鋼の虚飾と、影の口封じ 2 〜崩壊する舞台と、泥に塗れた騎士の魂〜
2.
領都を離れると、街道は途端にその表情を変えた。
手入れの行き届いた並木道は、境界を越えた瞬間に終わりを告げ、粘り気のある泥と、陽を遮るような深い原生林が両脇を固めている。
風が吹くたびに、森の奥から獣の排泄物や腐った土の匂いが運ばれてきて、ここはもう「管理」の及ばない領域だと告げているようだ。
カチャ、カチャ、と。
整備された領都の道では軽やかだった甲冑の音が、今は不自然に大きく、そして心細く周囲に響き渡る。
エドワード・ランドール・ランブイエは、腰に差した宝石入りの長剣の柄を握り、春の風を深く吸い込んだ。
「……ふむ、これまでの道中、実に容易いものだな」
たった一人きり、まるで緊張を解きほぐすかのような独り言を呟いている。
「怪物の蠢く魔境と聞いていたが、私の覇気に当てられて姿を現す度胸のある個体など、一匹もいないようだ」
エドワードは誰もいない街道で、教本にある「若き英雄」そのものの凛々しい表情を作り、満足げに独りごちた。
彼の瞳には、自らの内側から溢れ出している覇気が、魔物たちを恐れ慄かせているように映っている。
だが、現実は残酷なまでに無機質だった。
エドワードが進む数十メートル先。
街道を遮るように潜んでいたはずの凶暴な野犬の喉を、影から伸びた黒い刃が音もなく切り裂く。
悲鳴を上げることすら許されず、絶命した死体は即座に茂みの奥へと引きずり込まれ、返り血さえも手際よく土で隠された。
「……周辺、クリア。坊ちゃんに気取られるな。舞台を汚すな」
街道脇の深い木陰に潜む密偵の男たちは、感情の欠片もない瞳で、自らの主の無防備な背中を見送った。
主人が一歩踏み出すたびに、その足元に転がっているはずの死体や泥を、密偵たちが先回りして「清掃」し続けている。
エドワードが歩いているのは、未知への冒険路などではない。
完璧に管理され、血の一滴、塵の一粒さえも排除された、清潔で退屈な『箱庭の通路』に過ぎなかった。
「……先輩」
「仕事中だぞ」
「すんません。でも、これ……もし将来、坊ちゃんが……」
「それは範疇外の話だ。知らん」
「そりゃ……」
「今はただ、任務に徹しろ。エドワード坊ちゃんの将来など知らん」
まだ年若い密偵の男は、先輩にキッと睨みつけられ、それ以上は言葉を飲み込んだ。
清掃の行き届いた舞台が、たった一人と一匹の「イレギュラー」の出現によって、修復不可能なまでに崩壊しようとしていることは、己の覇気により魔物が姿を表さないと思い込んでいるエドワードも、淡々と掃除をこなす密偵たちも知らない。
そして、一人と一匹も、誰も知らない。
「……ん?何か、騒がしいね」
街道の外、茂みの中をガサガサと揺らしながら歩いていたコロは、ふと足を止めて耳を澄ませた。
陽光を浴びて輝く銀髪が、微風にさらりと揺れる。
隣を歩く魔狼――ウルは、不機嫌そうに喉を鳴らし、周囲の茂みを一瞥した。
『フン。低級な魔物どもが、俺の気配に当てられて正気を失っているようだ。右往左往と、見苦しいことこの上ないな』
ウルの放つ圧は、魔物にとっては抗いようのない「死」の宣告に等しい。
「ああ、また猫の?」
『だな。言葉は通じるはずなんだがな。通じるのに通じない連中だからな……』
「犬を目の敵にするのをさ、猫の魔物界隈で、なんとかしてくれないかな」
『ヤツら、己の力量を見誤るからな。阿呆だ、阿呆』
本来、密偵たちの細かな「間引き」によって統制されていたはずの野生の均衡が、ウルの存在という巨大な暴力を前にして、内側から爆発した。
茂みの奥で密偵の監視に怯えていたはずの猫の魔物、ワイルドファングたちが、今、背後から迫る圧倒的な捕食者の気配に、生存本能を狂わされた。
彼らにとって、密偵の静かな刃よりも、背後の『銀の絶望』の方が何万倍も恐ろしかったのだ。
結果、数十匹の魔物たちが、逃げ場を失い、唯一の出口――つまり、エドワードのいる前方へと、狂乱の叫びを上げて雪崩れ込んだ。
「ひ、ひぃっ!?な、なんだ、この数は……っ!?どこから沸いて出たッッッ!?」
街道の角を曲がった先で、エドワードの絶叫が響き渡った。
そこには、先ほどまでの「高潔な騎士」の面影はどこにもなかった。
磨き上げられた銀色の甲冑は、狂ったように突っ込んできたワイルドファングの体当たりによって泥に塗れ、羽飾りのついたマントは獣の爪によって無残に引き裂かれている。
「あ、マズい」
『例のアイツか……』
「これは面倒な事になったね」
一人と一匹は視線を合わせ、深い溜息をつき合う。
「よ、来るな!寄るなと言っているだろう!騎士道教本、第十二項、薙ぎ払……ッ!ぐあっ!?」
エドワードは震える手で剣を振り回したが、死に物狂いの野獣たちの前では、それはただの銀色の棒切れでしかなかった。
一匹の野犬が彼の右腕に噛みつき、鋭い牙が彫金細工の籠手を無理やり抉り取る。
「あ、あああぁぁぁっ!痛い痛い痛いっ!た、助けてくれ……ッ!」
泥にまみれ、ワイルドファングに腕を噛まれながら、エドワードは無様に泣き叫んでいた。
「これはウルが原因だと思うけど」
『ぬう……分かってはいる。さすがに始末するか……』
「手遅れになる前に、だね。ほら――」
コロの言葉に、ウルは深い溜息を吐いて、また別の茂みをジッと見つめた。
視線の先には、薬草店で老婆から聞いた『密偵』の類が、今か今かとジッとエドワードを見つめていた。
彼らにとって、エドワードを助けに行くタイミングも、依頼の中で厳密に決まっているようだ。
「くそッッッ!!ぜ、全然ッッッ……!!い、痛いっ!!こんなはずでは……!!」
もはや、エドワードの表情から、先程までの根拠のない自信は完全に消え去っていた。
ただ、全くもって教本通りに事が運ばない『想定外』に対するパニックだけが全身を支配していた。
恐怖で凍りつくエドワードの、その視界の端に、茂みからジッと無機質な瞳で様子を見ている銀髪の少女――コロの姿が映った瞬間、彼の脳裏をある記憶が過った。
『エドワード様、さすがです!』
『坊ちゃんなら、王国一の騎士になれますとも!』
『将来はランブイエ家の騎士団の隊長間違いなしですな!』
おべっかを使う私兵たちの声。
すべてが「嘘」だったのだと、この剥き出しの暴力と痛みが告げていた。
「……あ。ああ、そうか。私は……私は、惨めにも、踊らされていたのか……」
エドワードは、震える手で地面に転がった長剣を掴んだ。
右腕からは血が流れ、自慢の甲冑は凹み、もはや見る影もない。
だが、彼の中で何かが、その虚飾の殻を破って燃え上がった。
「みんなが私を褒め称えるから……私は、自分が選ばれた人間だと、勘違いをしてしまっていたのかッッッ……!」
茂みの中からそんな様子を眺めていたコロが首をかしげる。
「ん、あれ?なんか吹っ切れたのかな……?」
『そのようだ』
エドワードの視線の先では、パニックを起こしたワイルドファングの群れ――の中でも、一際大きく、しなやかな体躯を持つ中級魔物『影猫獣』が、低い唸り声を上げていた。
正直、ウルからすれば大した相手ではない。
「ウル、もうそろそろだよ。お兄さん、もう――」
『おい、待て。……待ってやれ』
「え?もう声をあげちゃったよ。うーん、死なれたら困るんだけどね……」
『いいからまだ待て』
ウルの言葉に肩を竦めるコロ。
「私が……私が愚かだったのは認めよう! 」
エドワードが吠えた。
その声には、先ほどまでの怯えではない、魂を削り出すような重みが宿っていた。
ボロボロになった身体を無理やり引きずり、コロとウルが潜んでいる茂みの前に立ち塞がった。
「私は偽物の騎士だ!己の腕前も、この旅の安全も、すべてが与えられた欺瞞に過ぎなかった!どうせ父上が雇った護衛がどこかに潜んでいるのであろうッッッ!!」
エドワードは、折れそうな膝を叱咤し、剣を正しく構え直した。
「くそっ……!くそっ、くそっ、クソッッッ!!!私を道化に仕立てあげて、裏では皆で笑っていたのだな!?クソッッッ!!魔物が少なすぎておかしいと思っていたが、全部裏で手を回していたのだなッッッ!?私はそこまでしないと、おちおち外も歩けない雑魚だと、こんな猫風情の魔物にも勝てない雑魚だと、そう言いたいのであろうッッッ!!帰ったら私を馬鹿にして酒でも飲むのであろうッッッ!?」
その切っ先は、恐怖で小刻みに震えている。
しかし、エドワードは一歩も引かない。
「だがな……!あの塀の向こうでは、今日も一日何事もない、平凡な一日が始まろうとしているのだ!どうせ私を酒の肴にでもして、笑っているであろう者たちが、今夜も酒を飲み、笑いながら眠りにつく……!その安らぎを、私の無能ゆえに壊させるわけにはいかんのだッッッ!!」
「……は?」
コロは、心底呆れたように口を半開きにした。
相手は、ウルが本気で唸れば即座に心臓が止まる程度の魔物だ。
それを守るだの、命を懸けるだの、あまりにも「効率が悪い」。
「あのね、お兄さん。そんな大袈裟なこと言わなくても、そもそも私たちが――」
『……待て、コロ』
隣で、それまで伏せていたウルがズシリと重い足音を立てた。
その金色の瞳は、泥にまみれながらも「守るべきもの」のために立ち上がったエドワードを、射抜くように見つめていた。
『フン。偽物の鋼を纏いながら、その中身だけは本物だったか。人類にしては、珍しく骨のある目をするではないか』
「ええ……?ひょっとしてウル、あのお兄さんに感心しているの?」
ウルにとって、これまで『人類の戦士』という類の者たちに対して無かった、珍しい反応だった。
コロは呆れ果てた顔で隣のウルの顔を見つめている。
「かかってこいッッッ!!魔物共めェェェッッッ!!ここは一歩も通さんッッッ!!」
エドワードの咆哮に呼応するように、影猫獣がしなやかな跳躍を見せた。
教本にはない、本物の野生の速度。
エドワードは必死に剣を振り上げるが、重い宝石入りの長剣は、すでにボロボロの彼の腕には重すぎた。
ガィィンッ!と、鋭い爪がエドワードの肩を切り裂く。
銀の甲冑が火花を散らして抉れ、彼はその衝撃で無様に地面を転がった。
「ぐ、あああぁぁぁっ!!」
すぐさま立ち上がろうとするが、右足の震えが止まらない。
周囲を囲むワイルドファングたちが、獲物の弱体化を察知してじわじわと包囲網を狭めていく。
その時、茂みの奥で、耐えかねた一人の密偵が腰を浮かせた。
「……限界だ。坊ちゃんが死ぬ。介入するぞ。吹き矢で坊ちゃんを眠らせろ」
だが、その密偵が飛び出そうとした瞬間、彼の背筋を氷の柱が突き抜けるような、圧倒的な圧迫感が襲った。
『……動くな』
密偵が震える首を横に向けると、そこには音もなく密偵たち一人ひとりに視線を送るウルの姿があった。
冷徹な金色の瞳が、「これ以上動けば食い殺す」と無言で告げている。
ウルの言葉が理解出来ずとも、実力差を瞬時に理解した密偵は、喉の奥からヒュッと息を漏らしたまま、石のように硬直するしかなかった。
『……男の覚悟を不意にするな』
方々の茂みから感じる気配を察知したのか、エドワードは目の前の魔物たちを睨みつけたまま声を荒げた。
「誰も手を出すなッッッ!!私は本物の騎士になりたいのだッッッ!!」
しかしエドワードが再び影猫獣の突進を受け、片膝をついていた。
剣は手から零れ落ち、視界は自分の血で赤く染まっている。
「クソッタレッッッ!!私は……私は騎士になりたいッッッ!!皆を守る――平和を守る騎士になりたいッッッ!!なのにッッッ……私はこんな壁すらも乗り越える力がないというのかッッッ!!クソッタレェェェッッッ!!!膝をついている場合かッッッ、エドワードォォォッッッ!!!皆を守る騎士になるんだろうがッッッ!!」
その叫びは、もはや騎士の洗練された言葉ではなかった。
ただの、一人の男の剥き出しの絶叫。
エドワードは泥を掴み、よろよろと、しかし力強く、自らの意志で再び立ち上がった。
折れかけた心を必死でつなぎ合わせ、自分を笑っていたすべてを見返すための、執念の立ち上がりだった。
『……コロ、行くぞ』
「ウルがそこまで気に入るとはね」
『意外か?』
「うーん、いや。意外じゃないかも」
『そうか』
コロの外套の裾をウルがくいっと咥え、茂みからゆっくりと姿を現した。
絶望的な戦場に現れた一人と一匹は、あまりにも不釣り合いなほど静かだった。
「ひ、避難しろ、娘……っ!ここは、私が……っ!」
「お兄さん、おめでとう。ウルが合格だって」
コロが面倒そうに言い放つと、隣のウルが短く吠えた。
『よく立ったぞ。死体にならずに済んだ幸運を、その剣に込めろ。……コロ、伝えろ。右斜め前方、三歩。ヤツが跳んだ瞬間に、左の重心を捨てて踏み込めとな』
「――って、ウルが言ってる。お兄さん、騙されたと思ってやってみて」
「な……!?お、狼が、私に……!?」
「いいから早く。ほら、来るよ」
ウルの「指南」という名の、あまりにも正確で冷酷な殺しの指導。
導かれるままに、エドワードは最後の一歩を踏み出した。
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