番外編 魂は、戻らない
十年前。王都神殿内、シャンテの私室。
本が、あちこちに散乱していた。薬の調合器具と魔導書が積み上がった机で、シャンテは古語で書かれたレシピに眉を寄せ、黙々と薬を調合していた。
その部屋のソファに座る、少年とも青年ともつかない若いエルフ。アークはぼんやりと、その手元を眺めていた。
ドアが、ノックされる。
「シャンテ、待たせてごめん!」
少し息を切らした、ルーカスの声だった。
司教のシャンテは、子供の頃から神殿に預けられていたルーカスの世話役だった。
真面目で優しすぎる彼を、シャンテはずっと案じていた。だが本人には戦いの素質があり、騎士としてすぐに頭角を現した。
近年では、騎士団の団長にと声が上がるほど、皆から慕われている。
「アーク、すまんが鍵を開けてやってくれ」
シャンテに頼まれ、アークはのろのろと立ち上がってドアを開けた。
「ありがと、アーク……って、これ何の匂い?また新しいポーションでも作ってるの?」
鼻をつまみながら入ってきたのは、短く切られた髪と、地毛とは違う色の付け髭をつけたルーカスだった。
アークは、目を見開いた。
「……なんじゃい、その髪と髭は」
シャンテが、訝しげな顔で彼を見る。
「いやー。俺、髭があまり生えなくてさ……毛生え薬とか、調合できない?」
「そんなもんできたら、今頃儂は大金持ちじゃい」
シャンテが、呆れた顔で答えた。
「ルカ、髪が……」
アークは、眉を下げた。
今朝見たばかりの綺麗な長い髪が、今は短く切られている。
「ん?ああ、気分転換だよ。洗うのが楽そうでいいだろ?」
ルーカスは、朗らかに笑ってみせた。
(僕のせいだ)
ルーカスが髪を解くたびに、アークは呼吸ができなくなる。自分を痛めつけた女達。ルーカスの姉と妹。その同じ色をした長い髪に、どうしても面影が重なる。震えが止まらなくなる。
それに気づいたからこそ、切ることで守ってくれたのだろう。
助けてくれた恩人である二人は神殿騎士団に所属し、多忙な身だった。それでも、保護されてから何をするにも無気力で動きの鈍いアークを、交代で見てくれている。
そんな二人に、最近になってアークも少しずつ、心を開き始めていた。
「……すまなんだ」
シャンテが、ぽつりとこぼす。
「いや。これは俺が、自分で選んだことだ」
ルーカスは、からりと歯を見せて笑った。
世界樹信仰は、この国の国教だった。
世界樹の麓に唯一住むことを許されたエルフは、信仰する者達にとって、神の愛し子とされている。
そのエルフが、近頃、信仰の薄い貴族の間で奴隷として売り買いされていた。
長い寿命を持ち、美しく若い姿を保ち続ける彼らは、愛玩の道具として都合が良すぎた。
そんな状況に国と神殿は、密かに合同で調査に乗り出していた。
シャンテはその立場上、ルーカスの生家――レデウィン家が闇売買の顧客として疑われていることを知り、彼にだけ密かに助言した。
『エルフがいたら、こっそり連れ出して来い』
本当は、彼の進退に関わる証拠を先に消しておけ、と伝えたつもりだった。
だが、敬虔な信徒で生真面目すぎるルーカスは、家族の所業を許せず神殿上層部へ直接報告してしまった。
結果、芋蔓式に販売路が炙り出され、多くの貴族の屋敷から囚われていたエルフ達が救出された。関与した家は、その規模に応じて処罰された。レデウィン家も家格を落とし、当主の怒りを買ったルーカスは破門された。平民落ちだった。
ルーカスの婚約も解消された。初恋が実った、と幸せそうに笑っていたばかりだったのに。
神殿の中でも、関与した家門の出身であるという理由で処分が下され、ルーカスは王都から迷宮都市へと左遷されることになった。
「シャンテは、若い頃に迷宮の神殿にいたよね?任務って、どんな感じ?」
気にする様子もなく、柔らかく笑って尋ねる。
シャンテは納得のいかない表情のまま、少し視線を上げた。
「あの迷宮は世界最大じゃ。まず入り口が無数にある。上層は広大で、とても把握しきれん。下層へ行くほど、構造は狭くなっていく。階段は、一層だけ降りるものもあれば、複数層をまたぐものもある。罠も魔物も強力じゃ。しかも、構造が時々変化するから、記録はまるで役に立たん」
「……それは、恐ろしく攻略が難しそうだね」
ルーカスは、付け髭を撫でた。シャンテの仕草の真似だった。
シャンテが片眉を上げると、ルーカスは、したり顔でにやりと笑う。真面目に聞いているのか、いないのか。
ため息をついて、シャンテは続けた。
「斥候を連れて行くのが必須じゃが、数が足りん。あまりに広大での、神殿騎士団でも中層までを任務範囲と定めとる。とにかく、人手が足りんのじゃ」
アークは、膝の上で手を固く握りしめていた。
――全部、自分なんかを助けたせいだ。
「アーク」
気づけば目の前に、跪いて目線を合わせるルーカスの顔があった。
困った顔をしているアークに、ゆっくりと諭すように言う。
「君は、被害者だ。そして、俺の家族が加害者だった。君が傷つけられている間、何も知らずに……呑気に過ごしていた責任を、今さらながら取っているだけだよ」
そう言って、アークの頭を撫でた。温かい手だった。
――もし、兄がいたら。こんな感じなのだろうか。
「エルフ達は里の近くまで、神殿騎士団が護送することになった。君も、帰れるよ」
エルフは神の愛し子などと呼ばれているが、役に立たない自分より、この人の方がよほどふさわしい。
アークは、首を振った。
「僕も、ルカと行く。神殿騎士になる」
小さく。けれど意思の固い、はっきりとした声だった。
アークが本以外のものに興味を持ったのは、これが初めてだった。この、強くて優しい背中を、追いかけてみたくなっていた。
「君に、剣は……」
ルーカスが言い淀む。エルフは肉弾戦に向かない種族だ。長身ではあるが、体は細い。
「それでも、やってみたい」
ルーカスは、目を見開いた。
虚ろだったアークの瞳に初めて、光が宿っていた。
この少年への償い方をようやく見出せた気がして、ルーカスは泣きそうな顔で笑った。
「儂直伝の身体強化を教えてやるわい。うまく使えば、重装備でもいけるじゃろ」
はっはっは!と、豪快に笑う。
「……シャンテも、ついてくる気なの?」
ルーカスが、信じられないという顔で、二人を見比べた。
「当たり前じゃ。久しぶりに体が疼くわい」
シャンテは、大きく腕を回してみせた。
一通り、移住の話に花を咲かせたあと。
「……シャンテ、ありがとう。正直、心強いよ」
ルーカスが少しだけ目を伏せる。
シャンテは微笑んで頷いた。
「じゃあ、アーク。部屋に戻ろうか」
アークの頭をポンポンと叩き、ルーカスがソファから立ち上がる。
二人が部屋を出る、その直前。
アークは不意に、シャンテを振り仰いだ。
「魂は、死んだ瞬間に体から抜け落ちる」
シャンテが目を見開く。
「あの霊薬で、魂は戻らない。体は元に戻せても、次に宿るのは別の魂だ」
先を行くルーカスには聞こえない、とても小さな声だった。
「そんなに思われて、幸せだったと思うよ。僕には親がいないから……たぶん、だけど」
それだけ言い残し、アークは少し先で立ち止まっていたルーカスを追いかけていった。
残されたシャンテは、ふらりと椅子に倒れ込んだ。
視線の先、ベッドサイドの上には、妻子の写真と、小さな骨壷が置かれている。
諦めきれずに、ずっと握りしめていたものを――愛し子が、そっと解いた夜だった。




