第十一話 髪
気づけば、剣を拭う手が止まったままだった。
脳裏にこびりつく悍ましい記憶が、這い上がってくる。
拘束された手足。 焼けた金属が皮膚を焼く匂い。体を這う、女の手。
込み上げる吐き気に、アークは奥歯を噛んで耐えた。目を閉じ、乱れかけた息を、なんとか整える。
「……シオンの薬は、毒性が強いものでな」
離れた場所で、シャンテが独り言のように呟いた。
「あれだけでも、何とかしてやりたいんじゃが……」
その一言が、アークの体を動かした。目を背け続けてきたものが、その先にあるとわかっていても……座ってはいられなかった。
少し前に見つけた湧水の近くまで来て、アークは足を止めた。
岩場の陰から見えたのは、思ってもみない光景だった。
シオンの、赤みの混ざった三つ編みが見えた。
大きな岩の上に横たえられていて、カイリが覆い被さっている。
緩んだ襟元から覗く柔らかい輪郭に、アークは息を呑んだ。
――女。
理解が追いつくより先に、体が動きを止めた。口元を、思わず手で覆う。
あのシオンが、自分が何よりも忌み嫌ってきたものだった。
なぜ。
なぜ、シオンが。
抑えきれない吐き気に、視界が揺れる。崩れそうな足を支えようとした時だった。
「アリア……、アリア……ッ」
掠れた声が闇に落ち、アークは動きを止めた。
岩の上のシオンの顔には、布が被せられていた。その下の表情は見えない。
投げ出された手は、カイリに触れようともせず、岩肌に爪を立てていた。
奥歯を噛み、押し殺した呻きがかすかに漏れている。
――かつての自分と、同じ。
助けるべきか、止めるべきか。
二人だけの、二人にしかわからない事情に、自分が踏み込む資格などあるのか。
答えの出ないまま、体だけが動けずにいた。
やがて短い息の音が聞こえ、カイリの動きが止まった。布を外さないまま、体を離す。そして、何も言わずにどこかへ歩き去っていった。
残されたシオンは緩慢な動きで懐を探り、小さな薬瓶を口に運んだ。
アークは岩壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。しばらくは指一本、動かすことができなかった。
どれほど経ったのか。
気づけば、服を整えたシオンが目の前に立っていた。
アークは青ざめた顔のまま、目を逸らした。
シオンは静かに口を開いた。
「騙すつもりは、なかった」
「……なぜ」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「……ごめん」
シオンの声は、とても弱かった。
「地上に戻るまで、我慢してほしい」
答えられずに、アークはただ口元を押さえていた。
その沈黙に、シオンは小さく笑った。
腰の短剣を抜き、迷いなく、自分の髪へ刃を入れる。
長かった三つ編みが、パサリと地に落ちた。
アークが目を見開き、シオンを見上げる。
短くなった髪を乱暴にかき乱しながら、シオンは静かに尋ねた。
「これで少しは……意識せずに済むか?」
アークは、何も答えられなかった。
「……ごめん」
短く、シオンがこぼす。
「気持ち悪いものを……見せた」
その声は、震えていた。
シオンは俯いて踵を返し、アークの元を去っていった。
アークは捨て置かれた三つ編みを、ただ見つめていた。
――ルカと、同じ。
端正で中性的な顔のルカ。
自分を辱めた貴族の女は、ルカの姉妹達だった。彼が髪を解く度その面影を何度も見てしまい、その度にアークは取り乱した。
それに気づいたルカは背中まであった髪を短く切り、髭を生やしはじめた。柔らかかった表情もいつしか、少し引き締まったものに変わっていった。
――同じ、守られ方。
アークは地面に落ちたままの髪に、そっと手を伸ばした。
そして、無意識に懐の布に包んで……胸にしまった。
そんな自分にアーク自身が一番、戸惑っていた。




