一人と一匹と、寄り道 〜昆布と釣りと、絶望の魔狼〜
1.
『海に魚など始めから居なかったと錯覚してしまいそうだな……』
「……うるさいなぁ」
潮騒の心地よい音だけが、のどかな入り江に響いている。
抜けるような青空から降り注ぐ陽光が、穏やかな波をキラキラと宝石のように輝かせていた。
吹き抜ける風は、山の冷気や工場の不快な排煙とは全く違う、磯の香りとほんのりとした塩気を孕んでいる。
アーカス連邦の端に位置する、小さな漁村。
その防波堤の縁にちょこんと腰掛けたコロは、漁師から借りた釣り竿を握りしめ、ひどく不満げな顔で海面を睨みつけていた。
波間に浮かぶ木彫りの浮きは、ここ数時間、ただの一度も沈んでいない。ピクリとも動かない。
『お前が意気揚々と釣り竿を海に投げ入れてから、ずいぶんと時間が経った気がするが。俺の腹の虫の音で波の音が聞こえなくなりそうだぞ』
「もう、わかってるよ。でも、おかしいなぁ……ちゃんと餌もついてるはずなのに」
コロは釣り竿を少し持ち上げてみるが、当然、手応えはない。
氷藍色の瞳をジトッと細め、コロは隣で欠伸をしている相棒へと矛先を向けた。
「……そもそもね」
『……ん?』
「ウルみたいな強すぎる魔物がこんな水辺に陣取ってるから、魚たちが怖がって寄ってこないんだよ。絶対そう。ウルの放つ威圧感のせいだね」
『フン。責任転嫁も甚だしいな』
ウルは呆れたように鼻を鳴らし、前足の上に顎を乗せたまま金色の瞳でコロを見上げた。
『いいか、コロ。水の中にいるような小魚どもに、俺の魔力や威圧感を感じ取るような高度な頭があるわけがないだろう』
「それは……」
『お前の腕が悪いだけだ。いい加減認めろ』
「う、腕って……こんなの、針に餌をつけて海にぽちゃんと垂らすだけの単純作業だよ。上手いも下手もないよ……多分」
『現に釣れていないではないか。俺はさっさと美味い魚が食いたいんだ。無理なら諦めろ』
「む……!絶対に釣ってみせるから、そこで見ててよ!」
痛いところを突かれ、完全にムキになったコロは、再び釣り竿を強く握り直して浮きを凝視した。
人類の悲劇や社会の闇にはあれほど達観していた超越者が、ただの物理的な遊びで完全に子供のように意地を張っている。
辺りには寄せては返す心地よい波の音と、ウルの欠伸の声ばかりが響いていた。
それからさらに数十分後。
微かな波の揺れとは違う、不自然な動きが浮きに表れた。
――チョン、チョン……ググッ!
「わっ!ほらっ!来た!!釣れたよ、ウル!」
『おお、ようやくか!』
「ふふん、これは大きいよ。引きが凄い!」
大きく沈み込んだ浮きを見て、コロはにやりと勝ち誇ったように口角を上げた。
小さな身体でグッと釣り竿を引き上げ、勢いよくリールを巻き上げる。
水面が弾け、先端の釣り針が空中に躍り出た。
しかし、そこについていたのは――銀色に輝く魚ではなく、海水をたっぷりと吸ってデロリと垂れ下がった、分厚くて長い緑色の物体だった。
「……」
『……』
「……あー」
『大きくは……あるな』
防波堤の上に、べちゃり、と重い音を立ててそれが落ちる。
なんとも立派な『昆布』だった。
コロは無言で昆布を見つめ、ウルも無言で昆布の匂いをスンスンと嗅いだ。
『……ちなみに俺は肉食だ。海藻など食べんぞ』
「……うん。知ってる」
ウルの冷ややかな声に、コロはすっと表情を消して釣り竿を置いた。
「……ねえ、ウル」
『なんだ』
「この村の食堂、お魚料理がすごく美味しいらしいよ。大人しくお店で食べよっか」
『賢明な判断だな。さあ、行くぞ。俺の腹の虫はもう限界だ』
釣りの才能の無さをあっさりと受け入れ、一人と一匹は防波堤に昆布を残したまま、食欲をそそる匂いが漂う漁村の食堂へと歩き出すのだった。
2.
漁村の食堂は、昼時ということもあって活気に満ちていた。
炭火で焼かれた魚の香ばしい匂いと、甘辛い醤油の香りが漂う中、ウルは出された大皿の焼き魚を骨ごとバリバリと噛み砕き、至福の喉鳴らしを上げている。
コロもまた、新鮮な白身魚の煮付けをつつきながら、まだ少し暖かい黒パンを頬張っていた。
「やっぱり、ちゃんとした漁師が獲ったお魚は美味しいね。あのハルデンで食べた灰色のペーストとは大違いだよ」
『ああ。さっきの緑色のブヨブヨとも大違いだな』
「……まだ言うんだ。あれはたまたまだよ」
コロは不満げに唇を尖らせた。
「だいたいさ、針に餌をつけて海にぽちゃんと垂らすだけの行為に、上手い下手がある訳がないじゃない。完全に運だよ、運」
『ふん。負け犬の遠吠えだな』
「負け犬じゃないよ。……そもそも、魚の機嫌なんて誰にもわからないし――」
「ガハハハハ!お嬢ちゃん、そりゃ大きな勘違いってもんだよ!」
突然、厨房の奥から豪快な笑い声が響いた。
見れば、丸太のように太い腕に前掛けを締めた、ドワーフ族で恰幅の良い食堂の女将が、両手に料理のお盆を持ったまま愉快そうに笑っていた。
「ただ糸を垂らすだけじゃ、釣れるわけがないさ!相手は生きてるんだ」
「生きてるって……そりゃね」
「だろ?木偶の坊みたいにヌボーっと動かない餌なんざ、不自然すぎてね、魚に見向きもされないよ」
「え……そうなの?」
コロが目を丸くすると、女将は「あったりめぇよ!」と胸を張った。
『おい、コロ。そいつからコツを聞け』
ウルがこっそりと唸り声をあげながら左前足でコロを小突く。
美味しい魚を食べて機嫌が良いのか、ウルもすっかり釣りに興味を持ったらしい。
「……じゃあ、どうすれば釣れるの?おばちゃん、教えて!」
「おっ、素直でいい子だねぇ!いいかい、釣りってのは如何に『誘い』を上手に出来るかがすべてなのさ!」
教えたがりの気質なのか、女将は嬉々として語り始めた。
「ん、『誘い』?」
「そう!海底で餌をただ漂わせるんじゃなくて、竿をチョンチョンと動かして、餌が生きているように見せかけるんだ。弱った小魚が逃げ惑う動き、エビがピンッと跳ねる動き……魚の食い気を『誘う』テクニックだよ!」
女将の身振り手振りを交えた熱烈な講義が続く。
潮の流れの読み方。
魚種に合わせた棚の取り方。
海底の地形を探る感覚。
ただの運任せの物理現象だと思っていた「釣り」が、実は緻密な計算と駆け引きの連続であるという事実。
数百年の時を生きる超越者の知的好奇心と、あの昆布を釣り上げた時の「負けず嫌い」に、完全に火がついた瞬間だった。
「……なるほど。奥が深いね……!」
コロの氷藍色の瞳が、かつてないほどの真剣な光を帯びていくのを、ウルは隣で呑気に魚の尾びれを齧りながら眺めていた。
「私でも釣れそうな気がしてきたよ」
「やってごらんよ!海のゴミ掃除にならなきゃいいけどね、ウハハハハッ!」
『ゴミ掃除か!クハハッ、上手いことをいう人類だ!』
この時のウルはまだ、コロのこの「探究心」が、自分にどれほどの悲劇をもたらすかを知る由もなかった。
3.
それから十数日後。
アーカス連邦の端にあるその小さな漁村の防波堤には、すっかりこの村の風景の一部と化した一人と一匹の姿があった。
「……ここだっ」
コロの氷藍色の瞳が、鋭く海面を睨みつける。
手にした釣り竿を小刻みに、しかしリズミカルに震わせ、海底に潜む獲物へ魅惑の『誘い』をかける。
「ほら、誘いに乗るよ……!来い来いっ……!」
ツン、ツン……という微かな反応の後、浮きが海中へと一気に引きずり込まれた。
「よし、乗った!!」
コロは完璧なタイミングで竿をしゃくり上げ、見事な手際でリールを巻き上げる。
水しぶきと共に空中に舞い上がったのは、昆布などではない。
太陽の光を浴びて銀色の鱗を輝かせる、丸々と太った立派な白身魚だ。
「ふふん、見た?」
『ああ、見た』
「ウル、また大物だよ」
『ああ、大物だ』
「女将さんに教わった通り。完璧だね」
『ああ、完璧だ』
コロは満面の笑みで釣り上げた魚を掲げ、背後を振り返った。
そんなコロの言葉に対し、面倒くさそうに鸚鵡返しをするだけのウル。
防波堤の上には、女将から借りた本格的な釣り道具と、すでに満杯になった木製の魚籠がいくつも並んでいる。
だが、その大漁の魚籠の横で、魔狼――ウルは、防波堤にべちゃりと腹をつけ、この世の終わりのような死んだ目をしていた。
『……もう、いい。やめてくれ、コロ』
「え?まだまだ釣れる時間帯だよ?潮目も最高だしね」
『潮目など知らん……。いいか、俺は誇り高きアッシュウルフだ。いくらドワーフの女将の料理が美味いとはいえ、来る日も来る日も朝から晩まで魚、魚、魚! 俺の胃袋はもう、磯の香りで腐り落ちそうだ……』
ウルは前足で頭を抱え、悲痛な唸り声を上げた。
初日こそ「美味い魚が食いたい」「俺は肉食だ」とコロを煽っていたウルだったが、負けず嫌いと探究心に火がついた超越者の『熱中』は、ウルの想像を絶していた。
コロは早朝から日没まで防波堤に立ち続け、日を追うごとに釣果を倍増させていった。
その結果、一人と一匹の食事は完全に魚介類一色に染まり、肉食のウルの精神は限界を迎えていたのだ。
いくら魚だって肉とは言えど、ウルが真に食べたい肉は、血が滴るような新鮮な獣の肉だった。
『頼む、俺が悪かった!お前の釣りの腕は確かだ。この村の漁師どもすら凌駕している。だから……もう魚はいい!早く次の街へ行くぞ!』
「ええー……?でも、せっかく撒き餌の配合も完璧に仕上がってきたのに」
『海は暫くいらん!!俺に血の滴るような、大地を駆ける獣の肉を食わせてくれ……!』
ついにウルが情けなく泣きを入れると、コロはポカンと瞬きをした後、「あはははっ!」と大きな笑い声を上げた。
「もう、しょうがないなぁ。ウルがそこまで言うなら、今日の夕飯を最後に、明日には出発しよっか」
『……本当だな?明日の『朝マズメ』とやらに、また竿を出すような真似はせんのだな?』
「しないしない。約束する」
コロは釣り上げた魚を魚籠に放り込みながら、クスクスと笑い続ける。
「でも、次に森へ入ったら、今度は私がウルの狩りに文句言っちゃうかもよ? 『もっと上手に誘いをかけなきゃ』って」
『……二度と釣りの話はするな』
ウルの恨みがましい視線を受け流し、コロは満足げに伸びをした。
重苦しい工場の村を抜け出し、気まぐれに立ち寄った海辺の村。
そこで得た予想外の『趣味』と、相棒の情けない泣き言は、長く果てしない旅路の、良い息抜きになったようだ。
「さて、この大漁のお魚、女将さんにどう料理してもらおうかな」
『……明日の朝までの我慢だ』
潮騒の音と、一人と一匹ののどかなやり取りが、青く広がる海へどこまでも穏やかに溶けていった。
4.
その夜。
まだ鼻腔の奥に潮の匂いが染み付いたままの一人と一匹は、漁村唯一の宿のベッドの上で、深い微睡みの中へと落ちていった。
――ふわり、と。
生臭い潮の匂いから一転して、清らかでいて柔らかい香りに包まれながら、コロの意識が徐々に覚醒していく。
「おかえりなさい、私の愛おしいコロ」
「ただいま、女神様。ふふっ……!」
「ついにウルが音を上げたわね!」
「うん!散々『お前が下手くそだから』って、事あるごとに馬鹿にしてきたからね!」
コロが無邪気に笑うと、背後から伸びてきた豊満で温かい腕が、コロの小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
艶やかな黒髪が頬をくすぐり、女神はコロの銀糸の髪を愛おしそうに撫でる。
「ふふふ。あの子ったら、最後の方は本当に絶望した顔をしていたものね。コロがどれほど意地っ張りか忘れて挑発するから、あんな目に遭うのよ」
「だね。最初は『絶対に釣ってやる!』って意地になってただけなんだけど、あの女将さんに理屈と計算を教わったら面白くなっちゃって。気づいたら毎日防波堤に立ってたよ」
「ええ、本当に頑張ったわね。……見事な大勝利よ、私の可愛いコロ」
女神は心底楽しそうにくすくすと笑いながら、コロの頭に頬ずりをした。
「でも、毎日潮風に当たりすぎて、少し髪がパサついているわ。それに、お肌もほんのり潮焼けして……」
女神のひんやりとした滑らかな指先が、コロの頬や髪をそっと撫でる。
それだけで、十数日の釣り三昧で蓄積していた微かな疲労や、潮風による痛みが、清らかな香りと共にスッと引いていった。
女神の慈愛が、コロの身体を元の穢れのない状態へと優しく戻していく。
「ん……冷たくて気持ちいい」
「ふふっ。薬草採取よりも面白いかしら?」
「……それでもやっぱり、私は薬草を採取する方が好きかな」
コロは女神様の腕の中で、自分自身のルーツを確かめるように呟いた。
「森の空気とか、土の香りとか……やっぱり、そこが一番落ち着くんだ。それにね、薬草採取が私とウルを合わせてくれたから。もし私がはじめに薬草採取じゃなくて、釣りに目覚めていたら、私の隣にはアッシュウルフじゃなくて、マーメイドでもいたかもしれないしね」
女神様は一瞬意表を突かれたように目を丸くし、それから鈴を転がすような声で笑った。
「ふふっ!マーメイド?それはそれで賑やかそうだけれど……でも、今のあの子以上にあなたを全霊で守り、かつ、あなたの意地っ張りに振り回されてくれる存在はいないでしょうね」
「だね。昼はウルと、夜は女神様と一緒。……私は、本当に幸せだよ」
コロは眩しそうに目を細め、女神様の指先の冷たさを頬に感じながら、ゆっくりと意識の灯火を落としていく。
「さあ、ゆっくりお休みなさい。明日からのお肉探しの旅も、ずっとあなたを見守っているわ」
「うん……おやすみなさい、女神様」
潮の匂いも、人類の悪意も届かない、ただ自分だけを溺愛してくれる絶対的な安らぎの空間。
コロは温かく柔らかい女神の腕の中で、大物とウルの泣き言を釣り上げた誇らしげな達成感と共に、心地よい微睡みへと身を委ねるのだった。
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