


 “それ”は壊していない。

 むしろ、その逆だ。

 直している。

 少なくとも、あちら側の理屈では。


『――修正継続』


 “それ”が、もう一歩進む。


 周囲の人間の影が、次々と本体に重なっていく。

 遅れが消える。

 音が一つになる。

 世界が滑らかになる。


 だが、そのたびに、ユウの胸の奥が冷えていった。


 これは安定ではない。

 切除だ。


「やめろ」

 ユウは低く言った。


 “それ”は止まらない。

 そもそも、聞いていない。


「やめろって言ってるだろ!」


 声を上げた瞬間。

 “それ”が初めてユウを見た。


 目はない。

 顔もない。

 だが、はっきりと分かる。

 認識された。


『――異常構造保持者』


 意味が、重く落ちる。


『――観測済』


 次の瞬間。

 圧力がユウへ向いた。


 世界が、ユウを中心に縮む。

 足元の影が、本体へ吸い寄せられる。

 遅れていた音が、一つにまとめられる。


 自分が作った世界の“揺れ”が、押し潰されようとしている。


「……っ」

 ユウは歯を食いしばる。


 ここで屈すれば。

 自分の世界は、ただの正常な世界になる。

 ズレのない。

 誤差のない。

 可能性のない世界に。


「……違う」


 ユウは、足元を見る。

 影が揺れている。

 まだ、完全には重なっていない。


「これは欠陥じゃない」


 一歩、前に出る。


「俺たちの世界だ」


 圧力が強まる。


 リクが叫ぶ。

「ユウ!」


 ミナが手を伸ばす。

 だが間に合わない。


 ユウは“それ”に向かって手を伸ばした。


 触れる。


 瞬間。

 頭の中に、知らない風景が流れ込んだ。


 空の上。

 さらにその上。

 無数の層。

 光に似た構造物。

 崩れていく境界。

 消えていく存在。


 争い。


 いや、争いという言葉では軽い。


 上位の世界でも、何かが壊れている。

 何かが消されている。

 何かが選別されている。


 そして、その破片が。

 副産物のように。

 人間界へ落ちてきている。


「……そういうことか」


 ユウは、手を離す。


 “それ”は敵だ。

 だが、単なる侵略者ではない。


 上で起きている崩壊の、落下物。

 あるいは、後始末のために送り込まれた修正者。


 ミナが低く言う。

「分かった?」


「ああ」

 ユウは頷く。


「上も壊れてる」


 “それ”が再び動く。


『――修正』


 感情はない。

 悪意もない。


 だからこそ厄介だった。


 これは悪者ではない。

 悪意を持たない破壊だ。

 正しさの顔をした排除だ。


 ユウは息を吐いた。


「なら、止めるしかない」


 リクが隣に立つ。

「どうやって」


「分からない」


「おい」


「でも、やる」


 ユウは、“それ”を見た。


 揺れを消す存在。

 不完全を修正するもの。


 ならば、自分がやることは一つだけだ。


「揺れを止めさせない」


 その言葉に、ミナがかすかに頷いた。


 世界が、再び軋み始める。


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