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エルフ王――四百年後、死んだはずの妻が帰ってきた  作者: 忘却セミコロン
第二章 世界樹への旅路

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第二十一話 二匹の猫

ハーブの香りがただよい、アークの意識がゆっくりと浮上した。


腕に抱いて寝たはずのシオンは、もういない。一階からは、食器を並べる音が聞こえてくる。


アークは重い体を緩慢に起こした。


「アーク、おはよ」

一階に降りると、シオンが声をかけてくる。


「おはよう。いい匂い……」


アークはテーブルに並ぶ朝食を見た。卵や野菜、燻製肉を挟んだサンドイッチと、ハーブの香りがするお茶。


学術都市での穏やかな日々の中、シオンの料理の腕は少しずつ上がっていた。


「今日はハーブでお茶を淹れてみたんだ」

シオンの顔は、少し得意げだった。


「……ありがとう。美味しいよ」

アークは彼女に、優しい口づけを落とした。




二人の借家の契約期限が、近づいていた。


「更新、どうしようか」

食後の片付けをしながらシオンが聞いた。二人とも、この街は気に入っている。


アークは少し考えてから、首を横に振った。

「……次へ行こうか」


あの老夫婦を見た夜から、胸の中に居座り続けている蟠り。ここに留まっていても、それが消えることはなかった。

ならば、今は先へ進もう。


それに――

早く、シオンを妻にしたい。


そう思うと、ここを離れることにも、少しだけ前向きな気持ちになれた。




都市を結ぶ馬車は、いつも隊列を組んで進む。


車体に塗られた色が、そのまま行き先を示していた。目的地ごとに色分けされた馬車が連なり、運送会社の護衛騎馬兵がその周囲をぐるりと固めている。


アークとシオンも、その列の一台に揺られていた。


街道はよく踏み固められていたが、森を抜ける区間だけは木々が道の両脇から迫っていた。木漏れ日が、車窓に落ちる影を絶えず揺らしている。


「次の街も、河沿いなの?」


「そう。このまま河を下ると、ノーグテネルへの船が出る港町に――」


異変は、唐突に訪れた。


森の奥からガチガチと硬質な音を立てながら、甲殻を持つ魔物の群れが押し寄せてきた。


鎧猪《アーマードボア》。


狙いは積荷の食料だ。馬車の隊列が、大きく揺れる。


「魔物だ! 隊列を崩すな!」

先頭の騎馬兵が、鋭く声を張り上げた。


「戦える人は、加勢を!!」

その声に、シオンとアークは、ほとんど同時に馬車を飛び降りていた。


甲殻は、見た目以上に硬かった。並の剣では刃が滑るだけで、傷一つつけられない。


シオンの小剣《スモールソード》が関節の隙間を正確に突き、動きを封じる。そこへアークの一撃が叩き込まれ、群れは瞬く間に数を減らしていった。


シオンの小剣が、次の鎧猪の関節を捉えた。刃が、甲殻の隙間に入り込む。

その瞬間、鎧猪が身をよじった。柄を握る手に、歪な衝撃が走る。


――嫌な音がした。


次の瞬間、剣身が根元から砕けた。


「……っ」

シオンが、短く息を呑む。


急いで、もう片手の短剣《ダガー》で突くが、浅い。致命傷を免れた鎧猪が、その勢いのままシオンに襲いかかってきた。


「シオン!!」

アークが横から体当たりでその軌道をずらし、鎧猪が振り返ったと同時に、喉を貫いた。


「シオン、怪我は!?」


「うん、大丈夫。ありがとう」


視界の端の砕けた小剣を一瞥し、シオンは短刀を利き手に構え直した。




戦闘は間もなく収まった。

静かになった戦場で、シオンは壊れた小剣を見つめていた。


シオンの武器は本来、対人用だ。軽く、取り回しやすく、一撃の重さよりも速さと精密さを活かすための造り。ダンジョンの下層でドラゴンの硬い鱗を幾度も削った負荷は、とうに限界を超えていたのだろう。


『あなたに似合うものを』


――姫から賜った剣。


シオンは折れた刃の断面をそっとなぞる。その指が、名残惜しそうに離れない。何も言わない横顔に、アークはかける言葉を探しあぐねていた。


「嬢ちゃん、その剣……」


気を遣って声をかけてきたのは、先ほど指示を飛ばしていた年配の騎馬兵だった。


「直せるかはわからんが……武器のことならアイゼルだな。ドワーフの国も近い。鍛冶師の腕なら、この国でも指折りだ」


「……アイゼル」


「次の目的地と、方向が違うなら悪いが……ちょうどこの先、分岐点で隊列が分かれる。アイゼル行きの馬車に、乗せてやれるよ」

騎馬兵は気さくに笑って、そう申し出てくれた。


彼女は折れた剣身をそっと鞘に収めながら、隣のアークを見た。

「……少し寄ってもいいかな?」


「もちろん」

アークは優しく、シオンの髪を撫でた。




日が傾く頃。アイゼル行きの馬車は、小さな休憩所に立ち寄った。


乗客たちが次々と降りていく。御者が馬の様子を確かめる間、アークとシオンも少し体を伸ばすことにした。


休憩所の軒先には黒い猫が一匹、丸くなって眠っていた。


「……気持ちよさそう」

シオンが足を止める。


猫は近くで人が動いても、起きる気配がない。陽の当たる場所を選んで、いかにも満足そうに眠っている。


シオンがそばにしゃがみ、その背をそっと撫でた。


荷車のそばで休んでいた男が、それを見て笑った。

「いいなあ、お前は。昼寝してるだけでかわいがってもらえて。俺も来世は猫がいいな」


男の独り言に近くにいた者が笑った。猫は耳をぴくりと動かしただけだった。


やがて。もう一匹、茶色い猫が現れた。


眠っていた黒猫の鼻先へ近づき、ちょん、と触れる。起こされた黒猫が目を開けると、二匹は鼻を寄せ合った。

片方が、相手の首元を舐め始める。もう片方も、それに応えるように頬を舐めた。


「仲がいいんだね」

シオンが微笑んだ。


「そうだな」

アークも頷いた。


猫たちは互いの体を寄せ合い、毛づくろいを続けている。

その姿を眺めているうちに先ほどの男の言葉が、ふと頭をよぎった。


『俺も来世は猫がいいな』


――来世。


死んだ肉体から、魂は抜け落ちる。

そして世界樹へ還り、やがて新しい命として生まれ変わる。

世界樹の麓で生まれたエルフのアークにとって、それは知識として――そして不思議と、感覚としても理解していることだった。


けれど。


アークは、隣にいるシオンを見た。


もし、彼女が自分より先に死んだら。彼女の魂もまた、巡っていくのだろう。


今とは違う体に宿り、今とは違う人生を生きる。

そして、いつか、誰かと出会う。


目の前の猫達のように、自然に近づき互いを受け入れ、寄り添うことだってあるのかもしれない。


シオンが、知らない誰かの隣で笑う。その人の手を取り、その人を愛する。


――自分の、知らない時間の中で。


アークは息を詰めた。

そんな未来を考えたくなかった。


シオンが幸せになることが、嫌なのではない。彼女には生きてほしい。笑っていてほしい。

自分がいなくとも。


――それなのに。


自分にはシオンのいない人生が、想像できなかった。


彼女を失ったあと、何十年、何百年と、生きていく自分。


その先で、誰かと出会い、親しくなり、また愛する。そんなことが、自分にできるとは思えなかった。


シオン以外の誰かと、人生を重ねる。その想像だけが、どうしても形にならない。


「ニャッ?」


気づけばアークは、黒猫を抱き上げていた。


黒猫は突然体を持ち上げられ、目を丸くしていた。迷惑そうに尻尾を揺らしたものの逃げ出すことはなく、アークの腕の中に収まっている。


温かかった。

アークは、黒猫の背をゆっくり撫でた。


――何をしているのだろう。


そう思ったのに、手を離す気にはなれなかった。


「アーク、猫が好きなの?」

シオンの声に、はっと顔を上げる。


「……どうしたの?」


「いや……なんでもない」


腕の中の黒猫が、じっとアークを見上げていた。アークは少し迷ってから、猫を地面に下ろした。


黒猫は何事もなかったかのように歩き出し、茶色い猫のそばへ戻っていく。二匹は、再び鼻先を寄せ合った。


アークは、その様子から目を逸らした。


「アーク? そろそろ行こう?」


「ああ……」


差し出されたシオンの手を取る。指を絡めると、彼女はいつものように微笑んだ。


その手は、温かかった。確かに、今ここにある。


アークは繋いだ手に、わずかに力を込めた。

シオンは不思議そうに彼を見上げたが、何も言わずその手を握り返した。


二人は並んで、馬車へと戻っていった。

街道の先には、いくつもの煙突から煙を上げる工業都市アイゼルが待っていた。


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