第十九話 追いつく気持ち
「少し、寄りたい街があるんだ」
都市を往復する馬車の中。絡めた指を弄びながら、アークはシオンに囁いた。
「うん、いいよ」
どこに行くのかも、何をするのかも聞かないシオン。
ルカに助け出されたばかりの自分と重なり、アークは胸の奥が痛んだ。
「……学術都市ヴィディアル。行ったことは?」
「ううん。他の街は初めて」
「そう。少し調べたいことができたから、しばらく滞在しようと思う。いいかな?」
「うん。楽しみ」
シオンは目を細め、嬉しそうに微笑んだ。
どんな街なのかも、何ができるのかも、まだわかっていない。それでも、彼女は楽しみだと言う。
「……何が、楽しみ?」
意地の悪い質問が、アークの口からこぼれた。彼女自身に、考えてほしかった。
シオンは少し俯き、考え込んだ。
「……何だろう。でも、アークと一緒だと、何でも楽しいから」
その答えに、絡めた指を握る力が、ほんの少し強くなった。
二人一緒なら、何でも楽しい。そう言ってくれる彼女が、愛おしかった。
「シオンはある? ……何か、やってみたいこととか」
「えっ」
シオンは目を瞬かせた。まるで、そんなことを聞かれるとは思ってもいなかったように。
しばらく考えた後、眉を下げる。
「……どうしたの?」
アークが覗き込むと、シオンは耳まで赤くなった。
「……料理」
ぽかんとした後、アークは思わず吹き出した。
出会って間もない頃、味のないスープを差し出してきたシオンを思い出した。あの時も、彼女は恥ずかしそうに耳を赤くしていた。
「教えようか?スープの味付けとか」
からかうように言うと、シオンは少し悔しそうに口を曲げた。それから、ほんの少しだけ笑って頷いた。
大きな河川に沿うように広がる街、学術都市ヴィディアル。
中央には図書館を併設した大きな学校があり、その外側を研究塔が取り囲んでいる。
料理をしたいというシオンのために、アークは宿ではなく、家具付きの小さな家を借りた。
二階建てのこぢんまりとした住居。窓を開ければ、川の流れと遠くにそびえる研究塔が見えた。
戦いとは無縁の日々が、そこから始まった。
台所に立つ時間はシオンにとって、一番大事な時間になった。
レシピを真剣に読み込んでは、材料の大きさをきっちり測って切る。眉を寄せて慎重に焼き、鍋から目を離さずに煮こむ。
味を確かめ、調整して、また味をみる。
「ふぅ。……すごく、難しい」
料理というのは、どうしてこんなに手間暇をかけるのだろう。
ふと、以前のことを思い出す。
ルーカスのいるモンスターホールを前に、張り詰めていた時。差し出した碗を受け取り、アークがスープを口に運んだ。そして、ほっとしたように息をついた。
ようやく、力を抜いてくれたのだ。
あの時、シオンは嬉しかった。
また、自分の作ったものを食べて欲しい。美味しいと笑って欲しい。
――アークに。
そこまで考えた瞬間、胸が大きく跳ねた。
「……っ」
「シオン?」
「……何でもない」
慌てて鍋へ視線を戻す。胸が高鳴っている。
いつも通り、すぐそばにアークがいるだけなのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
アークが笑ってくれたら、嬉しい。アークが喜んでくれたら、自分も嬉しい。
――どうして?
その時、脳裏に昔の記憶が蘇った。
アリアとカイリ。
二人が互いを見つめていた姿は、いつも幸せそうだった。それなのに、どこか切なそうで。そして、苦しんでいた。
あの二人の間にあったものを、シオンは知っている。
けれど、それは自分には関係のないものだと思っていた。
「……これが」
小さく呟く。
これが、恋なのだろうか。
そう思った瞬間、アークが心配そうに顔を覗き込んできた。
「どうした?」
前髪が触れる距離で目が合った。
「……っ」
シオンは思わず顔を背け、一歩後ずさった。
「え? ……俺、何かしたか?」
「ち、違う」
「じゃあ、何?」
距離をまた詰めるアークに、シオンは慌てた。
「待って……今、アークの顔……見れない」
切なそうな顔に、潤んだ瞳。
アークはシオンから目を離せなくなる。
「……恥ずかしい」
シオンはついに両手で顔を覆う。
「……どうしたらいいか、わからない」
指の隙間から見える頬が、赤い。
しばらくの間、アークはその様子を惚けた顔で見ていた。
そして、ようやく思い至る。
――もしかして、今さら自覚したのだろうか。
ふと、笑いが込み上げた。
動けないシオンの耳元に唇を寄せ、アークは囁くように言う。
「たくさんキス、してるのに?」
「……」
「毎日俺に、抱かれてるのに?」
「やめて……」
シオンは耳まで真っ赤になってしまった。
アークは可笑しそうに笑った。シオンはますます俯く。
「笑わないで……」
「ごめん」
そう言いながらも、アークの口元には笑みが残っていた。
「可愛い」
「……」
シオンはしばらく俯いていた。胸の鼓動は、まだ速い。恥ずかしい。どうしていいか、わからない。
それでも。
ゆっくりと顔を上げた。そっと伸ばした指先が、アークの服を少し引く。
「ん?」
アークにまっすぐに見つめられ、シオンの胸がまた大きく鳴った。呼吸が止まりそうになる。
――それでも、今、伝えたかった。
「……アーク」
「うん。何?」
「……好き」
「……っ」
アークは思わず、片手で顔を覆った。
「……ちょっと、待っ、て」
「?」
困ったような表情で、耳まで赤くしていた。
――いつも飄々とした彼が、こんな顔をするなんて。
シオンが見つめていると、アークは深く息を吐いた。それから、顔を覆っていた手を下ろす。
何か言おうとして、やめた。
代わりにシオンを抱きしめた。腕に込められた力は、いつもより少しだけ強かった。
シオンは彼の胸に頬を寄せる。
「……アーク?」
返事の代わりに、髪に唇が触れた。しばらくして、頭の上から小さな声が落ちてくる。
「……俺も、どうしていいかわからない」
その言葉にシオンはくすぐったそうに笑った。アークも、困ったように笑っていた。
心地よい互いの鼓動が、柔らかく二人を包んでいた。




