不完全な擬態と、完璧な撒き餌 4 〜魔物のおまじないと、気まぐれな観測者〜
4.
「最近、人類も学習してきて、あなたたちの歌声だけじゃ谷底に誘い込めなくなってきてるんでしょ?」
『……なぜそれを』
「タイラントベアから聞いたよ。警戒心の強い人類のオスたちをここまで誘い出すには、もうひと押し足りないってね」
『……』
その言葉に黙り込んでしまうハルピュイアたち。
コロは小さく笑みを浮かべながら、ウルの背中でニコニコしているチビコロの頭をそっと撫でた。
「そこで、この子だよ。サキュバスは、視覚と本能で人類のオスを強烈に魅了する。君たちの歌による幻惑と、この子による本能の誘惑。……この二つが合わされば、どれだけ警戒している人類のオスでも、自ら喜んでここまでやってくるし、自ら喜んで精気を差し出すようになると思わない?」
コロの淡々とした、しかし極めて冷徹な提案。
それを聞いたハルピュイアの群れが、ざわめいた。
長の鋭い瞳に、明確な『打算』の光が宿る。
「今はまだスッカラカンの赤ん坊だけど、魔物だからすぐに成長する。今のうちから君たちの群れの一員として『上手なエサの誘き寄せ方』を教育しておけば、将来、君たちの狩りの効率は飛躍的に上がる。最高の『撒き餌』になるはずだよ。……どう?凄い転換点だと思わない?」
沈黙が落ちた。
乾いた風が、コロの銀髪を揺らす。
やがて、ハルピュイアの長は喉の奥で「ククッ」と低い笑い声を漏らし、それがやがて大きな哄笑へと変わった。
『……アハハハハ!なるほど、一理ある。実に理にかなっている!我らの歌と、サキュバスの姿、まさに最高の狩猟罠というわけだ!』
長はバサリと翼を広げ、コロの目の前へと舞い降りた。
『気に入ったぞ、アッシュウルフと奇妙な同胞よ。その提案、我らの群れで確かに引き受けよう』
「よし、交渉成立だね」
コロは満足げに頷くと、ウルの背中からチビコロをひょいと抱き上げた。
「ほら、優しい鳥のお姉さんたちが、上手なご飯の食べ方を教えてくれるってさ」
「とり!おねえさん!ごはん!」
チビコロは状況を全く理解していない様子で、無邪気に笑いながらハルピュイアの長に向かって小さな両手を伸ばした。
長は鋭い爪のついた手で、その小さな身体を案外器用に、そして傷つけないようにふわりと受け取る。
『……フン。手のかかる撒き餌だが、すぐに一人前にしてやる。我々の極上の狩り場のためにな』
長が酷薄な笑みを浮かべると、チビコロは長の豊かな羽毛に頬擦りをして『まきえ!』と喜んでいた。
『……だが、ハルピュイアの赤子の話ではあるが、ある程度成長するまでは兎に角、精気がいる。我々が奪い取って溜め込んでいる精気を分けてやっても良いが……』
ハルピュイアの長は、腕の中のチビコロをじっと見下ろした後、その鋭い黄金色の瞳をウルへと向けた。
残光に照らされた魔狼の巨躯を舐め回すようにして見つめ、酷薄な笑みを深める。
『そこのアッシュウルフ。お前の持つ精気は、我々のそれよりも遥かに濃密で良質だ。この赤子の成長を促し、早く使い物にするためにも、数日間はここに滞在してそっちから吸わせてやった方がいい。その方が合理的だろう?』
『……チッ。俺を妖魔の牛か何かにする気か』
ウルは露骨に不快そうにマズルを顰めたが、コロは「確かにね」とあっさり頷いた。
「いいんじゃない?どうせ急ぐ旅でもないし、数日くらいなら薬草でも採取しがてら、ここで様子を見るのも悪くないよ。ね、ウル」
『……フン。お前がそう言うなら従うがな』
相棒の随分とあっさりとした言葉に、同じくらいあっさりと従うウル。
太陽は完全に岩峰の向こうへと沈み、渓谷は急速に夜の闇へと支配され始めていた。
赤茶色だった岩肌は、今や巨大な黒い怪物のシルエットのようにそびえ立ち、谷底から吹き上げてくる風は、冷え冷えとした夜の匂いを運んでくる。
岩肌のあちこちにある巣穴からは、ハルピュイアたちの無数の眼光が、夜光虫のように怪しくまたたいていた。
長はチビコロを抱いたまま、大きな岩棚へと飛び移り、ドカッと腰を下ろした。
『さて……。この撒き餌にも、人類のような固有の名前を付けねばならんな』
長の口から出た言葉に、コロとウルは同時に小さく眉を動かした。
「ん、名前?魔物が自分たちだけで固有の名前を付け合うなんて、変わっているね」
『だな。聞いたことがない』
一人と一匹は視線を合わせ、首を傾げ合う。
『そもそも、群れの中で個を識別するだけなら、魔力の波長や匂いだけで事足りる。人類の真似事など、不確かな音の羅列でしかあるまい』
ウルの指摘に、長は喉の奥でクスクスと不気味に笑った。
翼を器用に動かし、チビコロの柔らかな銀髪を長い爪で梳きながら口を開く。
『人類のオスを餌にする以上、人類のメスのような名前を持っておくと、格段に誘いやすい傾向があると代々言われているのだ。特に、あやつらが好むような、高貴で可憐な響きのものがな』
「へえ……!」
『不思議なものでな、「エミリア」だの「セシリア」だのと名乗った方が、人類のオスは勝手に都合の良い幻想を抱いて、警戒を解いて近づいてくる。……そうだな、サキュバスとあらば、上等な貴族の令嬢のような名がいいな。ならば、そうだな……「アナスタシア」とでも呼ぶか』
『あなすたしあ!ネコ!』
名付けられたチビコロは、その言葉の意味など一ミリも理解していない様子で、長の腕の中で無邪気に羽毛を毟ろうとしてはしゃいでいる。
ハルピュイアたちにとって、固有の名前とは親愛の証でも、個の尊重でもない。
ただ「人類のオスを騙しやすくするための、便利なおまじないの言葉」……すなわち、狩猟道具のパーツの一つに過ぎないのだ。
「なるほど、それはすごく合理的だね」
コロは深く感心したように、ポンと自身の膝を叩いた。
『ああ、感心したな。捕食者の知恵というやつだ』
「人類の言語や文化を、そのまま狩りの『擬態』として利用するわけか。名前一つで獲物の警戒心が下がるなら、これほどコストパフォーマンスの良い罠はないよ。素晴らしい知恵だね」
『愉快だな。うむ、久し振りに舌を巻いた』
「だね、うん。だね」
普通の人類であれば、あるいは人類の心を持つ者であれば、その冷徹な名付けの理由に少しは眉を顰めるか、あるいは割り切れない感情を抱くところだろう。
しかし、コロの硝子玉のような氷藍色の瞳には、一切の嫌悪も躊躇もなかった。
あるのは、優れた効率性を目の当たりにした時の、純粋な納得と称賛だけだった。
『ククッ……理解が早くて助かる。お前、本当に妙な奴だな』
「ほら、私は人類の器ではあるけど、別に人類が仲間だとは思ってないからね」
夜の帳が完全に渓谷を包み込み、頭上には満天の星空が広がり始めていた。
冷たい風が吹き荒れる荒涼とした岩場で、魔物たちの冷徹で、しかし極めて実利的な共同生活が、静かに始まろうとしていた。
渓谷での滞在から数日が経過した、ある日の午後。
コロは岩肌にへばりつくように生えている、乾燥した薬草の採取に勤しんでいた。
「……うん、この辺りの薬草は水分が少なくて、保存が利きそうだね」
手際よく根元からナイフで切り取り、麻袋へと放り込んでいく。
その傍らでウルが岩陰に陣取り、退屈そうに大あくびをしていた。
『フアァァ……。おい、まだ毟るのか?』
「まあまあ。せっかく時間があるんだし、備えあれば憂いなしだよ」
コロはパパンと手の土を払いながら、谷底の奥――ハルピュイアたちの巣穴がある方角へと視線を向けた。
あちらからは、今日も何やら賑やかなハルピュイアたちの鳴き声と、それに混じって楽しげな少女の笑い声が聞こえてくる。
何だかんだで子育てを楽しんでいるようで、連日に渡って遊びがてらの狩りの練習に興じていた。
「それにしても、やっぱ魔物だね。成長が早いよ」
『ああ。数日前まで足元を這い回る毛玉だったくせに、もう人類の子供で言うところの七歳か八歳くらいの知能を持ったからな』
「すっかり『アナスタシア』なんていう貴族の令嬢みたいな名前も板についてきたし。……言葉もだいぶ流暢になったよね」
『フン。全くだ。やたらめったら俺を指差して「ネコ! ネコ!」と不愉快な言葉を口走らなくなっただけでも、俺の精神衛生上すこぶる良い』
ウルが忌々しそうに、しかしどこか安堵したように鼻を鳴らした、その時だった。
カラン、と岩場を硬い蹄が叩く音が響いた。
コロとウルがそちらへ視線を向けると、巨大な岩の裏側から、二頭の奇妙な獣がのっそりと姿を現した。
立派な三本の角を生やし、顔の左右に三つずつ、合計六つの赤い目を持った巨大な鹿の魔物の番だ。
人類が森で遭遇すれば、その冒涜的な姿に絶望して腰を抜かすであろう異形。
しかし、彼らはウルの姿を見ると、特に怯える様子もなく気さくに声をかけてきた。
『おや、狼の旦那!それに……匂いからして『こちら側』かい?随分と変わった姿をしてるなぁ』
「こんにちは。私はコロ。分かりやすく言えば、人類の器を借りてるってところかな」
コロが飄々と挨拶を返すと、六ツ目の鹿の番は「へえ、器用なもんだねぇ」と、世間話でもするような気の抜けた相槌を打った。
『アタシらはこの渓谷の手前を縄張りにしてる者なんだけどさ。最近、あっちのハルピュイアたちの巣がやけに賑やかじゃないか。何かあったのかい?』
「ああ、彼女たちのところにね、サキュバスの赤ん坊を斡旋してあげたんだよ。将来の優秀な『撒き餌』としてね」
『へえ!サキュバスの赤子を!それは名案だなぁ!』
『本当ねぇ!へえ!』
鹿の魔物たちは、六つの目を揃ってパチクリとさせ、嬉しそうに蹄を鳴らした。
『いやぁ、そりゃあアタシらも一層、おこぼれに預かれそうね!』
「おこぼれ?」
『ああ、そうさ。俺たちさ、時々森に迷い込んだ人類どもを、ハルピュイアたちの谷へ向かって追い立てる役をやってやってるんだよ。上手く谷底に落ちれば、後でハルピュイアから肉のおこぼれを貰えるからねぇ』
なるほど、とコロは感心した。
鳥の魔物と鹿の魔物による、極めて合理的な共同狩猟の形のようだ。
しかし、鹿の番は「でもねぇ」と少しだけ愚痴っぽく首を振った。
『ハルピュイアたちの幻惑の鳴き声は、効き目はバッチリなんだけどねぇ……最近、人類のヤツら、谷に近づく時に耳になんか詰めちゃうの』
「ああ、耳栓かな。人類もいつまでも馬鹿じゃないんだね」
『そう、それ!そのせいで、最近は俺らがせっかく追い立てても、イマイチ罠に掛からなくてねぇ。歩留まりが悪くて困ってたところさ!』
「ははっ、なるほどね。でも安心してよ。サキュバスの誘惑は『視覚』と『本能』に直接作用するから、耳栓なんて無意味だよ。」
『そりゃあ良い!イヤな耳の詰め物をしてようが、結局は自ら喜んで崖から飛び降りるようになるってわけだ!』
「手練れのサキュバスともなると、人類のオスに対しては無敵に近いからね。赤ん坊の頃から彼女たちが育てているから、きっと新しい時代が来ると思う」
鹿の番は『こりゃあ今から楽しみだねぇ』とキャッキャと喜び合い、コロたちに『邪魔したねぇ』と愛想よく挨拶を残して、再び岩場の向こうへと去っていった。
『……というわけだそうだ。お前の斡旋は、どうやらこの渓谷の生態系全体に多大な恩恵をもたらしたようだな』
「ふふ、実務的な仕事が評価されるのは悪い気はしないね」
人類の対策である耳栓を無力化する、新たな狩猟システムの構築。
コロは乾いた岩場に座り込み、遠くの谷底から聞こえてくるハルピュイアとサキュバスの楽しげな声に、満足げに耳を傾けるのだった。
そして、翌朝。
数日間の滞在と薬草採取を終えた一人と一匹は、渓谷の入り口で荷物をまとめていた。
谷底から吹き上げる風は冷たいが、東の空から昇る朝陽が、荒涼とした岩肌を温かなオレンジ色に染め上げている。
『もう行くのか、コロとウルよ』
バサリ、と羽音を立てて、ハルピュイアの長が岩棚に降り立った。
その背後から、ひょこりと小さな人影が顔を出す。
コロの姿に擬態した、七、八歳ほどの見た目まで成長したアナスタシアだ。
ここ数日、ウルの濃厚な精気を毎日少しずつ分け与えられた彼女は、出会った初日のようなポンコツぶりはすっかり鳴りを潜め、知性と魔力に満ちた強い眼差しを持っていた。
「うん。アナスタシアも一人前になったし、十分休ませてもらったし、薬草も採れたからね。何だかんだお世話になったよ」
コロが肩の鞄を直しながら振り返ると、アナスタシアはコクリと頷き、一歩前へ出た。
「コロ、ウル。本当にありがとうね。近くを立ち寄ったら、また声をかけてよ」
流暢な人類の言葉。
さらに次の瞬間、彼女の身体を微かな紫色の魔力がふわりと包み込んだ。
ポンッ、という軽い音と共に、銀髪の幼い少女の姿が掻き消える。
代わりにそこに立っていたのは、豊満な胸元を露わにし、流し目で男の理性を容易く焼き切るような、極めて色気のある『絶世の美女』だった。
ハルピュイアの教育と、彼女自身に刻まれたサキュバスの本能が完全に噛み合った、最高精度の擬態。
これを見せられれば、どんな人類のオスであろうと耳栓など放り捨てて谷底へダイブするだろう。
アナスタシアは艶やかな唇に妖艶な笑みを浮かべ、ウルに向かって色っぽくウインクをして見せた。
「ウル。私がここまで立派に成長できたのは、アナタの良質な精気のおかげよ。アナタのような誇り高きアッシュウルフに育てられたからには、これからの狩りで中途半端な真似はできないわね」
『……フン。毎日毎日、牛のように精気を分け与えた甲斐があったな。すっかり上手く化けられるようになったじゃないか。擬態も言葉も完璧だぞ』
ウルの言葉は相変わらずぶっきらぼうだったが、その金色の瞳には、自ら乳母役を務めた幼体の見事な成長ぶりに対する、確かな称賛の色が混じっていた。
続いて、アナスタシアはその艶やかな美女の姿のまま、コロに向かって深く頭を下げた。
「見捨てないでここまで連れてきてくれて、本当にありがとう。コロの気まぐれのお陰で、命拾いしたわ」
「……どういたしまして。ま、自分も気まぐれで助けられたクチだからね。ちょっと、昔の真似をしてみたくなっただけだよ」
コロは淡々とそう答え、美女に成長したサキュバスの頭を、赤ん坊の頃と同じようにポンポンと軽く撫でた。
アナスタシアは嬉しそうに目を細め、ハルピュイアの長もまた、優秀な『撒き餌』の完成に満足げな喉を鳴らす。
「それじゃ、人類にとって立派な害悪として。そして、この谷を豊かにしてあげなよ。……行くよ、ウル」
『ああ。あれだ……悪くなかったぞ。またな』
一人と一匹は踵を返し、太陽が昇る街道へ向けて歩き出す。
「ばいばい、コロ!ウル!」
背後から、美女の姿に似つかわしくない、無邪気で可愛らしいアナスタシアの声が響いた。
コロは振り返らずにヒラヒラと手を振り、ウルも一度だけ短く吠えてそれに応える。
荒涼とした渓谷の風が、コロの銀髪を揺らす。
『……やれやれ、これでようやく、静かで快適な旅に戻れるな』
「ふふ、そうだね。でも、たまにはああいう非効率なお節介も、悪くなかったでしょ?」
『フン。二度と御免だ』
ウルが忌々しそうに鼻を鳴らす横顔を見て、コロは小さく笑った。
かつて自分を拾い、愛してくれた人類の狂気。
その真似事から始まった数日間の奇妙な人材派遣の仕事は、こうして魔物たちの極めて合理的な生態系の中に、一つの完璧な狩猟罠を残して幕を閉じた。
街道の先には、まだ見ぬ世界が果てしなく続いている。
過去の温もりを胸に秘め、異端の観測者たちの旅は、今日もまた淡々と続いていくのだった。
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