第十四話 互いの本音
二十六層。
迷宮は欲望を欲し、それを糧にする。
下層へ進むほど迷宮は探索者の欲望を喰らい、それに似た魔物を生み出す。
それを暗示するかのように、空気そのものが粘つくように重い。
石壁の亀裂から影が滲み出るようにして、一体の魔物が飛び出してきた。それを見た瞬間、アークとシャンテの体は勝手に強張る。
偽愛魔。
記憶に干渉し、その愛しい人を模倣する魔物。
半年前ルカ達を死に至らしめた、あの因縁の敵だった。
シオンの前に躍り出た魔物は、瞬く間にその輪郭を変えた。
「……っ!?」
シオンの顔から血の気が引いた。
模倣したのは、アークだ。
アークの形をした何かは、シオンから見る彼そのものだった。
「シオン……」
名前を呼ぶ柔らかい声。
穏やかに細められる目元。
無意識の中、触れたそうに伸ばされる指。
そのすべてに、隠しようのない想いが滲み出る。
本物のアークは、それをまざまざと見せつけられていた。
――ああ、これが俺なのか。
自分自身ではまだ曖昧なのに。
目の前に突きつけられれば、もう否定できない。
こんなに、好きになっていたのか。
同時に悟った。
シオンの想い人も、自分なのだと。
――嬉しい。
こんな状況で何を考えているのかと自分でも呆れる。それでも。途方もなく、嬉しい。
動けずにいるシオンに偽物の手が触れようとする。その瞬間アークは、既に剣を振り下ろしていた。
「――触れるな」
魔物は慌ててシオンの姿へ変わろうとし、頭から両断されていた。
同じ頃。少し離れた場所でカイリの前には――アリアが立っていた。
「カイリ」
愛しそうに、微笑みながら名を呼ぶ。
「聞いてたまんまだな。そんなもんで俺が――」
そう言いかけた瞬間。
その姿が揺らいだ。
アリアが、別の誰かへと塗り替えられていく。
カイリは――動けなくなった。
艶やかな黒髪に、赤みが差していく。
澄んだ赤い瞳が少しずつ、褐色へと変わっていく。
「や、め……」
にじり寄る魔物へ鋭い雷撃が落ちた。空気が一瞬だけ、白く弾ける。
「しっかりせぇ!」
杖を構えたシャンテの一喝が、闇を裂いた。
その足元には、彼によく似た目元の少年が転がっていた。
「父さん……」
そう呟き、やがて元の魔物の姿へと戻っていく。シャンテは一瞬だけ目を閉じる。杖を握るその手は微かに震えていた。
混乱の中で四人は、次々と襲いくる魔物を何とか斬り伏せていった。息を整える暇もないまま階層に静寂が戻るまで、どれほどかかっただろうか。
すべてが片付いたあと、シャンテが短く言った。
「……この先で、一旦整えるぞ」
そして座り込んでいるカイリの腕を、有無を言わさず引いた。
「……シオン」
立ち尽くしたままのシオンに、アークが声をかける。
互いの想いは、もう知れてしまった。隠す理由も、これ以上はないはずだ。
アークは、手を伸ばした。
シオンは、その手から――逃げた。
弾かれたように背を向け、走り出す。
「シオン!」
呼ばれても、止まらない。
どうして。
「はよ、追いかけんかい」
シャンテに促され、我に返ったアークが駆け出す。
背後で老司教が、小さく笑う声がした。
蹂躙された魔物の痕跡を辿り開けた場所まで来たところで、アークはようやくシオンに追いついた。
崩れた石段のあちこちに、まだ乾ききらない魔物の残骸が散らばっていた。逃げながらも、なお斬り続けていたのだと、その光景だけで分かった。
「……追って、こないで」
泣きながら走り続けた彼女の呼吸は、ひどく乱れていた。肩が、大きく上下している。
「これ以上、近づかないで」
整わない息のまま、シオンは泣きながら懇願した。
「嫌だ。シオンと、離れたくない」
アークが一歩、シオンに近づく。
「俺はもう、分からないふりをしたくない」
また一歩。
シオンの声が、震える。
「私に、誰かのそばを望む資格なんて……ない」
「そばにいることに、資格なんて関係ないだろう!」
詰め寄るアークに、シオンは後ずさった。冷たい石柱がその背に触れる。
「アークだって……私といることで、記憶が蘇ったら? 私を見て、また苦しむ顔をしたら?」
その言葉にアークは言葉を詰まらせる。
確かにそうだ。克服などできていない。今この瞬間も古い記憶は、消えずに胸の奥にわだかまっている。
「――思いが通じた後に、拒まれたら?」
瞳から涙がまた、こぼれ落ちた。
失うくらいなら、最初から望まない方がいい。
「全部、怖い……怖いよ……」
泣き崩れるシオンの思考はもう、まとまらなくなっていた。
アークは、膝をついた。
小さく震える体を、そっと抱きしめる。
「その通りだ」
静かに諭すように、アークは言葉を紡いだ。
「それでも俺は、シオンのそばにいたくてたまらない」
いつもとは違い、ひどく頼りない背を撫でる。
「俺は、こうして触れていたい。それが許されるなら――シオンの抱えている罪を、一緒に背負いたい」
その言葉にシオンは崩れた。
アークの胸元を掴んで顔を埋め、声をあげて泣いた。
ずっと、辛かった。
ずっと、自分を罰し続けてきた。
出口のない暗い迷宮の中に、取り残されたようだった。
アークに縋りつき声を上げて泣くことで、初めて心が少しだけ軽くなった。
どれくらい経ったのか。
泣き疲れ力の抜けた体をアークはもう一度、強く抱きしめた。彼女の心に届くよう願い、ゆっくりと囁く。
「好きだ、シオン」
シオンは目を閉じて、その言葉を胸の中で繰り返した。
涙がまた一筋、こぼれ落ちる。
「私も……好き」
不器用な二人はこのときようやく、互いの本音を言葉にした。
灰の匂いの残る通路に二人の呼吸だけが、静かに重なっていた。




