第十八話 幸せになれ
まだ靄が晴れきっていない、朝の駅。
都市を往復する馬車が、規則正しい間隔で広場に滑り込んでは、また出ていく。石畳を打つ蹄の音と、切符を確かめる駅員の声が、いつもと変わらない朝を作っていた。
その雑踏の中に、二人は姿を現した。
シオンはアークが選んだ、落ち着いた色味の旅装だ。切り整えられた髪と薄く施された化粧が、その整った顔立ちを柔らかく引き立てていた。
影に徹していたかつての表情は、もうどこにもない。愛されている自信が、彼女の佇まいそのものを変えていた。
隣を歩くアークも揃いの意匠の外套をまとっていた。自分が変えた彼女の姿に、つい見惚れてしまう。
皆に見せたい。でも、誰にも見せたくない。
アークは少し増えた二人分の荷物とルカの剣を担ぎながら、彼女の手を取りゆっくり歩いた。
広場の端、柱の陰に二人を待つ影があった。
シャンテと、カイリだ。
先に気づいたのは、シャンテだった。目を細め、感心したように声を弾ませる。
「ほぅ!まるで、別人だな。アークが選んだ服か?よく似合ってるぞ」
カイリは、何も言えずにいた。
予想していた以上に、シオンの変化は大きかった。女性らしい出で立ち。穏やかな表情。
かつて布を被せて名前すら呼ばず、ただの捌け口として扱っていた相手が、今はこんなにも輝いて見える。その事実が、カイリの喉を詰まらせていた。
「シオン。お前、こんなに綺麗だったか……?」
思わず漏れた言葉だった。
その瞬間、アークの目が細くなった。
何も言わないまま、すぐにシオンの腰に腕を回し、自分の側へと強く抱き寄せる。
カイリは小さく息を吐き、乱暴に頭をかいた。
「チッ。……わかってるよ」
それから改めて、シオンに向き直る。そこにいたのは、いつもの粗野なカイリではなかった。
「許さなくていい。ただ、聞いてほしい」
シオンは静かに、彼に目を向けた。
「アリアの死は……護衛である俺の失態だった」
目線が落ちる。
「それなのに、お前に責任を押しつけて、自分の怒りの捌け口にしてきた。お前はそれを罰だと受け止めて、何も言わなかった。俺は、それを利用した。……最低だった」
拳が、強く握りしめられていた。
「今さら遅いし、軽すぎるのはわかってる。それでも――謝らせてくれ。本当に、悪かった」
頭を下げるカイリを、シオンはしばらく見つめていた。
長い沈黙が広場に満ちる。行き交う人々の声も、馬車の音も、その一瞬だけは遠くに感じられた。
やがてシオンは、少しだけ目を伏せ、それからゆっくりと顔を上げた。
「……カイリ」
幼馴染を呼ぶ声が、彼の中に静かに落ちる。
「アリア様は……かけがえのない、大切な存在だった。だから私達は、あんなやり方でしか、正気を保てなかった」
その手が、震えていた。
「だから……許すよ」
カイリが、顔を上げる。
シオンの瞳から涙が一筋、こぼれ落ちた。
「だから……許して」
カイリはこの時初めて、いまだに自分自身を許せずにいる幼馴染の姿を、まっすぐに見た。
「……許すよ」
彼の声も、震えていた。
しばらくして、カイリが頭を乱暴にかき乱した。
「もうやめだ!もう、お互いに責めるのも終わりだ!」
突然の大きな声に、シオンは驚いて目を見開いた。
でも、顔を上げたカイリは穏やかな顔を、彼女に向けていた。
「……ちゃんと前を向いて生きろってことだろ。それがアリアの言葉の意味だったんだと、今ならやっと思えるよ」
長い月日をかけて、ようやく辿り着いた言葉だった。
「……そうだね。カイリが、そう言うなら」
ポロポロと涙をこぼしながら、シオンが小さく、苦しそうに笑った。
アークは気づかないうちに、シオンの体を自分の方へと引き寄せていた。
二人だけが共有してきた長い時間。そこに自分の入る余地はない。それでも、その重荷だけは少しでも早く解いてやりたかった。
気づいたシオンがアークを見上げ、彼の胸に少しだけ体を預ける。
それを見てカイリも、寂しそうに笑った。
シオンの涙が止まるのを見て、シャンテがアークの方へ歩み寄った。
老司教は何も言わずに、青年を抱きしめた。大きな手がその背中を、何度も叩く。
「ずいぶん、立派になったな」
声に、わずかな熱がこもっていた。
「ルカも喜んでおるだろうよ。あの世で会ったら、すぐに報告してやる。お前が助けたガキが、可愛い嫁を捕まえたぞってな」
アークは肩の力を抜いて、老司教の背に腕を回した。
「……ありがとう、シャンテ。世話になった」
「礼などいらん」
少しだけ、声が詰まる。
「そろそろ……幸せになれ。それだけじゃ」
そのとき出発を告げる鐘が、澄んだ音で駅に響いた。
魔力の光をまとった、四頭立ての大きな馬車が、滑るように広場へと入ってくる。
四人は最後に、もう一度だけ顔を見合わせた。もう、多くの言葉は必要なかった。
アークがシオンの手を強く握り、馬車の階段へと足をかける。
シオンは一度だけ振り返り、シャンテとカイリに小さく頭を下げた。
二人も無言で、それに応える。
扉が、静かに閉まった。
馬車がゆっくりと動き出し、やがて魔馬が速度を上げていく。
車両の中でアークは、窓に近い席にシオンを座らせた。自分もその隣に腰を下ろすと、すぐに彼女の手を握った。
指を絡めるように、しっかりと。
離さない。誰にも渡さない。
言葉にはならない、自分の中だけの決意。
窓の外。見慣れた都市の景色が、少しずつ後ろへ流れていく。シオンはその景色を見つめながら、繋がれた手にそっと力を込め返してくれた。
何も言わなくても、伝わるものがあった。
残された広場で、カイリが呟いた。
「俺さあ、シオンが好きだったよ」
「そうか」
「でもさ、アリアを愛してるんだ」
「知っとる」
シャンテが短く応じた。
「……ひでーだろ?」
「はっはっは!」
シャンテが声を上げて笑った。
カイリは天を仰いだ。
「アリア、許してくれっかなぁ……」
シャンテは髭を撫でて目を細めた。
「喪くした人を愛したまま、別の人に惹かれることもあるじゃろ。心はそんなに、器用にできておらん」
「……」
シャンテはカイリの新しい剣を指差した。
「それでも、魂の一番深いところに残ってた願いは、姫さんだったんじゃろ」
「……そう、だな」
二人で空を見上げた。
不意に。シャンテが身体強化に乗せて、渾身の力でカイリの背を叩く。
「いってぇ!!!」
「自分で縛るなよ、若造」
「……るせぇ、じじい」
カイリのその声は、どこか晴れやかだった。
一章、完。
二章から更新頻度を変更します。




