鋼の虚飾と、影の口封じ 3 〜傷だらけの鋼と、私なりの騎士道〜
3.
「右斜め前方、三歩。左の重心を捨てて」
コロの無機質な通訳が聞こえている。
エドワードは、コロ――銀髪の獣人の少女が放った奇妙な助言に、文字通り命を預けていた。
影猫獣が再び地面を蹴る。
教本にはない野生の速度だ。
しかし、今のエドワードは闇雲に剣を振り回すことをやめていた。
「右に三歩。左手で泥を掬って投げて」
彼は三歩、右へと踏み込んだ。
「――これでも喰らえッッッ!!」
エドワードは空いた左手で、足元の粘り気のある泥を掴み、魔物の顔面へと叩きつけた。
「全体重をかけて頭を叩き割って」
騎士道教本には一文字も書かれていない、卑怯で、無様で、しかし確実な目眩まし。
不意を突かれた影猫獣の動きが、一瞬だけ止まる。
「ぁああああァァァッッッ――――!!!!」
エドワードはその隙を逃さず、重い宝石入りの長剣を、自らの体重ごと叩きつけるように振り下ろした。
――ドサッ……
静まり返った街道に、肉の塊が落ちる音が響く。
そこには、脳天から喉元まで、深く抉られ、二度と動かなくなった影猫獣の姿があった。
リーダーを失ったワイルドファングたちは、背後のウルから放たれる「もう用済みだ」という威圧に耐えきれず、クンクンと情けない声を上げて茂みへと霧散していった。
「……は、はは。……やった。私が、全て、倒した……のか?」
エドワードは、泥と血にまみれた手で、自らの剣を握りしめたまま、その場に膝をついた。
それは「敗北」の膝つきではない。
己の限界を超え、初めて自らの手で「平穏」を勝ち取った、戦士としての沈黙だった。
そして視線は、二度と動かなくなった影猫獣の死骸を、本物の戦士の眼差しで射抜いていた。
コロは足音を立てずに彼に歩み寄ると、死骸を爪先で軽く小突いた。
「ほら、お兄さん。とりあえずそいつの体内にある『魔石』だけでも回収しておきなよ。街に戻れば、いいお金になるでしょ」
「ま、魔石か……。ああ、そうだな。……騎士たるもの、最後まで責任を全うせねばな」
「あとの死骸は、この森の魔物や動物が綺麗さっぱり食べちゃうから、魔石だけ取ればいいよ」
「か、解体……するのだな……?この私が……」
「さっきまでの威勢はどうしたのさ。ほら、教えてあげるから」
そこからエドワードは青ざめた顔で、使い慣れない解体用のナイフを手に取った。
ピカピカだったはずの籠手は凹み、隙間には泥が詰まっている。
「うっぷ……うっ……!ううっ……」
彼はえずきそうになるのを必死に堪え、震える手で影猫獣の胸元を裂いた。
ズルリ、とこぼれ出たのは、鈍い紫色の光を放つ、親指ほどの大きさの魔石だった。
「……ん。あ、ごめん。よく見たら、その個体、少し特殊な変異種だったね」
「へ……?」
魔石を手に、エドワードが呆然とコロを見上げる。
「普通の影猫獣よりも筋肉の密度も魔力も高い個体だよ。だから思ったより速かったんだね」
『んー、かもしれんな』
「その魔石も、普通のものより三倍くらいは高く売れるんじゃないかな」
「変異、種……?そんな強敵だったのか、こいつは……」
エドワードは自らの手にある小さな光を、信じられないものを見るように見つめた。
自分が戦っていたのが、ただの魔物ではなく、熟練の冒険者でも手こずるような「本物」であったという事実。
その重みが、彼に静かな自信を芽生えさせる。
『フン。多少毛並みが特殊だったかもしれんが、俺からすれば雑魚は雑魚だからな。気にするほどの価値もない』
ウルが退屈そうに喉を鳴らし、コロがそれを苦笑まじりに通訳する。
「――だそうだよ。ウルは『雑魚は雑魚』だってさ」
「はは……。導きの神には、敵うべくもないな……」
エドワードは、泥まみれになりながらも清々しく笑った。
「さてと。お兄さん、何をすれば試練は終わるの?」
「ん、ああ。この先にある『月見草』を摘むのが、今回の修行の目的だ」
『お前が採取しようとしていた物と同じではないか?』
「そうだね、私もそれを採取しようとしてたね」
コロの言葉に、エドワードは「そうだったのか」と小さく頷いた。
「……父上からは、それを持ち帰って初めて成人と認めると言われていた。それが当家のしきたりだと」
「そっか。なら、さっさと済ませちゃおっか。まだ日は高いし、今から行けば夕食には間に合うよ」
エドワードは、よろよろと立ち上がった。
鎧は傷だらけで、マントはボロ布のよう。
しかし、彼はその「鋼の虚飾」を脱ぎ捨てることはしなかった。
この傷こそが、自分が初めて手に入れた「本物の騎士の証」であると、今の彼は知っているからだ。
三人は、原生林の奥へと歩を進めた。
もはや、そこに密偵の手助けは必要なかった。
ウルの横を歩くエドワードの背中からは、先ほどまでの「お人形」のような甘さは消え失せ、周囲を警戒する確かな緊張感が漂っていた。
『おい、来るぞ』
月見草の群生地へ続く湿った林道。
ウルの言葉を受け、コロが鼻先をぴくりと動かし、歩みを止めた。
それまで上機嫌に歩いていたエドワードも、コロの反応を見て即座に、しかしどこか手慣れた動作で剣を構える。
そこには、これまでの野生動物のような魔物とは根本的に異なる、不快な腐敗臭が漂っていた。
「厄介なのが出てきたね……」
『……チッ、骨と腐肉の塊か。ヤツらには俺の威圧も、理も通じんからな。面倒なことこの上ない』
ウルの言葉通り、前方の影から現れたのは、かつての旅人や兵士のなれの果て――動く死体の群れだった。
彼らの虚ろな眼窩には知性など微塵もなく、ただ生者の肉を求める本能的な渇望だけが宿っている。
「……アンデッド。嫌だな、解体してもお金にならないし、汚れるだけだもんね。放っておこう。ほらお兄さん、巻くよ」
コロが嫌悪感を隠さずに吐き捨てた時、エドワードが一歩前へ出た。
その傷だらけの甲冑からは、先ほどまでの「虚飾」ではない、一人の戦士としての静かな覚悟が滲んでいる。
「……いや、ここは私がやろう。手助けを乞うたのでは試練にならないからな」
「え?でも、相手は言葉も通じないし、痛みも感じないよ?影猫獣みたいに一撃で、とはいかないよ」
「分かっている。……だが、彼らもかつては私と同じように、この道を歩いた『誰か』だったはずだ。……騎士として、彼らをあるべき眠りへ返すのは、私の役目だ」
そう言って、エドワードは泥にまみれた剣を正しく中段に構えた。
それは教本にある「美しさ」を捨て、重心を低く、ただ確実に敵を屠るための実戦の構えだった。
『……コロ、手出しはするなよ』
「まぁ、試練の最中だもんね」
『ヤツの魂が、どこまで「生」に固執できるか……見届けるぞ』
ウルが伏せ、その金色の瞳でじっと戦場を見つめる。
咆哮もなく、ただズズリ……と地面を這うような足音を立てて襲いかかる死者たち。
あちこちで息を殺して、密偵たちも見守っている。
エドワードは、自らの血で滑る右手を左手で補強し、歯を食いしばった。
「――来いッ!!貴様らの絶望も、私の未熟も、すべてまとめて切り伏せてやるッッッ!!」
泥と腐汁が舞い散る、文字通りの死闘。
教本にはない。お芝居でもない。
ただ一人の男が、自らの信じる「騎士道」を証明するためだけに振るう刃が、森の静寂を切り裂いていった。
数時間後。
銀色の月光を溜め込んだような美しい薬草――月見草を数本摘み取り、エドワードを先頭に、一人と一匹は再び領都へと続く街道を、肩を並べて歩き出した。
「お兄さん、型も何もあったものじゃなかったし、泥を投げたりして、全然騎士らしい戦いではなかったね」
コロの言葉に、先頭を歩いていたエドワードはチラッと振り返り、苦笑いを浮かべた。
「ははは……たしかに、な」
「教本に書いてある立派な騎士様からは、ずいぶん遠ざかっちゃったみたいだけど」
コロは、再び前を向いたエドワードの背中に向かって、ポツリと告げた。
「……でもね。自分を小馬鹿にして、酒の肴にしているような人類がのうのうと暮らしている街。それでも、そこにある平穏を命懸けで守ろうとしたお兄さんはね。……そこら辺に転がっている誰よりも、ずっと『騎士』に見えたよ」
『お前の言う通りだな。骨のある人類、そうだな……職人のような『何か』を感じた』
エドワードは足を止め、振り返った。
夕陽を浴びたその顔は、泥と血で汚れている。
しかし、その瞳だけは、昨夜の窓から見た時よりもずっと、鋭く、そして優しく輝いていた。
「ウルも『そのとおり』って言ってるよ」
『おい、ちゃんと伝えろ』
ウルがボフッとコロに身体を軽くぶつけた。
よろけながらもクスクスと小さく笑いながら、コロは口を開いた。
「ふふ、ごめんごめん。ちゃんと訳すとね『骨のある人類だ。職人のような『何か』を感じた』って」
そんな一人と一匹の言葉に、エドワードは年相応な、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「そうか、感謝する、コロとウル。私は、今日ここから、教本なんかではない……本当の意味で私の、私なりの『騎士道』を始めることができそうだ」
「ずっと見張ってる密偵の人たちがね、しっかりと報告してくれると思うよ。『エドワードお坊ちゃんは、本物の騎士になれる』『想像以上に強い。試練を経て大化けした』ってね」
「だといいがな……」
照れくさそうにはにかんだエドワード。
コロとウルはジッと、茂みの向こうで息を潜めている密偵のうちの一人に視線を向けた。
領都の巨大な石造りの門が見えてくる頃、コロとウルはふと足を止めた。
エドワードと少し距離を置くためだ。
「手伝ったと思われたら癪だから、私たちはここで。……じゃあね、お兄さん。みんなに笑われないくらい、強くなりなよ」
「ああ、肝に銘じておく!感謝する、コロ!そしてウル!」
エドワードは振り返って泥だらけの顔で笑い、不器用に大きく手を振ると、再び前を向いて一人で門へと歩き出した。
傷だらけの甲冑とボロボロのマントを纏ったその背中は、出発の時とは比べ物にならないほど清々しく、そして頼もしかった。
一人と一匹は、その背中が門をくぐり、街の喧騒に紛れて見えなくなるまで静かに見守っていた。
やがて。
「……そろそろいいんじゃないかな」
コロが、誰もいないはずの背後の虚空に向かってポツリと呟いた。
その言葉を合図にしたかのように、コロとウルの背後の木陰から、音もなく一人の男――密偵のリーダーが姿を現した。
男は無言のままコロの横に立ち、彼女の小さな手に、ずっしりと重い金貨の入った革袋を押し付けるように握らせた。
「……坊ちゃんが『不当に死ぬ』のを防いでくれた報酬だ」
「行きずりで出会って、ちょっと助言しただけなのに、随分とくれるんだね」
「今回の顛末を他言無用にしてくれるための代金でもある」
「なるほどね、いいよ。私は薬草を売り歩いているだけの、ただの通りすがりだから」
コロは革袋の中で立てる金貨の音と重さを確かめ、ホクホク顔で微笑んだ。
男は、傍らで退屈そうに欠伸をしているウルを一度だけ畏怖の目で見つめ、僅かに頭を下げた。
「……我々も、少し考え直さねばならんようだな」
「そうだね」
「坊ちゃんのあの背中を見てしまった以上は……」
「あのお兄さん、時間はかかるかもしれないけど、きっと立派な騎士になると思うよ。ま、私たちには関係ないけど」
「そうだな」
「もうね、あのお兄さんは操り人形でも、道化でもないよ」
コロの言葉に、密偵は微かに口角を上げると、再び影の中へと溶けていった。
家のメンツ。騎士のプライド。
人類がそんな「目に見えないもの」を守るために差し出した対価を懐にしまい、コロは弾むような足取りで歩き出す。
「さてと。ウルも今日は指導係、頑張ったもんね」
『フン。ただの気まぐれだ』
「ふうん。随分と熱心な気まぐれだったね」
『うるさいぞ。それより、せっかく貰った報酬だ』
「分かってるよ。今日は一番高いお肉を食べようか」
『フン、当然だ。安い肉なら承知せんぞ』
箱庭を壊した一人と一匹の足取りは、領都の中へ、そしてその先の「美味しいご飯」へと向かっていた。
※ ※ ※
その夜。
宿のベッドで深い眠りに落ちたコロは、いつものように柔らかい光と香りに包まれていた。
「おかえりなさい、コロ」
「ただいま、女神様」
「今回はずいぶん、熱苦しい旅になったわね」
女神がクスクスと笑いながら、コロの頭を膝の上に乗せた。
その指先が、戦場で飛び散った泥や腐汁の記憶を、コロの銀髪から優しく拭い去っていく。
「そうなんだ。なんだかウルが珍しく、やけに気に入っちゃってね。ただの薬草採取だったのに、最後は特訓の通訳までさせられちゃった」
「ふふっ。ウルも、あの子の『折れない魂』が眩しかったのね」
「そうだね。たぶん、職人に通ずるものを見出したんじゃないかな。ウル、職人好きだし」
「鋼を捨てずに、その傷を誇りとしたあの若者の未来は、きっとあなたが言った通り、誰よりも騎士らしいものになるわ」
「そうかもね。……ま、ウルのへそが曲がる前に、貰った口止め料としてもらった金貨で、明日も美味しいお肉をたくさん食べさせてあげないとね」
コロが女神の膝の上で小さく欠伸をすると、女神は慈愛に満ちたキスをその額に落とした。
「ええ。あなたの選ぶ道は、いつだって正しいわ。……ゆっくりお休みなさい、私の可愛いコロ」
領都の別の場所では、傷だらけの甲冑を着た「本物の騎士」の凱旋が、街の酒場に驚きと静かな波紋を呼んでいた。
しかし、その奇跡の立役者である一人と一匹は、すでに新しい旅の空と、美味しいご飯の夢の中へと旅立っていた。
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