第十五話 逃げない
石柱の並ぶ辺りは、静寂に包まれていた。
魔物の灰が風もないのに、ゆるやかに舞っている。
その静けさの中で、アークは薄く笑った。
「もう、逃げないで」
シオンが濡れた睫毛を伏せたまま、わずかに頷く。
アークは、その顔をしばらく見つめていた。
これまで何度、触れたいと思っただろう。
けれど、その度に怖かった。
今も、怖い。
それでも、触れたい。
――逃げたくない。
そう確かめるように、ゆっくりと顔を寄せた。
角度もわからず鼻先が触れ、思わず小さく笑いが漏れる。それから、あらためて顔を傾け、そっと唇を重ねた。
乾いた唇に、涙の味が混じっていた。
ただそれだけのことでアークの胸は、痛いほどに締めつけられた。今にも溢れ出しそうな愛しさと、目の奥が熱くなるほどの多幸感が、同時に押し寄せてくる。
二度、三度。
確かめるように唇を重ねる。
それだけなのに、胸が苦しいほど高鳴っていた。
シオンから力が抜け、遅れて唇が開いた。舌先が触れ合った瞬間、アークの肩が小さく震えた。
恐怖が消えたわけではない。
それでも、離されることの方が怖い。
アークの指が、短くなったシオンの髪をくぐる。緩んだ襟の隙間から、互いの古い傷痕が見えた。
体の至る所に刻まれた、深い跡。
いつの間にか二人の武器は、乾いた音を立てて足元に落ちていた。それに気づく余裕さえ、もうどちらにもなかった。
気づけばアークは、シオンの背中を石柱に押し付けていた。
慌てて身体を離そうとしたが、シオンが服を緩く掴む。
「……行かないで」
その言葉が、アークの理性を揺さぶった。
自分のしていることに、まだ戸惑っている。記憶が不意に蘇るかもしれない――そんな不安がこびりついている。
それでも。
目の前にいるこの人が、愛しくて、欲しくて、たまらない。理屈は、とっくに追いついていなかった。
「……いいか」
声が、掠れた。
自分でも驚くほど、余裕のない声だった。
シオンは目を潤ませたまま、小さく俯く。
「……望んで、くれるなら」
「俺が、したい」
初めて、正しく欲した。
薬に浮かされるでも誰かに命じられるでもなく、自分の意思で、触れたい。この温度で、この人を、抱きたい。
伸ばした手が震えていた。シオン手がそっと重なる。支えているのか止めようとしているのか、境界がない。どちらでもよかった。
「……ん」
首筋に、シオンの頬が触れた。ただそれだけで、頭の中が白く溶けていくようだった。
時折シオンが「ごめん……」と、掠れた声で呟く。
死なせたこと。隠していたこと。好きになったこと。そのすべてが、こぼれ落ちてくる。
「ごめんは、いらない」
アークはその度に、キスで口を塞ぐ。
シオンの膝がアークの腰にゆるくかかり、短い髪が石柱に散る。
埋め合わせではない。薬で奪うものでもない。愛しい人が、自分を見て、自分の名前を――
「アーク……」
模倣より甘くて拙い。
拙い方が、欲しい。
古い記憶は消えない。
熱した金属の匂いも、固定された手首の痛みも、きっとこれから先も残る。
それでも今は。
腕の中の体温が、消せない記憶を一段奥に押し込めていく。
アークの手がシオンを支え、シオンの腕が応えるように背中に回る。
「好きだ」
吐息の間に置いた。
シオンは目を細めて、うなずく。
涙がまた一粒、アークの肩に落ちる。
罰でもない。
許しを乞うでもない。
ただ、好きだから溢れる。
アークは何度も止めてキスをする。
受け入れあう感覚を、記憶じゃない場所に刻みたい。
「シオン」
アークは愛しい彼女の名前を呼ぶ。
「アーク……」
シオンも、小さな声で答える。
守られる側にいた男が、守ることを許された。
そして自分もまた、その腕に身を預けることを選んだ。
余韻の中で二人は石柱に寄りかかったまま、額を合わせた。
もっと近くにいたい。
この人と生きていきたい。
その気持ちを、もう否定したくなかった。
「そばに、いさせて」
アークがつぶやいた。
「うん」
シオンが小さく頷く。
アークはもう一度だけ、そっと彼女に口づけた。




