3句 飛べない少女
「本当に和の分だけでよかったのかい?」
「はい! 私が持っていても使う機会はあまりありませんから」
落ち込むことも悲しむこともなく、さも当たり前のように答える憩。
少女の姉であり、旭の妹でもある和の簪を購入するために、兄妹は呉服店へと来ていた。
「毎月屋敷に呉服屋を呼んでいるだろう? 和の分だけなら、そのときでもよかったんじゃないかい?」
「それではダメなのです! それではお姉様を驚かせられないので……」
購入した簪を、憩は大切そうに懐へと忍ばせる。
――吉原の芸花魁
それが和の肩書きであり、彼女の仕事だ。
いつかその花を手に入れるべく、和の客たちは虎視眈々とその座を狙い続けている。
「お姉様もお忙しそうなので、何か贈り物をしたくて」
「そっかぁ、憩はとても優しくていい子だね」
なんて素晴らしい妹なんだろうか。
自らの姉に贈り物をするなんて、本当に出来が良すぎる。
でもそれと同時に、憩から贈り物をしてもらえる和が羨ましい……。
とても羨ましい……。でも僕が簪をもらっても、使う機会は憩以上にないな。
いや、屋敷の中で使えばいいのか? 御守りとして懐に忍ばせてもいいし……。
シスコンの脳内が激しく荒れていることに気づかぬ憩は、お昼のトンカツに胸を躍らせていた。
*
「いらっしゃ……、って旭くん! 今日は憩ちゃんと2人かい?」
「こんにちは。ようやく憩との約束が護れました」
「軍人さんは忙しいよなぁ……。憩ちゃんも元気そうで!」
「ごきげんよう、おじ様。お久しゅうございます」
相楽行きつけの高級トンカツ屋。
兄妹が幼い頃からお世話になっているお店で、店主は憩が厳しい外出制限をされていることも知っていた。
注文を済ませると、旭が口を開く。
「お昼ご飯を食べたら、次はどこへ行こうか。また甘味処にでも行くかい?」
「いえ、もう十分楽しみましたのでお屋敷に帰りましょう」
「他に行きたいところはないのかい?」
「はい、もう十分です!」
笑顔で答える愛しい妹。
しかし、旭の心はその笑顔と正反対の方を向いていた。
もう十分って、本屋と甘味処、呉服店にしか行っていないじゃないか……。
閉ざされた世界で生きてきた憩には、外の世界がわからない。
だからこそ、知っている場所が行きたい場所になる。
本で得た知識は、少女にとっては幻想と同じで現実ではないのだ。
そして旭にはそれがわかっていた。
だから、行き先を計画していたのだ。
少女の世界を少しでも広げるために――。
「それなら、お兄様に少し付き合ってくれるかい?」
「もちろんです! どこに行かれるのですか?」
「大通りから少し外れたところに、桜が綺麗な神社があるんだ。そこに憩と行きたくてね」
「神社……!! 楽しみです!」
正直、そこまで楽しみにするほど何かある場所ではない。
それでも、そんなところに心を躍らせる妹に、旭は罪悪感を抱いていた。
*
「ご馳走様でした!」
「じゃあ、神社に行こうか。お団子でも買って、お花見もついでにどうだい?」
「素敵です! では、お団子屋さんに行きましょう!」
団子屋でお土産も含めた団子を買ったあと、兄妹は神社へと向かう。
そよそよと吹く風が頬をくすぐる度に、憩は外に出ていることを実感していた。
「どうしたんだい? ニコニコして」
「春の風が心地良いなと思いまして」
「そうだね、今日は天気もいいからお花見日和だ」
「はい! お庭でするお花見よりも楽しみです!」
帝国陸軍特務部隊の総司令本部も兼ねている相楽邸。
その庭には、四季を彩る木々や花々が植えられている。
屋敷の景観は使用人たちの手で護られており、花見は彼らの成果が現れる一種の恒例行事だ。
「ほら、着いたよ」
「わぁ……」
目の前に広がる光景に、憩は思わず息を呑む。
鳥居の向こうに見える淡い桜色。
春の心地良い風に揺られ舞う、小さな小さな桜の妖精たち。
そこに佇む、小さいながらも神聖な空気を纏うお社――。
まるで夢のような景色が、現実にそこにある。
嬉しさで胸が弾むのと同時に、なんだか心が苦しくなった。
「ここの神社はね、小さいながらにちょっと有名な場所なんだよ」
「そう、なのですね……。とても、とても美しい場所です……」
「それはよかった。ほら、お参りをしに行こうか」
鳥居をくぐると、背筋がしゃんと伸びる。
まだお昼過ぎで太陽は真上近くにあるはずなのに、ここの空気は少し冷たく感じた。
「ここが有名な理由は、桜以外にもあるんだよ」
「どんな理由なのですか?」
「ここで願ったことは、必ず叶うと言われているんだ」
「願いが叶う……」
もしそれが本当なら、どれだけ素敵なことだろう――。
「試しに願っていくかい?」
「はい! ぜひお願いします!」
春風に吹かれた桜が、ふわりと憩の肩へ降り立つ。
少女はそれを手に取ると、静かに目を閉じた。
――もし、私の願いが叶うなら、また朔夜と花火大会に行きたい。
……ううん、そんな贅沢なことは言わない。
だから神様、お願いします。
優しい朔夜が、どうか無事に遠征を終えられますように——。
毎年帝都で行われる、桜の満開を知らせる花火大会。
きっと今年も、1人で見ることになるんだろうな……。
願い終えた少女は、手にした桜を日に透かすと柔らかく微笑んだ。
屋敷の中だったとしても、簪使うのやめてくださいね。
あなた、侯爵家の跡取りだということをお忘れなく……。




