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エルフ王――四百年後、死んだはずの妻が帰ってきた  作者: 忘却セミコロン
第一章 沈黙を解く迷宮

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第十五話 逃げない

石柱の並ぶ辺りは、静寂に包まれていた。

魔物の灰が風もないのに、ゆるやかに舞っている。


その静けさの中で、アークは薄く笑った。

「もう、逃げないで」


シオンが濡れた睫毛を伏せたまま、わずかに頷く。


アークは、その顔をしばらく見つめていた。

これまで何度、触れたいと思っただろう。

けれど、その度に怖かった。


今も、怖い。

それでも、触れたい。


――逃げたくない。


そう確かめるように、ゆっくりと顔を寄せた。


角度もわからず鼻先が触れ、思わず小さく笑いが漏れる。それから、あらためて顔を傾け、そっと唇を重ねた。


乾いた唇に、涙の味が混じっていた。


ただそれだけのことでアークの胸は、痛いほどに締めつけられた。今にも溢れ出しそうな愛しさと、目の奥が熱くなるほどの多幸感が、同時に押し寄せてくる。


二度、三度。

確かめるように唇を重ねる。

それだけなのに、胸が苦しいほど高鳴っていた。


シオンから力が抜け、遅れて唇が開いた。舌先が触れ合った瞬間、アークの肩が小さく震えた。


恐怖が消えたわけではない。

それでも、離されることの方が怖い。


アークの指が、短くなったシオンの髪をくぐる。緩んだ襟の隙間から、互いの古い傷痕が見えた。

体の至る所に刻まれた、深い跡。


いつの間にか二人の武器は、乾いた音を立てて足元に落ちていた。それに気づく余裕さえ、もうどちらにもなかった。


気づけばアークは、シオンの背中を石柱に押し付けていた。

慌てて身体を離そうとしたが、シオンが服を緩く掴む。


「……行かないで」


その言葉が、アークの理性を揺さぶった。


自分のしていることに、まだ戸惑っている。記憶が不意に蘇るかもしれない――そんな不安がこびりついている。


それでも。


目の前にいるこの人が、愛しくて、欲しくて、たまらない。理屈は、とっくに追いついていなかった。


「……いいか」

声が、掠れた。

自分でも驚くほど、余裕のない声だった。


シオンは目を潤ませたまま、小さく俯く。

「……望んで、くれるなら」


「俺が、したい」


初めて、正しく欲した。


薬に浮かされるでも誰かに命じられるでもなく、自分の意思で、触れたい。この温度で、この人を、抱きたい。


伸ばした手が震えていた。シオン手がそっと重なる。支えているのか止めようとしているのか、境界がない。どちらでもよかった。


「……ん」


首筋に、シオンの頬が触れた。ただそれだけで、頭の中が白く溶けていくようだった。


時折シオンが「ごめん……」と、掠れた声で呟く。


死なせたこと。隠していたこと。好きになったこと。そのすべてが、こぼれ落ちてくる。


「ごめんは、いらない」

アークはその度に、キスで口を塞ぐ。



シオンの膝がアークの腰にゆるくかかり、短い髪が石柱に散る。


埋め合わせではない。薬で奪うものでもない。愛しい人が、自分を見て、自分の名前を――


「アーク……」


模倣より甘くて拙い。

拙い方が、欲しい。


古い記憶は消えない。

熱した金属の匂いも、固定された手首の痛みも、きっとこれから先も残る。


それでも今は。

腕の中の体温が、消せない記憶を一段奥に押し込めていく。


アークの手がシオンを支え、シオンの腕が応えるように背中に回る。


「好きだ」


吐息の間に置いた。


シオンは目を細めて、うなずく。

涙がまた一粒、アークの肩に落ちる。


罰でもない。

許しを乞うでもない。


ただ、好きだから溢れる。


アークは何度も止めてキスをする。

受け入れあう感覚を、記憶じゃない場所に刻みたい。


「シオン」


アークは愛しい彼女の名前を呼ぶ。


「アーク……」


シオンも、小さな声で答える。


守られる側にいた男が、守ることを許された。

そして自分もまた、その腕に身を預けることを選んだ。




余韻の中で二人は石柱に寄りかかったまま、額を合わせた。


もっと近くにいたい。

この人と生きていきたい。


その気持ちを、もう否定したくなかった。


「そばに、いさせて」

アークがつぶやいた。


「うん」

シオンが小さく頷く。


アークはもう一度だけ、そっと彼女に口づけた。

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