不完全な擬態と、完璧な撒き餌 1 〜色街の噂と、ポンコツな擬態〜
1.
潮風に晒され、建物のあちこちの塗装が剥げ落ちた鄙びた港町。
その外れにある、歩くたびに床板が軋むような安宿の二階。
潮風でガタガタと鳴る隙間風だらけの木枠の窓に肘をつき、コロはぼんやりと眼下の路地を見下ろしていた。
夜の帳が下りた港町は、昼間の気怠さとは違う、どこか自暴自棄な活気を帯びている。
特にこの辺りは古くからの色街が近く、一部の文字が消えかかった看板が薄暗く路地を照らしていた。
開け放たれた窓からは、安酒と安い香水、それに脂ぎった串焼きの煙が入り混じった、むせ返るような生活臭が漂い上がってくる。
『さっさと閉めろ。臭いぞ』
「まあ、いい匂いではないね」
『人類の色街というものは、こういう臭さにしないと気が済まんのか』
「不思議だよね。大体同じような雰囲気、同じような匂い」
『示し合わせているとか思えん。人類は無駄が大好物だから、あり得るぞ』
「無駄がなくなったら死んじゃいそうだもんね」
コロがぼんやりと見下ろしている、そんな鄙びた路地を、槍を持った二人組の兵士がだるそうに歩いてくる。
彼らの下世話な会話は、静かな夜の空気を伝ってコロの耳へとまっすぐに届いていた。
「あーあ、やってらんねえ。サキュバスはもう討伐されたんだろ?」
「だな。結局流れの傭兵がよ、俺達の臨時収入ごと手柄を掻っ攫っちまった」
「討伐されたなら、もういいじゃねえかよな。手柄もねえ、臨時収入もねえ。色街をウロウロしてるってのに、ご相伴に預かれねえときた」
「まだ残党が居るって話だから、こうして歩いてるんだろ。本気で嫌になるからウジャウジャ文句言うなよ」
「だってよ?もう全然分かんねえよ。だいたい、色街なんかほっつき歩いたって、右も左も美女だらけで判別つかねえよ」
「はは、違いねえな。『やたらと興奮させてくるヤツがサキュバスだ!』とか言ってたけどよ、だとしたら色街にいる若い女の9割はサキュバスだぜ!」
「うはは!全くだ!俺の財布の精気を吸い尽くす恐ろしい魔物ばかりだぜ!」
「実際にこの身体で試してみねえと分かんねえよ!もっと潜入捜査をさせろよってな!」
「それで大当たりだったらお前、生きた干し肉になるぜ」
「おー怖っ!しかし、噂によると、それはもう極上らしいぞ?」
「はぁ、俺達人類の男がこんなんだから、サキュバスは絶滅しねえんだろうな……」
「程々で我慢してくれりゃ、こっちだって喜んでこの身を出しだすんだけどな!」
「儘ならねえ、本当に儘ならねえ」
げらげらと下品な笑い声を上げながら、兵士たちは大して周囲を警戒する様子もなく去っていく。
「……だってさ。この街にはサキュバスがいるらしいよ、ウル」
コロが窓から顔を引っ込め、部屋の中へ声をかける。
しかし、絨毯の上で丸くなっていたウルは、目を閉じたまま忌々しそうに鼻を鳴らしただけだった。
『知らん』
「そりゃ『知らん』だけどね」
『こんな香水の匂いばかりキツい街など、鼻が曲がりそうで俺は御免だ。俺の仕事でもなんでもない。興味が湧かん。せっせとエサを運ぶ蟻の列の方がよっぽど興味が湧く』
「まあそうだね。人間の精気を吸う魔物と、私たちとじゃ、全然領分が違うもんね。関わるだけ無駄か」
コロはあっさりと窓を閉めると、ウルの隣のベッドに潜り込んだ。
港町の夜は、無関心な一人と一匹をよそに更けていく。
そして、翌朝。
食堂がない安宿が故、朝食を求めて港町の市場へと足を運んだ一人と一匹は、早速『それ』を見つけてしまった。
朝の陽光に照らされる、活気ある目抜き通りと並行して伸びる大通り。
行き交う人類の女たちに紛れ、道端にポツンと立っている一つの影。
周囲の人類には、それが『少し露出の多い、道に迷った様子の可憐な美少女』にでも見えているのだろう。
しかし、一切の幻惑や擬態が通用しないコロとウルの目には、それが『人間の皮を雑に被った、どう考えても魔物である異形の幼体』にしか見えていなかった。
厳密には、美少女の姿に透けて、異形の幼体が見えていた。
「……」
『……』
一人と一匹は、完全に歩みを止めた。
「……ウル」
『ああ……』
「あんなところに、すごく分かりやすいサキュバスが立ってるんだけど」
『……チッ。人類には立派に同族のメスに見えるんだろうな。あんな雑な擬態で今まで討伐されなかったのが不思議なレベルだぞ』
「まだすごく幼い個体みたいだ。不思議だね、普通、あんな生まれて間もない個体は、母親と一緒に行動しているはずなんだけどな……」
『サキュバス界隈の常識は知らん』
一人と一匹が遠巻きに観察していると、その幼いサキュバスの元へ、下心丸出しの柄の悪い人類の男たちがニヤニヤと笑いながら近づいていくところだった。
「ねえ君、迷子?お兄さんたちが案内してあげようか?」
「美味いもんでも食いに行こうぜ。な?」
下卑た笑みを浮かべる男たちに囲まれ、幼いサキュバスは愛想よくふわりと微笑んだ。
そして、甘ったるい声で口を開く。
「えへへ、ネコ、オヤツ? 帽子、タヌキが、町なの」
「……え?」
男たちのニヤケ顔が、ピタリと止まる。
「お兄さん、美味い、お花、ベッドでぐるぐる、ネコ?」
「あー……あー、はいはい」
「お兄さん、ネコ?オヤツ?」
「……おう。そ、そうか。……あー、悪い。人違いだったわ」
「……行こうぜ。なんか、アレな子だったみたいだ」
「ああ……萎えたわ」
男たちは極めて気まずそうな顔を見合わせると、可憐な少女に触れることもなく、潮が引くように足早に去っていった。
絶世の美少女の皮を被っていようと、コミュニケーションが全く成立しない『不気味な何か』に対しては、人類の男の性欲などあっさりと萎むらしい。
ましてや、コミュニケーションの通じなさに『狂気』の匂いが交じるとなおさら。
遠巻きにそのやり取りを眺めていた一人と一匹は、呆れたように息を吐いた。
「……あーあ。人類の言葉の意味、全然理解してないんだね。ただ知ってる単語を適当に繋げてるだけだ」
『チッ。見た目の皮だけ被って、中身の知能が伴っていない出来損ないか。あんな調子では、男を誘惑する前に怪しまれて討伐隊を呼ばれるのがオチだぞ』
「関わっちゃいけない類の人類だと思われているのかも」
『ふむ。あのチグハグさのお陰で生き長らえているわけか』
「多分ね。昨日の晩に外から聞こえてきた話から察するに、母親はバレて討伐されたのかな」
コロが淡々とそんな分析をしていると。
ぽつんと取り残された幼いサキュバスが、ふとこちらへ顔を向けた。
『マズいぞ。目が合った』
「あ、しまった……」
そして、彼女はコロとウルの匂い――言葉の通じない薄気味悪い人類ではなく、圧倒的な強者であり、同時に『こちら側』の同胞の匂いを感じ取ったのようだ。
「あ……ああっ!」
幼いサキュバスの顔に、明確な『安堵』の色が浮かぶ。
『逃げるか』
「……もう遅いよ」
彼女はトテトテと覚束ない足取りで駆け寄ってくると、すがりつくようにコロの足元へ抱きついた。
魔物の本能が、絶対的な安心感と庇護を求めて『目の前の強者』の姿を模倣し始める。
ボンッ、という微かな魔力の弾ける音と共に、彼女の姿が変化した。
「えへへ……!オヤツ、ネコ……!」
『ばっ……!?み、見られてはいなかっ――お、おい……!?』
ウルの口から、この最近で一番の間の抜けた声が漏れる。
コロの足元で嬉しそうに笑っているのは――コロの銀髪と硝子玉のような氷藍色の瞳をそのまま受け継ぎながら、ふたまわりほど小さくし、ひどく感情豊かにしたような『ちびコロ』だった。
「……安心しきって、私の姿に擬態しちゃった」
『参ったな……』
「擬態の対象にされるなんて初めてだよ」
大通りを行き交う荷馬車の車輪の音と、朝市へ向かう人々の喧騒が、すぐそばを通り過ぎていく。
幸い、周囲の人類たちには「銀髪の姉妹と、大人しい大きな飼い犬」にしか見えていないらしく、奇異の目を向ける者は誰もいなかった。
『おいコロ。どうする?この、お前の頭を悪くしたような小娘は。しかも俺の足にすがりついてヨダレを垂らしているぞ。……蹴り飛ばしていいか』
「ダメだよ。一応、魔物の赤ん坊なんだし」
コロはやれやれとため息をつきながら、足元で「ネコ!ネコ!」と無邪気に笑う『ちびコロ』の頭を軽く撫でた。
「人類の赤ん坊なら兎も角、困ったね……」
『置いて逃げるか』
ウルの言葉を受け、ジッとその氷藍色の瞳でチビコロの無邪気な笑みを見つめるコロ。
見つめたまま深いため息をつき、やがて観念したかのように、再び口を開いた。
「……このまま街に放っておいたら、確実に討伐隊に見つかっちゃうね」
『弱肉強食というやつだ』
「……仕方ない、人類と違ってどうせすぐに成長するし、この子が安全に暮らせる『研修先』を探してあげるしかないかな……」
『……おい。正気か?』
朝の斜光が、海から吹き込む風と共に港町の石畳を白く照らし出している。
コロの撫でる手にすり寄るように、ちびコロは嬉しそうに目を細めていた。
どこからか、市場で焼かれているパンの甘く香ばしい匂いが漂ってくる。
「とりあえず、朝ご飯にしようか。ウル、この子にも何か甘いパンでも買ってあげよう」
『サキュバスがパンだと?そんなもの食うのか?』
「じゃあウルの精気でもご馳走する?」
『ば、馬鹿いうな!適当にパンでも食わせとけ』
ギョッとしてしまったウルを見て、クスッと笑うコロ。
『チッ……なぜ俺たちがこんな赤子に世話を焼かねばならんのだ』
「まあまあ。ついでに、市場で一番上等な『蜂蜜』も買っていこうよ」
『蜂蜜だと? お前、そんなもの何に使う気だ』
「ここから一番近い森の主……クマの魔物に会いに行くんだよ。同業者のツテを紹介してもらうための、大事な情報料だからね」
『そもそもソイツ、人類の言葉しか喋れんのか?おい、何か言ってみろ』
ウルが幼子サキュバスにズイと顔を近づける。
しかしへにゃっと笑みを浮かべるのみで、まともに受け答えできる様子は皆無。
「ダメそうだね。本当に生後間もないのかもしれないけど、正直サキュバスの生態なんてそこまで詳しくないからよく分かんないや」
『フン。仕方ない――「ネコ!ネコ!」
幼子サキュバスもとい、ちびコロがキャッキャとはしゃぎながら、ウルの立派なヒゲを両手でギュッと引っ張ってしまう。
『痛い!ネ、ネコではない!!』
「ネコ!ネコ!」
『おい、コイツには、人類も俺も、全てがネコに見えるのか!?』
柔らかな銀髪を揺らして無邪気に笑う幼体と、本気で怒るに怒れず顔を引きつらせる巨大な魔狼。
「ふふ、知ってる人類の言葉だから、適当に喋ってるだけだよ。ほら、ネコじゃなくてイヌだよ。イヌ」
「イヌ?」
『イヌでもない!!』
「イヌ!えへへ、イヌ!」
『……』
港の空を旋回する海鳥が、間の抜けた鳴き声を落としていく。
大きな魔狼の鼻先にぶら下がるようにして遊ぶ異形と、それを呆れ顔で見下ろす少女。
「さすが上位種様。懐が深いね」
『……さっさと引き取り手を探すぞ』
ウルの尻尾はだらしなく下がったままだ。
心なしか、コロの尻尾も力なく揺れている。
市場の一角、香ばしい小麦の匂いが漂う小さなパン屋の前で、ウルは『フン』と鼻を鳴らした。
『俺は外で待つ。ただでさえ狭い店内に入れば、また人類どもが騒ぎ立てるからな』
「そうだね。じゃあ、その辺で大人しく丸くなってて」
「なってて!」
『くそっ、いちいち……!フン』
ウルは鼻息荒くため息を吐くと、店の脇の木陰へと歩いていき、大きな身体を器用に丸めてどっしりと伏せった。
通りかかる人々がビクッと足を止めるが、魔狼は意に介さず退屈そうに目を閉じている。
「ほら、行くよ」
コロが声をかけると、チビコロは「ネコ!」と小さく弾むような声を上げ、コロの小さな手を小さな両手でギュッと握りしめてきた。
硝子玉のような氷藍色の瞳をキラキラと輝かせ、店先に並ぶ茶色い塊――パンの数々をじっと見つめている。
中身は人間の精気を吸う不気味な魔物の幼体だというのに、その仕草はどこまでも無邪気な子供そのものだった。
カランカラン、と素朴な真鍮の鈴を鳴らして店に入ると、カウンターの向こうから、人間の半分ほどの背丈しかないハーフリングの夫婦が顔を出した。
白い粉で薄く汚れたエプロンをつけ、頭に三角巾を巻いた二人は、銀髪の二人組を見るなり同時に顔を綻ばせる。
「いらっしゃい!おや、まあ、綺麗な銀髪の可愛いお客さんだねえ」
「お出かけかい?朝焼きの美味しいパンがたくさんあるよ」
ハーフリングの奥さんが荷台から焼き立てのトレイを運びながら、ニコニコと声をかけてきた。
コロはズラリと並んだ黄金色のパンを見回し、少しだけ眉根を寄せて困り果ててしまう。
そう、魔物の中でもサキュバスがどんな食性をしているかについて、詳しいことなど何も知らなかったのだ。
ある程度育ちきった個体であれば、雑食なのは理解していたが、今、手を繋いでいるのは生後間もない個体。
何が食べたいのか尋ねても、まともな答えが帰って来るとは思えないのは容易に想像できる。
「……んー。どれがいいかな。この、レーズンが入った甘いパンがいいかな?」
コロがボソッと呟くと、手を握ったままのチビコロが、その顔を嬉しそうに見上げて言葉を真似た。
「あまーい、ぱん、いいかな!」
「あはは、本当にお姉ちゃんのことが大好きなんだねえ。そっくりで、まるで人形さんみたいな可愛い姉妹だ」
ハーフリングの旦那さんが、小麦粉のついた手で自身の口元を抑えながら破顔する。
「お姉ちゃんはしっかり者だねえ。手を引いて、ちゃんと面倒を見てあげて。……見たところ、旅の途中かい?」
「うん。ちょっと、これから隣町までね」
「まあ、そんな小さな体で偉いねえ。じゃあ、これもおまけしとくから、二人で仲良くお食べ」
奥さんが「はいどうぞ」と言って、コロが適当に選んだレーズンパンの他に、小さな丸いミルクパンを二つ、紙袋の隙間へとはさみ込んでくれた。
焼き立ての熱と、ハーフリング夫婦の素朴な温もりが、紙袋を通じてコロの手にじんわりと伝わってくる。
「……ありがとう、おじさん、おばさん」
「ありがと!おじさん、おばさん、ネコ!」
「おや、ネコだなんて、可愛いこと言っちゃって」
最後まで言葉のチグハグっぷりを隠しきれていないチビコロだったが、ハーフリングの夫婦はそれすらも「幼い妹の他愛ないお喋り」として受け止め、手を振って見送ってくれた。
店を出ると、紙袋から立ち上る甘い匂いに気づいたのか、木陰で丸くなっていたウルが片目を薄く開けてこちらを睨んだ。
『……ずいぶんと余計なものを買い込んできたな』
「おまけしてもらったんだよ。ほら、ウルもこれ食べる?」
『……フン。貰えるものは貰っておくがな』
差し出されたミルクパンを、ウルは大きな口で器用に、しかしどこか満足げにパクリと受け止めるのだった。
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