不完全な擬態と、完璧な撒き餌 2 〜不機嫌な乗り物と、森の主の打算〜
2.
ハーフリングのパン屋を出た後、一人と一匹、そして一匹の幼体は、市場の奥深くへと足を進めた。
朝の活気が最高潮に達する中、様々な香辛料や干魚の匂いが入り混じる通りを抜け、目当ての品を見つける。
太陽の光を透かし、まるで黄金の雫をそのまま閉じ込めたかのように輝く、ずっしりと重い極上の蜂蜜の瓶だ。
「うん、甘そう。これなら情報料としては十分だね」
コロは満足げに頷き、革袋から銀貨を取り出して支払いを済ませる。
蜂蜜の瓶を丁寧に斜めがけの鞄へ収めると、そのまま港町を囲む外壁の門へと向かった。
チビコロが「アマソ!じゅーぶん!」とコロの手を引いてはしゃぐため、少し歩みは遅くなったが、門番の兵士たちも『姉に手を引かれて歩く幼い妹』と『大人しい大型犬』という微笑ましい光景に、欠伸交じりに手で合図をしてあっさりと通してくれた。
そして重厚な石造りの門をくぐり、港町を後にする。
街道へ出ると、あのむせ返るような安酒と安い香水、それに潮と下水が混ざり合った独特の生活臭が、吹き抜ける乾いた風に乗って少しずつ薄れていった。
「……まあ、この町はちょっと臭かったし、もう戻んなくていいかな」
背後で小さくなっていく港町を一度だけ振り返り、コロが淡々と呟く。
『全くだ。あんな鼻が腐りそうな場所に長居するなど、俺の毛並みまであの悪臭に染まりそうで御免だ』
ウルも深く同意するように、ブルルッと顔を振って鼻先に残った匂いを飛ばした。
『はな!ごめん!』
『ああ、御免だ』
「……なるほど。ウル、人類の前であんまり喋ったらマズいね」
一瞬、コロの言葉に首を傾げたウルだが、すぐに言葉の意味に気がついて深いため息をつく。
『そういえば魔物だったな……俺の言葉まで鸚鵡返しか』
「危なかったね。いや、ひょっとしたら真似してたかもだけど、まぁ……大丈夫だったかな?」
街道の両脇には、背の低い雑木林と、初夏の陽射しを受けて青々と茂る草むらが広がっている。
港町の喧騒から離れ、ようやく静かな自然の音――風が草を揺らす音や、遠くで鳴く野鳥の声だけが響く空間を取り戻した。
『……それで。このチビはいつまで俺の背で暴れているつもりだ』
ウルのひどく不機嫌な、しかしどこか諦めの混じった低い声が響く。
門を出て人目を気にする必要がなくなった直後、歩くのが遅いチビコロは、当然のようにウルの広くてフカフカな背中の上へと乗せられていた。
『せなか!あばれて!つもり!』
魔狼の背中は、幼いサキュバスにとって極上のベッド兼、遊具のようなものらしい。
彼女は銀色の髪を風に揺らしながら、ウルの立派な耳を掴んでキャッキャと無邪気な笑い声を上げている。
『お、おい、耳を引っ張るな!』
『みみ!ひっぱる!な!』
『……チッ、なぜ俺がこんな未熟な妖魔の乗り物にならねばならんのだ』
そう漏らしてマズルを顰めたウル。
しかしチビコロはご機嫌そうに今度は角を掴んだ。
「まあまあ、相手は魔物の赤ん坊なんだし。我慢してよ」
『フン。振り落とさないだけ感謝しろ』
文句を言いながらも、ウルは背中の上の小さな振動を気遣うように、普段よりもずっと滑らかで揺れの少ない歩形を保って歩いていた。
「でもさ、人類の子供と違って、人類を欺くことに特化した魔物だからね。見た目を私そっくりに擬態してくれたのは、結果的に僥倖だったよ」
『まあな。生まれつき、人類程度なら容易く欺けるくらいには擬態に秀でているというわけか』
「だね。見る人が見ればバレるだろうけど、おかげで街の門を通る時も、ただの姉妹に見られてスムーズだったし」
『中身はスッカラカンのポンコツだがな』
『コンポツ!コンポツ!』
「それは仕方ないよ。……それにしても」
コロは歩きながら、ウルの背中で楽しそうに弾むチビコロの横顔を見つめる。
「自ら頭を使って喋る気配が、全くないね」
『ふむ。耳で聞いて反芻するくらいの頭はあるようだがな』
「だね」
『まあ、口走る言葉の大半は、意味の通じない言葉の羅列ばかり垂れ流しているがな』
「タヌキ!まち!オヤツ!」
自分の話をされているとも知らず、チビコロはコロとウルの言葉の響きに合わせて、知っている単語を適当に口にして笑っている。
『人類の赤子よりは数倍マシ、か……』
「だよ。人類みたいに甘ったれな環境で産まれるわけじゃないからね。これくらい早く成長しないと生きていけないし。……ま、とりあえず、この子が安全に暮らせて、ちゃんと狩りのやり方を教えてくれる同業者を探さないとね」
『見つからなかったらどうするつもりだ?』
そんなウルの問いかけに、コロは苦笑いを浮かべてみせた。
「その時は、その時に考えるだけだよ」
「だよう!」
『はぁ……だな。その時は俺はお前に従うだけだ』
果てしなく続く街道の先、地平線に薄っすらと見える深い緑色のシルエット――クマの魔物が支配する森を目指して、一人と一匹、そして背中の上の小さな珍客は、のんびりとした足取りで進んでいくのだった。
街道を逸れ、昼なお暗い鬱蒼とした森の奥深く。
樹齢数百年はあろうかという巨大な大木の根元で、一人と一匹は足を止めた。
木々のざわめきがピタリと止む。
直後、濃密な獣の気配と共に、巨大な岩と見紛うほどの巨躯が茂みからのっそりと姿を現した。
赤黒い毛並みに、丸太のような太い腕。
森の主である巨大な『タイラントベア』は、黄金色の瞳で眼前の来訪者を見下ろした。
『……我が森に、何の用だ。手練の狼と、人の子……いや、同類か?ふむ……』
地響きのような低い声が空気を震わせるが、コロもウルも涼しい顔をしている。
「お邪魔してるよ。アッシュウルフのウルと、私はコロ。お察しのとおり、わけあって人類の器で生きているアッシュウルフなんだ。ちょっと人探し……ならぬ、魔物探しをしててね。これ、お近付きの印だよ」
コロは背負っていた鞄から、市場で買った極上の蜂蜜の瓶を取り出し、クマの足元へとポーンと放り投げた。
ドスッ、と重い音を立てて落ちた瓶から、芳醇な甘い香りが微かに漏れ出す。
『……ほう!』
圧倒的な威圧感を放っていたクマの魔物が、ピクッと鼻を動かし、途端にその獰猛な顔を緩ませた。
太い爪で器用に瓶を拾い上げ、中身を確かめる。
『極上の品だな。人類が集めた蜜か』
「そう。人類が手間ひまかけてこさえた極上な蜂蜜だよ」
『……で、探しているのはその後ろの背に乗っているサキュバスの同業か?』
「はちみつ!ネコ!」
ウルの背中の上で、チビコロが蜂蜜の瓶を指差してキャッキャとはしゃいでいる。
『む……ネコだと?我は誇り高き森の――』
『気にするな。コイツには世のすべてが、ネコかオヤツか何かにしか見えていない。詳しく知らんが、生まれたてホヤホヤらしいからな』
ウルが面倒くさそうに溜め息を吐きながら補足すると、クマの魔物は「なるほど」と喉の奥で唸り、ドカッとその場に腰を下ろした。
「どうやら人類の町を狩り場にしていたサキュバスが産み落とした直後に、人類に討伐されたみたいでさ」
『ふむ。下手を踏んだと……』
「そうみたい。今朝、私たちを見て、すっかり懐いちゃってね。人類の赤ん坊なら人類に押し付けて終わりなんだけど、そういうわけにもいかなくてね」
ウルの背中に抱きつく形で寝そべっているチビコロを見つめつつ、肩を竦めたコロ。
当のチビコロは足をパタパタさせており、ウルは終始不機嫌そうにマズルを顰めている。
「で、この子の『研修先』を探してるんだ。人類を欺いて狩りをする同業者で、できればこの子を引き取ってくれそうな群れに心当たりはない?」
コロが淡々と事情を説明すると、クマの魔物は太い指で蜂蜜の瓶の蓋を弾き飛ばし、甘い蜜を舐めながら少し考え込んだ。
『ふむ……人類を欺く魔物なら、この森を抜けた先にある切り立った渓谷へ行け』
「へえ、渓谷ってことは……」
『そうだ。あそこには『ハルピュイア』の群れが巣食っている』
「なるほどね、ハルピュイア……良いね。歌で人類を惑わして、崖から突き落として喰う、鳥の魔物だ。かなり似てる」
『そうだ。だが、最近は人類も学習しているようでな、渓谷への警戒が強くなっていると時折ボヤキに来る。奴らの歌声だけでは、以前ほど効率よくエサを誘き寄せられなくなっているらしい』
クマの魔物の言葉に、コロの硝子玉のような氷藍色の瞳がスッと細められた。
「なるほどね……。そこに、視覚と本能から人類のオスを強烈に魅了するサキュバスが加われば……」
『ああ。ハルピュイアの歌の幻惑に加えて、コイツの姿形での誘惑だ。完璧な狩りが成立する』
クマの魔物は、ウルの背中で自分の尻尾を追いかけて遊んでいるチビコロを見やった。
『奴らにとっても、この幼体を今のうちから自陣で育てることは、将来の優秀な「撒き餌」を手に入れるという明確な打算が働くはずだ』
「タダで面倒を見てくれるほど魔物の社会も甘くないけど、お互いに明確な利益があるなら確実だね。交渉のテーブルに乗せやすいや」
コロはパンパンと手を叩き、納得したように頷いた。
「ありがとうね。とてもいい情報だったよ」
『この上等な蜂蜜の対価だ。……アッシュウルフとやらよ、せいぜいそのサキュバスを落とさないように気をつけて行くことだな』
『フン。大きなお世話だ。こんな軽い毛玉、乗せているうちにも入らん』
蜂蜜の瓶に夢中になり始めたクマの魔物を後にして、一人と一匹は再び歩き出す。
「ネコ!くま!」
『お前は本当に適当だな……』
ウルの背中で無邪気に手を振るチビコロ。
目指すは森を抜けた先にある、ハルピュイアたちが棲む険しい渓谷。
「それじゃ、次は人材派遣のお仕事だね、ウル」
『チッ……俺はただ、さっさとこの背中の上の鬱陶しい荷物を下ろしたいだけだ』
悪態をつきながらも、決して背中のチビコロを落とさないよう、滑らかな足取りで森を進む魔狼。
異端の者たちの奇妙な旅は、新たな目的地へと向かって続いていく。
森を抜ける道すがら、木々の隙間から差し込む光が、次第に黄金色から赤みを帯びた夕暮れの色へと変わっていく。
しばらくはウルの背中で「ネコ」だの「オヤツ」だのとご機嫌に喋っていたチビコロだったが、規則正しいウルの歩みと、フカフカの冬毛の心地よさに誘われたのだろう。
徐々にその単語の羅列は間延びしていき、やがて完全に途切れた。
『……おい。静かになったと思ったら、俺の背中でよだれを垂らして寝やがったぞ、このポンコツ』
ウルが呆れたように小さく首を巡らせると、そこにはウルの銀糸のような毛並みに顔を埋め、すぅすぅと無防備な寝息を立てる自分とそっくりな幼い顔があった。
「あはは。魔物とはいえ、やっぱり赤ん坊だね」
『チッ。緊張感の欠片もない』
「まあ、無理もないよ。いくら魔物とは言え、母親から離れるタイミングが早すぎる。ずっと人類の街で怯えてたんだろうしね。そこに現れた私たちっていう、どこか同じ匂いがする安全地帯を見つけて、安心しきっちゃったんだよ」
コロは歩きながら空を見上げた。
木々の上には、オレンジ色に染まり始めた空が広がっている。
クマの魔物が言っていた渓谷までは、まだいくらか距離がありそうだった。
「日は傾いてきたし、今日はこの辺で夜を明かそうか。この子も寝ちゃったしね」
『賛成だ。さっさとこの鬱陶しい毛玉を背中から下ろしたい』
そうして一人と一匹は、街道から少し外れた、風を凌げそうな大きな岩の影を今夜の寝床と定めた。
ウルが静かに伏せると、コロがチビコロを抱き上げて草の上へと下ろす。
しかしチビコロは「うにゅ……」と寝言を漏らすと、自らウルの前足の間に転がっていき、そこを定位置とするように再び丸くなって熟睡してしまった。
『……おい。下ろした意味がないんだが』
「湯たんぽ代わりにしてるみたいだね。諦めて添い寝してあげなよ」
『ふざけるな』
ウルは忌々しそうに鼻先を顰めながらも、決して前足を乱暴に退かそうとはしなかった。
鞄から携帯食料の干し肉を取り出し、コロは適当な大きさに千切って咀嚼する。
ウルにも一つ放ってやると、器用にそれを空中でキャッチし、不満げな音を立てて飲み込んだ。
静かな夕暮れの森。
焚き火も起こさず、ただ静寂の中で夜の訪れを待っていると、ウルがふと、低い声で問いかけてきた。
『……おい、コロ』
「ん?」
『なんだかんだで世話を焼いているが、なぜこんなポンコツを拾った?』
そう口にしたウルにくっつくようにして、幸せそうに眠るチビコロの寝姿。
コロはジッとそんな一人と一匹の様子を眺める。
『……あの街ですがりつかれた時点で、ただ振り払うことなど容易かっただろう。いくら魔物とはいえ、わざわざ同業者への斡旋などと、面倒な手間をかける理由が分からん』
ウルの金色の瞳が、コロを真っ直ぐに見据えている。
コロは干し肉を飲み込み、水筒の水を一口飲んでから、肩を竦めた。
「……非効率だなとは思ってる。ウルの言うとおり、いくら魔物とはいえ、獲物の巣に取り残された他種族の赤ん坊を助けるにしては、私たちには何のリターンもない。なんなら蜂蜜代で損すらしている」
『だろう。これはやり過ぎだ』
「……ちょっと昔を思い出しちゃったんだよ」
苦笑いでそう告げたコロの硝子玉のような氷藍色の瞳には、遥か遠くの、どこかの光景が浮かんでいるようだった。
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