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エルフ王――四百年後、死んだはずの妻が帰ってきた  作者: 忘却セミコロン
第一章 沈黙を解く迷宮

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第十一話 髪

気づけば、剣を拭う手が止まったままだった。


脳裏にこびりつく悍ましい記憶が、這い上がってくる。

拘束された手足。 焼けた金属が皮膚を焼く匂い。体を這う、女の手。


込み上げる吐き気に、アークは奥歯を噛んで耐えた。目を閉じ、乱れかけた息を、なんとか整える。


「……シオンの薬は、毒性が強いものでな」

離れた場所で、シャンテが独り言のように呟いた。


「あれだけでも、何とかしてやりたいんじゃが……」


その一言が、アークの体を動かした。目を背け続けてきたものが、その先にあるとわかっていても……座ってはいられなかった。




少し前に見つけた湧水の近くまで来て、アークは足を止めた。


岩場の陰から見えたのは、思ってもみない光景だった。


シオンの、赤みの混ざった三つ編みが見えた。

大きな岩の上に横たえられていて、カイリが覆い被さっている。


緩んだ襟元から覗く柔らかい輪郭に、アークは息を呑んだ。


――女。


理解が追いつくより先に、体が動きを止めた。口元を、思わず手で覆う。


あのシオンが、自分が何よりも忌み嫌ってきたものだった。


なぜ。


なぜ、シオンが。


抑えきれない吐き気に、視界が揺れる。崩れそうな足を支えようとした時だった。


「アリア……、アリア……ッ」


掠れた声が闇に落ち、アークは動きを止めた。


岩の上のシオンの顔には、布が被せられていた。その下の表情は見えない。


投げ出された手は、カイリに触れようともせず、岩肌に爪を立てていた。

奥歯を噛み、押し殺した呻きがかすかに漏れている。


――かつての自分と、同じ。


助けるべきか、止めるべきか。

二人だけの、二人にしかわからない事情に、自分が踏み込む資格などあるのか。


答えの出ないまま、体だけが動けずにいた。


やがて短い息の音が聞こえ、カイリの動きが止まった。布を外さないまま、体を離す。そして、何も言わずにどこかへ歩き去っていった。


残されたシオンは緩慢な動きで懐を探り、小さな薬瓶を口に運んだ。


アークは岩壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。しばらくは指一本、動かすことができなかった。




どれほど経ったのか。

気づけば、服を整えたシオンが目の前に立っていた。


アークは青ざめた顔のまま、目を逸らした。


シオンは静かに口を開いた。

「騙すつもりは、なかった」


「……なぜ」

やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「……ごめん」

シオンの声は、とても弱かった。


「地上に戻るまで、我慢してほしい」

答えられずに、アークはただ口元を押さえていた。

その沈黙に、シオンは小さく笑った。


腰の短剣を抜き、迷いなく、自分の髪へ刃を入れる。

長かった三つ編みが、パサリと地に落ちた。


アークが目を見開き、シオンを見上げる。


短くなった髪を乱暴にかき乱しながら、シオンは静かに尋ねた。

「これで少しは……意識せずに済むか?」


アークは、何も答えられなかった。


「……ごめん」

短く、シオンがこぼす。


「気持ち悪いものを……見せた」

その声は、震えていた。


シオンは俯いて踵を返し、アークの元を去っていった。



アークは捨て置かれた三つ編みを、ただ見つめていた。


――ルカと、同じ。


端正で中性的な顔のルカ。


自分を辱めた貴族の女は、ルカの姉妹達だった。彼が髪を解く度その面影を何度も見てしまい、その度にアークは取り乱した。


それに気づいたルカは背中まであった髪を短く切り、髭を生やしはじめた。柔らかかった表情もいつしか、少し引き締まったものに変わっていった。


――同じ、守られ方。


アークは地面に落ちたままの髪に、そっと手を伸ばした。

そして、無意識に懐の布に包んで……胸にしまった。


そんな自分にアーク自身が一番、戸惑っていた。


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