第二十話 君の歩く早さ
翌日。
二人が向かったのは図書館の片隅にある、閲覧用の小さな机。
アークが開いていたのは、ハイオーガという種族についての文献だった。
国境を固く閉ざしたその国は、外からの情報が極端に少ない。手に入る資料も古いものばかり。それでも構わなかった。
――シオンと一緒に生きていくなら、少しくらいは知っておきたい。
その一心でアークはページをめくっていた。
隣ではシオンが、料理の本を広げている。
「ねえ。アークは、何が好きなの」
「ん?」
「好きな食べ物。知らないなって思って」
アークは、少し考えてから答えた。
「ハーブ、かな」
「ハーブ……」
シオンは眉をひそめて考え込んだ。
料理の基本もまだおぼつかないというのに。
いきなり香草の使い方となると、途方に暮れているらしい。
その顔がおかしくて、アークは小さく笑った。
「シオンは、まず基礎からだな」
「……知ってるよ」
拗ねたように言い返しながらも、シオンの口元は少し緩んでいた。
(エルフの料理って、あるのかな)
そんなことを考えながらシオンは席を立ち、書架の奥へと向かっていった。
その背中を見送り、アークは手元の文献に視線を戻す。
そこにはハイオーガという種族の特徴が、淡々と綴られていた。
高い戦闘力。血の濃さと外見によって分かたれる、厳格な身分階級。見た目を重んじるがゆえの、綺麗好きな気質。武具の意匠にまで美を求める、独自の芸術文化。狩猟と農耕、両方が盛んな食文化。
そして――寿命。
目に入った数字に、アークの指先が止まった。
おおよそ、七十年。
人間と、さほど変わらない長さだった。
エルフの寿命は、五百年に届く。
分かっていたはずだった。種族が違う。当たり前のことだ。それなのに文字として目の前に突きつけられると、頭の中が急に重く冷たくなっていく。
アークは本を静かに閉じ、目頭を強く押さえた。
乱れた息を、整える。今は考えたくない。今だけは……
「アーク、見て」
顔を上げるとシオンが、両手に本を抱えて戻ってくるところだった。
『ノーグテネルの郷土料理』
『ハーブの使い方』
ノーグテネル――エルフの里の名だ。
「これならアークの好きな味、作れるかなって」
二冊の本を嬉しそうに胸に抱えるシオン。
アークは込み上げてくるものを、どうにか飲み込む。今は表情を崩すわけにはいかなかった。
「じゃあ、何か作ってみるか」
アークはなんとか、いつも通りの声で言った。
「うん」
二冊の本を借り、二人は手を繋いで図書館をあとにした。
繋いだ手の、ほんの少し先。
アークの心にまだ言葉にできない重さが、静かに沈んでいた。
夕方。
アークは、野菜とうさぎの肉、それに数種類のハーブが入った袋を抱えていた。隣を歩くシオンは、図書館で借りた本を大切そうに胸に抱えている。
二人の手は、空いた隙間で、しっかりと繋がれていた。
川沿いの道には、夕暮れの光が差していた。少しずつ日が傾き、街灯が一つ、また一つと灯り始める。水面にはその光が揺れ、流れに合わせて細長く伸びていた。
「夕飯を作るの、楽しみだね」
シオンが言った。
「今日のシオンは、見学」
「……わかってるよ」
拗ねた声に、アークは笑った。
そんなやり取りをしながら歩いていると、川沿いのベンチに座る老夫婦が目に入った。
白くなった髪。皺の刻まれた顔。ゆっくりと動く手。二人は寄り添って座り、穏やかな表情で川を眺めていた。
老婆が、何かを囁いた。隣の老人が笑い、老婆の手を取る。
シオンは、二人を見つめていた。
「……ねえ、アーク」
「ん?」
「私が、おばあちゃんになっても」
少し言い淀んでから、シオンは彼を見上げた。
「……好きでいてくれる?」
「当たり前だろ」
すぐに出た答えに、迷いはなかった。
――そんなの、当たり前だ。
シオンがアークを見つめて、重ねてくる。
「……髪が白くなっても?」
「うん」
「……顔が、しわしわになっても?」
「うん」
「……そっか」
少し嬉しそうに俯くシオンの瞳はかすかに潤んでいた。アークは、繋いだ手を握り直す。
白くなった髪も、皺の増えた顔も、今より小さくなった身体も。
きっと、愛おしい。
ゆっくり歩くシオンに歩幅を合わせ、川沿いを散歩する。昔のことを思い出して笑い合い、食事のたびに味付けをからかう。
そんな未来を想像すると、胸の奥が温かくなった。
――いいな。
ずっと、隣にいてほしい。皺が増えても、髪が白くなっても、何も変わらない。
けれど。
その先を考えた途端、胸の奥に冷たいものが落ちてくる。
シオンは先に死ぬ。エルフである自分より、ずっと早く。
彼女が年老いていく姿を見届けたあと、自分だけが残される。
それから先、たった一人で、どれだけの時間を生きるのだろう。
百年。二百年。あるいは、それ以上を。
――シオンのいない世界で。
アークは繋いだ手に、そっと力を込めた。
「……アーク?」
シオンが、不思議そうに見上げてくる。
「どうしたの?」
「いや」
アークは小さく首を振った。
「何でもない」
シオンは少しだけ首を傾げたが、それ以上は尋ねなかった。
自分がおばあちゃんになった姿は、何となく想像できる。髪が白くなって、顔に皺が増えて。それでも、隣にはアークがいる。
きっと、今と同じように、手を繋いで歩いてくれる。
シオンは、ふと隣を見上げた。
肩にかかる髪。整った横顔。いつもと変わらない、少しだけ不愛想な表情。
――おじいちゃんになったアークもきっと、かっこいい。
そう思ってから、シオンは気づいた。
エルフは、自分よりもずっと長く生きる。
アークが年老いる頃には自分はもう、隣にいないのかもしれない。
――見たかったな。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
シオンは何も言わず、隣を歩くアークの肩にそっと頭を寄せた。
アークが、わずかにこちらを向く。けれど、何も尋ねなかった。ただ、繋いだ手を離さずにいてくれた。
夕暮れの川沿いを、二人はゆっくりと歩いていく。
水面に揺れる街灯の光が、少しずつ遠ざかっていった。




