不完全な擬態と、完璧な撒き餌 3 〜女神の祝福と、渓谷の冷徹な交渉〜
3.
ウルは小さく鼻を鳴らし、それ以上は野暮な詮索を挟まなかった。
ただ、前足の間で丸くなっている小さなサキュバスを鬱陶しそうに見下ろした後、再び目を閉じる。
『……フン。変なところばかり人類くさいな』
「あはは。かもね。……おやすみ、ウル」
『このポンコツが纏わりついていようと、何かあれば俺が対処する。だから安心して寝ろ』
「うん、ありがとう」
夜の帳が、ゆっくりと森を包み込んでいく。
明日は険しい渓谷での、ハルピュイアたちとの交渉だ。
自らと同じ顔をした小さな幼体を隣に寝かせ、コロもまた、明日の業務に向けて静かに目を閉じるのだった。
※ ※ ※
意識が深い微睡みの中へと沈んでいく。
やがてゆっくりと視界が開けると、そこは果てしなく続く、無機質で純白の空間だった。
風も匂いもない、完全な静寂と清潔に満たされた夢の世界。
「おかえりなさい、私の可愛いコロ」
背後から、鼓膜を甘く撫でるような声が降ってきて、直後にコロの小さな身体が後ろからすっぽりと抱きしめられた。
「ただいま、女神様」
「……今日は、なんだか少しだけ懐かしい匂いがするわね」
すっぽりと抱きしめていた主である女神が、愛おしそうにコロの頭に頬擦りをしてくる。
「今日ね、ちょっと非効率なことをしちゃったんだ」
「ええ、見ていたわ」
「サキュバスの赤ん坊を拾っちゃってね。明日はその子のために就職先を斡旋しに行くところ」
「ふふ、あなたそっくりに擬態していたわね」
「うん。街で聞こえてきた話から推測すると、母親が討伐されて、人類の街で一人ぼっちになっちゃったみたい。いくら自立が極端に早い魔物とはいえ、母親から離れるにはまだ日が浅すぎる。いつもなら弱肉強食だって割り切るようなモノだけど……ちょっと昔を思い出しちゃってね」
コロは女神の柔らかい腕に身を預けながら、静かに目を閉じた。
硝子玉のような氷藍色の瞳の裏側に、遠い昔の、朧気な記憶が蘇る。
「……私がまだ、四本足のアッシュウルフの赤ん坊だった頃。母親が、空を覆うような巨大なドラゴンみたいな魔物と戦って、死んじゃったんだ」
「……ええ」
「その母親の死骸のそばで、私はずっとジッとしてた。お腹が空いて、お腹が空いて仕方なくて、ただ震えてた。まだ本当に何も知らなかった。……そこを拾い上げてくれたのが、人類だったんだ」
静かな空間に、ポツリ、ポツリとコロの言葉が波紋となって広がっていく。
「今思い返してみれば、ドラゴンが跋扈するような危険な状況下でさ、自分たちに懐くかどうかも分からない魔物の赤ん坊を助けるなんて、正気の沙汰じゃないよ。徹底的に非合理的で、頭が狂ってるとしか思えない」
「ふふっ……そうね。自分の命すら天秤にかけられないなんて、愚かだわ」
「うん。でもね、その人類は、私にすごく美味しい肉をくれて、温かい寝床に招き入れてくれたんだ。私という魔物を、『群れ』の一員として愛してくれた」
コロは自分の小さな両手を見つめた。
今は人類の形をしているこの手も、かつては銀色の毛に覆われた前足だった。
「だから私は、あの時の温もりをもう一度探して、こうして旅をしてる。……あのサキュバスの赤ん坊を助けたのも、ただの感傷。非効率だけど、あの時の頭の狂った人類の真似事をしただけ」
コロの自嘲気味な告白を聞き終えると、女神はうっとりとした吐息を漏らし、コロの小さな身体をさらに強く、大切そうに抱きしめた。
「……人類というのは、本当に矛盾だらけで、無駄ばかりの愚かな生き物ね。自分の命を危険に晒してまで、魔物の赤ん坊を拾うだなんて」
女神の赤い唇が、コロの耳元で甘く囁く。
「でも……その愚かさのおかげで、あなたという奇跡が今、こうして私の腕の中にいる。……そのたった一つの功績だけは、特別に褒めてあげるわ」
ちゅっ、と音を立てて、女神がコロの額に甘いキスを落とす。
コロは眩しそうに、そして心が満たされたかのように、その氷藍色の目を細めた。
「無駄なことや非効率な真似事は、本来なら滑稽で愚かなことよ。……でも、あなたがその子に慈悲をかけてあげたのなら、それはきっと、その小さな魔物にとって世界で一番の『祝福』になったはずだわ」
「祝福、ね。そんな大層なものじゃないよ。ただ、人類の都合で無駄に潰されるのは癪だなって思っただけ。尤も、私そっくりの見た目のまま、槍で串刺しにされるなんて寝覚めが悪いしね」
コロが少しだけ照れ隠しのように呟くと、女神はクスクスと上品な笑い声を上げた。
「ええ、それでいいの。明日も、明後日も、あなたの好きなように世界を歩きなさい。私はいつだって、あなただけの味方よ。私の可愛いコロ」
泥に塗れた現実世界で、一人と二匹が身を寄せ合って冷たい夜風を凌いでいる頃。
コロは、自分だけを溺愛してくれる神様の温もりの中で、ただ静かに、心地よい微睡みへと身を委ねるのだった。
※ ※ ※
翌朝。
森の木々の隙間から、まだ白い朝の光が幾筋も差し込み、湿った腐葉土の匂いを優しく温めていた。
小鳥たちの喧騒が遠くで響く中、大きな岩の陰では、小さなクッカーから木苺入りのスープの甘酸っぱい湯気が立ち上っている。
「ほら、スプーン持って。上手に食べなよ」
「すぷーん!たべなよ!」
チビコロは、コロに言われるがまま木製の手彫りスプーンを小さな手で握りしめ、ふうふうとスープを啜っていた。
カタカタと時折乾いた音を立てながら、市場で買ったレーズンパンを小さく千切って口に放り込んでいる。
中身は人間の精気を吸う魔物の幼体だというのに、その食事風景は微笑ましい人間の子供そのものだ。
しかし、パンを二つ平らげ、スープを飲み干しても、チビコロはどこか物足りなさそうに小さな唇を尖らせ、自身のお腹をペチペチと叩いていた。
「すぷーん?たべなよ?」
「……んー。お腹いっぱいにならない?」
「いっぱい、ならない?」
コロは空になった器を見つめ、それからじっとちびコロの様子を観察する。
顔色は悪くないが、どうにも「芯の渇き」が癒えていないような、妙な手持ち無沙汰さがあった。
「……あ、そっか。ウル」
『……嫌な予感がするな』
「ひょっとしてこの種の赤ん坊は、普通の食事だけじゃなくて『精気』が少し必要なのかも」
『……は?』
絨毯のようにフカフカな苔の上で毛づくろいをしていたウルが、ピキリと動きを止めた。
その金色の瞳が、みるみるうちに露骨な嫌悪感に染まっていく。
『おい、冗談だろ。お前、俺にあんな妖魔如きにまんまと精気を吸われる真似事をさせる気か?俺は御免だ』
「いや、そう言われてもさ。ここにいるオスは、アッシュウルフとはいえウルだけだよ?私はアッシュウルフだった頃から、ずっとメスの器だしね。……まあ、どうしても嫌なら、今から街道に戻って適当な人類の男でも生け捕りにしてくる?」
『……チッ、それだといつまでもハルピュイアの縄張りに行けんな』
ウルは忌々しそうに何度も鼻を鳴らし、それから目の前で「ネコ?イヌ?」と首を傾げているチビコロを見つめた。
文字通り、腹を括るしかない状況だ。
『……くそっ、おい、ガキ。こっちへ来い』
ドスを利かせた低い声で、ウルは座ったまま、太い前足でちびコロをごろんと自分の方へ引き寄せた。
『がき!こい!』
『ぬぅ……いちいち……!』
ちびコロは警戒する様子もなく喜び、ウルの太い前足にギュッとしがみつく。
直後、ちびコロの硝子玉のような瞳が、一瞬だけ怪しく紫色の光を帯びた。
ウルの全身の毛並みを、微かな魔力の奔流がサーッと駆け抜けていく。
何かが自分の内側から吸い出されていく感覚に、ウルは思わず身構え、耳を後ろに伏せた。
しかし――それも、ほんの数秒のことだった。
『えへへ!ぬぅ!いちいち!』
ふっと紫の光が消えると、ちびコロは満足そうにキャッキャとはしゃぎ始め、ウルの足元で引っくり返って足をパタパタさせ始めた。
先ほどまでの「渇き」は完全に癒えたようで、肌の艶が一段と良くなっている。
吸われた当のウルは、拍子抜けしたように片目をパチクリとさせていた。
『……ん?終わりか?』
「みたい……だね?」
『なんというか……もっとくたびれたりするのかと思いきや……。臭い人類の街で歩き回るくらいの疲労感だな』
「ふぅん、なるほどね。大丈夫?」
『ああ、拍子抜けだ。これなら全然構わん』
「そっか。大人のサキュバスみたいに、人類の命を奪うような苛烈な吸精じゃないんだ。多分だけど、成長するためにほんの少しの精気が必要なだけなんだね。人類の赤ん坊がミルクを飲むのと同じだよ、きっと」
『フン。人類の精気など吹けば飛ぶチリみたいなものだろう』
「はは、だね。ウルが凄すぎるだけかも」
コロは手際よくクッカーや水筒を鞄に収めながら、納得したように頷いた。
「よかったね、ウル。これなら街道で人類を誘拐してくる手間が省けたよ」
『フン。……さっさと行くぞ。この毛玉をハルピュイアの群れに押し付けるまでは、俺の気が休まらん』
ウルは不機嫌そうに立ち上がると、背中の上に「わーい!」と飛び乗ってきた、エネルギー満タンのちびコロを乗せ、力強く歩き始めた。
「うん、出発しよう。目指すはハルピュイアの渓谷だね」
朝の瑞々しい光が降り注ぐ森の奥へと、一人と一匹、そして元気いっぱいに「ネコ!クマ!イヌ!」と叫ぶ小さな同業者は、再び歩みを進めるのだった。
鬱蒼とした大森林を抜けると、視界が一気に開けた。
それまでの湿った空気は消え去り、代わりに土埃を孕んだ乾いた風が、ヒューヒューと笛のような音を立てて吹き抜けてくる。
木々が途絶えた先に広がっていたのは、切り立った赤茶色の岩肌が天を突くようにそびえ立つ、荒涼とした巨大な渓谷だった。
西に傾きかけた太陽の光が斜めに差し込み、鋭い岩峰を黄金色に染め上げると同時に、谷底に長く深い漆黒の影を落としている。
「ここだね。あのタイラントベアの言っていた渓谷は」
『チッ……隠れる場所もない、上からの見晴らしの良すぎる不快な場所だ』
「私たちが人類なら、ここは危険すぎるだろうね」
コロが眼下に広がる谷底を見下ろしていると、上空からけたたましい風切り音が響いた。
――バサバサバサッ!
岩陰や上空の死角から、巨大な猛禽類の影が次々と滑空してくる。
人類の女性の上半身に、鋭い鉤爪のついた鳥の下半身を持つ魔物――ハルピュイアの群れだ。
彼女たちは、自分たちの縄張りに入り込んだ愚かな獲物を見つけ、甘い幻惑の歌を紡ごうと飛び出してきたはずだった。
しかし、眼下にいる一行の姿を視界に収めた瞬間、空中で急ブレーキをかけるように羽ばたき、周囲の岩場へと次々に降り立った。
『……なんだ、この奇妙な組み合わせは』
群れの長らしき、ひと回り大きな漆黒の翼を持つハルピュイアが、怪訝そうに目を細める。
圧倒的な威圧感を放つアッシュウルフ。
その傍らに立つ、人類のメスの形をした得体の知れない存在。
そして――
「ネコ!」
アッシュウルフの背中の上で、自分たちを見上げて無邪気にキャッキャとはしゃぐサキュバスの幼体。
獲物なのか、外敵なのか、それとも狂人の集まりなのか。
完全に拍子抜けしてしまったハルピュイアたちが顔を見合わせている中、コロが一歩前に出て、飄々とした声で口を開いた。
「こんにちは。突然お邪魔してごめんね。手前の森の主のタイラントベアに紹介されて来たんだ。単刀直入に言うね。この子、君たちの群れで引き取ってくれない?」
『……は?何を狂ったことを。我々がなぜ他種族の赤子など――』
「ただの他種族の赤子じゃないよ」
『……なんだと?』
ハルピュイアの長が、鋭い鷹のような目でちびコロを睨み据える。
「人類の街でね、どうやら母親が討伐されたみたいで、一人ぼっちになってたところを拾ったんだ。まだ生まれて間もないから、今は私に擬態してるけどね」
「ネコ!オヤツ!」
意味不明な単語を叫びながら、ウルの背中でパタパタと手足を動かすちびコロ。
その姿を見た長は、訝しげに翼を畳んだ。
『……だが、それで、なぜそのサキュバスの幼体を我々に押し付ける?我々はオスを喰う。サキュバスの赤子など育ててやる義理はないぞ』
「義理じゃなくてね、あなたたちに『利益』の話をしに来たんだよ」
コロは夕焼けに照らされた崖下を指差した。
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