第十二話 止まった時間
鬼の国では、角のない者は数に入らない。
シオンは、生まれたときからそう教えられて育った。
人間の血が混じった下級の鬼。角はなく、牙も申し訳程度にしかない。両親の顔さえ知らないまま、孤児院で育った。
その境遇が変わったのは、王家の姫――アリアの体が弱いと噂が立ち始めた頃だった。
痩せて、儚い体つき。でも保有する魔力量は高い。それが、幼いシオンとよく似ていた。
ある日、孤児院に鬼国の兵が現れ、シオンは何も説明されないまま、城へ連れていかれた。
行き着いた先は、暗殺と隠密のための部隊だった。
気配を殺す術。毒の見分け方。喉を裂くまでの、最短の間合い。教え込まれるものはどれも、生きるか死ぬかが基準だ。
そこで、カイリと出会った。
純血の上級鬼で、護衛剣士として育てられていた少年だった。身分は、シオンとは比べものにならないほど高い。それでも、年が近いというだけの理由で、彼はシオンに気安く声をかけてきた。
「お前、強くなれよ。足引っ張ったら許さねぇ」
そう言って笑う顔には、裏表がなかった。
直感で戦う天才型のカイリと、分析と補助に長けたシオンは、とても相性が良かった。
身分を越えて、二人は少しずつ、対等に近い距離を築いていった。
やがてシオンは、アリアの身代わりとして、そして彼女を守る暗殺者として、その側に仕えるようになった。
「初めまして、アリアよ。よろしくね」
アリアは、体は弱くとも、誰よりも心優しい人だった。いつもシオンの髪を櫛で梳き、三つ編みにしてくれた。混じり合った色の髪を見て、アリアはいつも言った。
「綺麗ね」
シオンには、その言葉の意味が分からなかった。
角のない鬼。人間の血が混じった下級。綺麗だと言う者など誰もいなかった。
ある夜、姫の宮が襲われ、シオンは迷わずアリアの前に身を投げ出した。
死ぬことも傷つくことも、何も怖くなかった。ただ、アリアを守らなければ。その一心だった。
「お役に、立てたでしょうか」
「なんて事を言うの!」
身体中に深い傷を負い、動けなくなったシオンの言葉にアリアは怒って、泣いた。
「もっと自分を、大切になさい!」
初めてだった。怒られて初めて、嬉しいと思った。
訳もわからず、涙が止まらなかった。
その後、役に立たなくなったシオンを処分する話が出たとき――最後まで反対したのも、アリアだった。
「シオンを治せないなら、二度と護衛なんてつけないわ」
頑なな姫の言葉にシオンの治療は継続され、シオンは少しずつ回復していった。
復帰した日に、シオンは彼女に忠誠を誓った。
主従を超えた確かな絆が、芽生えていた。
「お前、アリアに忠誠を誓ったらしいな」
カイリが少し不貞腐れて、シオンに文句を言いにきた。
「俺が先に、誓いたかったのに」
「ごめん。でも、カイリは誓うものが違うでしょ」
「なっ……!」
真っ赤になるカイリに、シオンは笑う。
「早く武勲をあげて、姫に降嫁してもらわないとね」
「……おう」
幼馴染のカイリとアリアは、幼い頃から互いに想いを通わせていた。密かに重ねる逢瀬の手助けをしていたのは、いつもシオンだった。
だが、アリアに他国との縁談の話が持ち上がってしまった。
三人で駆け落ちの計画を立てた。シオンを囮にし、その隙にカイリとアリアが城を抜け出す――そういう筋書きだった。
「私が、時間を稼ぎます」
地図を囲みながら、シオンは迷わずそう言った。
二人が震えながら、抱きしめてくれた。それだけで、シオンは嬉しかった。
そして計画は――失敗した。
護衛の中に裏切り者がいると、気づいたときにはもう遅かった。アリアは、その場で殺された。
死の間際、彼女はシオンに、カイリをお願いと託した。そして、カイリには。
「あなたは、生きて」
そう告げて、儚くなった。
姫殺害の濡れ衣は、そのまま二人に着せられた。
シオンとカイリは、追われるようにして、国を出た。山脈を越え、国境の閉ざされたこの国まで、命からがら逃げ延びてきた。
アリアを守れなかったという事実だけが、シオンの中に、深く重く沈んでいる。
――私が、代わりに死ぬべきだった。
何度、そう思ったかわからない。
迷宮都市で冒険者として生きる中、雇われ先でカイリが酒を勧められた。
討伐の打ち上げだった。安酒の匂いと、冒険者達の下世話な笑い声が入り混じる、よくある夜のはずだった。
「よぅ、色男。おめぇ、恋人はいないのか?」
酔っ払いの戯言。
その一言で、カイリの目の色が変わった。盃を呷る速度が上がり、やがて、手当たり次第に喧嘩を売り始めてしまった。
まずい。
シオンは、人目が集まる前にと、彼を引きずるようにして店の外へ連れ出した。少し休ませようと、路地裏のほうへ急いで向かう、その先で。
「カイリ、少し座って――」
振り返った瞬間、虚ろな目のカイリが、シオンの髪を強く掴んだ。
「……身代わりは、お前の役割だろうが」
殺意のこもった、声だった。
「お前が、死ぬべきだったのに」
――その通りだ。
「……返せ」
赤い瞳が、憎悪とともにシオンを射抜く。
「アリアを、返せよ!!」
「……ごめん」
涙が溢れた。カイリの怒りは、もっともだ。
シオンは、もう、立っていられなかった。
月の光も届かない、狭い路地の暗がり。
カイリは、シオンの三つ編みを引っ張り、怒りのままにぶつけてきた。
シオンは、初めての痛みに、歯を食いしばるしかなかった。声を上げることさえ、許されていない気がした。
それでも、苦痛を与えられる方が、まだ楽だった。
アリアへどう謝ればいいのか分からない。
痛みを受けること以外の償う方法が、何も思いつかなかった。
やがて、路地は静かになった。乱れた息だけが、しばらく重なり合っていた。
ふと、シオンの足を伝う跡に、カイリの視線が落ちた。
彼は、それをしばらく見つめていた。
そしてアリアを失って以来、初めて。
――笑った。
それ以来、幾度となく同じことが繰り返された。
カイリもきっと、同じ場所に囚われたまま、動けずにいるのだろう。
彼が時折シオンに向ける、冷たさとも執着ともつかない眼差し。その奥に潜む「何か」に、シオンは薄々気づいていた。
それは、アリアへの裏切りに値するものだ。だから、見ないふりをするしかなかった。
体を差し出したあとは、必ず、孕まないための薬を飲んだ。それもまた、アリアへの最低限の忠義のつもりだった。
自分にできることは、ただ、彼のそばにいることだけ。
頼まれたから守り、望まれたから生きる。
アリアを喪ってから、二人の時間は、ずっとそこで止まったままだった。




