万能のゆりかごと、薪たちの村 2 〜悲劇の歴史と、ただの便利な宿場〜
2.
翌朝。
鉛色の空に、太陽の光さえも煙に遮られた薄暗い朝。
コロとウルは、出された灰色のペーストを綺麗に平らげると、早々に管理棟をチェックアウトして工場を後にした。
「思いのほか快適だったね」
『……正気か?あの鼻が曲がりそうな臭気の中でよくそんなことが言えるな』
「だって、客室のベッドはシーツもパリッとしてて清潔だったし、あの餌……灰色のペーストも、スパイスが効いてて普通に美味しかったでしょ?食べた途端に疲れも吹き飛んだし」
コロは、精製所の巨大な煙突から吐き出される濃厚な黒煙を振り返りながら、淡々とした口調で評した。
「ハルデン村の『誇り高き採取家』っていう伝統が呆気なく潰えたのは個人的にはすごく残念だけど……旅の中継地点、単なる宿場として見るなら、あそこはなかなか優秀なんじゃないかな」
『フン。外で泥まみれになっている生ける屍どもを見ても、随分と乾いた感想だな』
「私たちが彼らに何かしてあげられるわけじゃないもん」
『それはそうだな』
「ハルデン村の人類たちもきっと、望んであの生活をしてるんだから、他人がとやかく言うことじゃないよ。人類のコミュニティなんて、往々にしてそんなもんでしょ」
『だな』
事実、コロはこの滞在中、死んだ魚のような目で働き続ける元ハルデン村の工員たちから話を聞くようなことは一切しなかった。
彼らの絶望も、後悔も、コロにとっては『観測』するまでもない、ありふれた人類の選択の末路に過ぎないからだ。
重厚な鉄柵を抜け、工場から続く平坦な街道をしばらく歩く一人と一匹。
やがて、ツンとした薬品の臭気が薄れ、代わりに冷たく瑞々しい山の冷気と、湿った腐葉土の匂いが鼻腔を撫でるようになってきた。
資本の手に削り取られていない、手付かずの自然が残る領域だ。
『ふう、臭いが消えて、やっとまともな生活に戻れた気がするな』
「大袈裟だなぁ。さてと。あの村で薬草を売るのは諦めたけど、この辺りの裏山には『星芒草』っていう希少な薬草の群生地があるはずなんだよね」
『ほう。まだ草をむしるのか』
「うん。次の街で高く売るために、少し採取して行こうかなって思って」
コロはそう言うと、整備された歩きやすい街道から躊躇いもなく外れ、道なき道――鬱蒼と茂るシダや棘のある低木の茂みへと足を踏み入れた。
『おい、そっちは獣すら通らんような道だぞ。いいのか?』
「採取家にとってね、道は自分で作るものだよ。それに、工場から離れれば離れるほど、昔のハルデン村の匂いが残ってるはずだからね」
『それはそうだが……。また虫に刺されるぞ』
「それは薬でどうにかするよ」
――ザッ、ザザッ。
コロは自身の背丈ほどもある茂みを器用に掻き分けながら、険しい山の斜面へと分け入っていく。
ウルはやれやれと鼻を鳴らしながらも、コロの小さな背中を追って、深い山の静寂の中へとその身体を滑り込ませた。
背丈ほどもあるシダの葉を掻き分け、棘のある低木を躱しながら、ウルを先頭に、コロは斜面を登っていく。
工場の排煙が届かないこの山には、かつてのハルデン村周辺に満ちていた、瑞々しい生命の匂いが色濃く残っていた。
『しかし、こんな獣すら避けて通るような険しい道に、お前の探している草などあるのか?さっきから同じような雑草しか生えてないぞ』
「あるよ。『星芒草』はね、日陰と湿気を好むから、こういう手付かずの斜面にこそ群生するんだ。ハルデン村が無くなったのなら、私が独占だね。あ、ほら、あそこ――」
コロが前方の倒木の下を指差そうとした、その時だった。
『……待て、コロ』
ウルの低い声に、コロはピタリと動きを止めた。
風向きが変わる。
森の匂いに混じって、ごく微かな、しかし明らかな『獣の血と鉄の匂い』が漂ってきた。
コロが音を立てずにシダの葉の隙間から前方を覗き込むと、少し開けた斜面で、一人の男が罠にかかったイノシシの解体を行っているところだった。
灰色のペーストを啜っていたアンデッド同然の工員たちとはまるで違う様相だ。
使い込まれた厚手の革鎧に身を包み、太い腕には確かな筋肉が隆起している。
顔は日焼けして浅黒く、鋭い双眸には、厳しい自然の中で生き抜く者特有の『野生の光』が宿っていた。
手際よく刃を滑らせ、血抜きと解体を行うその無駄のない所作は、まさにコロの記憶にある「誇り高き山の男」そのものだった。
「……見つけた」
コロの氷藍色の瞳が、パァッと嬉しそうに輝く。
『ハルデンの誇りは死んでいなかったようだな』
「だね。ふふ、嬉しくなっちゃった」
今にも鼻歌が零れそうなコロは、足元の枯れ枝をわざと踏み折り、「パキッ」と音を立てて斜面に姿を現した。
「――誰だ?」
「こんにちは、おじさん。すごく手際がいいね。おじさんはハルデン村の『誇り高き採取家』でしょ?」
突然現れた銀髪の幼女に、男は警戒の色を見せて立ち上がった。
だが、その後ろから魔狼――ウルが姿を現すと、男は目を見開き、反射的に解体用のナイフを構え直した。
「……何者だ、お嬢ちゃん。そんなバケモノを連れて、こんな裏山を――ハルデン村の誇り高き採取家だと?なぜそれを知っている?」
「私はただの旅人だよ。この先の『星芒草』の群生地を探してたんだけど……おじさん、この辺りの地形に詳しそうだね」
コロは敵意がないことを示すように両手を広げ、背負っていた鞄の中から、瑞々しい薬草の束をいくつか取り出して見せた。
「実は、こういう上質な薬草をいくつか持ってるんだ。山の向こうの工場は量産品ばかりでね」
「あそこか……だろうな」
「とてもじゃないけど買い取ってくれそうもなかったから、見る目のある採取家がいるなら、おじさんの住んでる場所で取引したいなって思ってたところなんだけど」
男は、コロの手にある薬草を一瞥し、そして背後のウルを交互に見た。
やがて、警戒を解くようにナイフを下ろし、短く鼻を鳴らす。
「……しかし、工場、か。あんな泥水をすすってる連中と一緒にすんな。俺たちはあんな『飼い犬』じゃねえ」
男は血抜きを終えたイノシシの肉を布で包みながら、コロに顎をしゃくった。
「お嬢ちゃん、その草は確かに極上品だ。だが、こんな山の中で立ち話をするようなシロモノじゃねえな。……それに、そっちのデカブツ、さっきから俺の獲物を見てよだれを垂らしてやがる」
『……フン。泥のような餌を食わされた後だからな。新鮮な血の匂いに腹が鳴るのは本能だ』
ウルが誤魔化すようにそっぽを向く。
「さっき灰色の変なペーストを食べた後に見かけた新鮮な肉だからね。処理がとても丁寧だもん」
男はフッと口角を上げると、血の付いた手を布で拭った。
「いい、ついてきな。俺たちの集落は、この山のさらに裏側だ。……極上の草を持ってきた客人に、本物の『肉』を振る舞ってやるくらいの礼儀は持ち合わせてるつもりだぜ」
男の言葉を受け、コロとウルは視線を合わせ、互いに口角を僅かに上げてみせた。
男――ニックと名乗った初老の採取家に案内され、山の裏側へと降りた一人と一匹。
そこには、峻厳な岩肌に隠れるようにして、数十世帯ほどの小さな集落が形成されていた。
工場周辺の無機質なバラックとは違う、木と石で組まれた手作りの家々。
広場では毛皮が干され、燻製肉の香ばしい匂いが漂っている。行き交う人々は皆、過酷な自然と共に生きる逞しさと、生命力に満ちた顔をしていた。
これこそが、コロが記憶の中で愛した『ハルデン村』の本来の姿だった。
「さあ、遠慮なく食ってくれ。味付けは岩塩だけだが、昨夜食ったっつう泥よりは百倍マシなはずだぜ」
集落の長でもあるニックの家で、囲炉裏の火に炙られた分厚いイノシシの肉が振る舞われた。
『……美味いな!全く、肉というのはこうして噛み千切るものだ。あの工場どもにも教えてやりたいくらいだな!』
ウルは歓喜の喉鳴らしを上げながら、骨付き肉に貪りついている。
コロもまた、素朴だが力強い命の味を噛み締めながら、氷藍色の瞳を細めた。
「うん、美味しい。ウルも美味い美味いって言ってる」
「はは!食う姿を見てりゃ、何を言ってんのか察しがつくってもんよ」
「……ねえ、ニックさん」
「ん、なんだ?」
「あの工場の村人たちとは、随分と生き方が違うみたいだけど……おじさんたちは、元々はあっちの村の人たちなんでしょ?」
コロの問いかけに、囲炉裏の火をいじっていたニックの手が、ピタリと止まった。
火の粉が爆ぜ、男の顔に深い陰影を落とす。
「……ああ。そうだ。俺たちは二十年前、あそこを『追い出された』連中さ」
ニックは皮肉げに口元を歪め、静かに語り始めた。
「二十年前、王都のロスパーナ商会がやってきて、村にあの工場を建てるって話を持ちかけた。莫大な金と、『もう危険な山を歩かなくても、毎日腹一杯食える安定した生活』を約束してな」
「……」
「村は真っ二つに割れたよ。商会の甘い言葉に目が眩んだ連中と、俺たちみたいに『山を捨てるくらいなら死んだ方がマシだ』って突っぱねた連中でな。大喧嘩の末、少数派だった俺たちは村を追い出され、この裏山に隠れ住むことになったってわけだ」
ニックは懐かしむように、しかしひどく冷ややかな目で、天井の梁を見上げた。
「……あいつら、今は商会に飼い殺しにされて、ペーストを啜って咳き込んでるらしいな。本当に馬鹿な奴らだ」
その声には、怒りとも悲しみともつかない、長年の確執の果ての虚しさが滲んでいた。
「あの工場を選んだ連中は、採取家としての自信が無かったんだよ」
「だろうね。ハルデンの腕利きの採取家なら、普通に考えたらあのまま活動を続けた方が儲かるに決まってるよ」
ニックの虚しさとは裏腹に、コロは肉を齧りながらも淡々とそう告げた。
「お嬢ちゃん、まるで昔のハルデンを知ってるみてえな口ぶりだな」
囲炉裏の火を挟んで、ニックが訝しげにコロを見た。
目の前の銀髪の幼女は、どう見ても十歳そこそこだ。
二十年前の村の分裂騒動の時には、生まれてすらいないはずである。
「ん?まあね。……風の噂で聞いたことがあるんだよ。昔のハルデン村は、腕利きの採取家たちが集まる活気ある村だったって」
コロは骨付き肉にかぶりつきながら、さらりと嘘をつく。
ニックは少しだけ懐かしそうな、そしてひどく自嘲気味な笑みを浮かべた。
「ああ……。昔はそうだった。親父も爺さんも、みんな山を駆け回るのが自慢の荒くれ者ばかりだったよ。だがな、商会がやってきた時、一番に尻尾を振ったのも、その『自慢の親父たち』だったのさ」
「へえ」
「歳をとって、足腰が弱くなってたんだろうな。山の厳しさを知ってる分だけ、怪我や死への恐怖に勝てなかったんだ。……若くて腕の立つ俺たちを『無鉄砲な馬鹿ども』と罵って、あいつらは村ごと商会に売り払いやがった」
薪がパチリと爆ぜる。
ニックの語る二十年前の真実は、コロが工場で見た「自ら鎖を繋がれた老人たちの末路」の裏付けだった。
「俺は今でも、あいつらを許しちゃいねえよ。ハルデンの誇りを金と餌で売り渡した、哀れな裏切り者たちだ。……どうだ? お嬢ちゃんも、あんな工場で泥啜ってる奴らを見ると、滑稽で哀れに思えるだろ?」
ニックは同意を求めるように、囲炉裏越しにコロへ視線を送った。
悲劇の過去を共有し、共に商会と飼い犬たちを嘲笑ってくれることを期待するような目。
だが。
コロは最後の一口を飲み込み、指先についた脂をペロリと舐めとると、氷藍色の瞳をスッと細めて、至極当然のようにこう言い放った。
「ううん?全然。どっちでもいいかな」
「……あ?」
予想外の塩対応に、ニックが間抜けな声を漏らす。
「私たち、あの工場で客室のベッドでぐっすり寝て、朝は『ペースト』を食べてきた。シーツは清潔だったし、ペーストもスパイスが効いてて、思いのほか美味しかったよ」
「は、はぁ……?」
「疲労回復の薬効もバッチリだったし。ハルデンの誇りが無くなったのは残念だけど、宿場として見れば優秀かな。あんな辺鄙な場所で、手軽に安全な寝床とご飯が手に入るんだから、旅人としてはむしろ助かっているんじゃないかな」
コロは悪びれもせず、あの胸糞悪い工場を「便利な中継地点」としてあっけらかんと評価してみせた。
ニックはポカンと口を開け、囲炉裏の向こうの幼女をまじまじと見つめている。
彼が長年抱え続けてきた村への愛憎も、誇りを巡る悲劇も、この旅の幼女にとっては『自分にどう役立ったか』という利便性の前では、道端の石ころほどの価値もなかったのだ。
「この集落が無かったら残念だったけれど、ここがあるし、別に元のハルデン村は無くてもいいかな。腕利きが選別されたわけだしね」
『……ククッ、お前というやつは。相変わらず、人類の湿っぽい感傷をぶち壊すのが上手いな』
ウルが骨を噛み砕きながら、腹の底で笑いをこらえている。
「なるほどね、そういう二十年前の経緯があったんだ。おかげで納得したよ」
一瞬の沈黙の後、ニックは呆れたように大きなため息をつき、やがてハハハ!と豪快な笑い声を上げた。
「……ハハハ!いや、恐れ入った。お嬢ちゃん、ただの子供じゃねえな。昔のハルデンの連中より、よっぽど図太くて肝が据わってるぜ!」
「当然だよ。私は採取家だしね」
コロが胸を張ると、ニックは満足そうに頷いた。
その日の午後。
コロとウルは、ニックたちの隠れ里を後にし、ふもとの街道へと降りる裏道を歩いていた。
「よしよし。薬草と無事に買い取ってもらえたし、次からはこっちの集落に直行すればいいんだね」
『だな。敢えてあの掃き溜めに立ち寄る必要はない』
「ちゃんとハルデン村の伝統を受け継いだ集落があってホッとしたよ」
『少しは賢い人類共もいたわけだ』
「だね。腕に覚えのある採取家はね、あんな変な工場で働くよりもよっぽど稼げるもん。足手まといみたいな人類たちが居なくなって、却って良かったんじゃない?」
背後の山では、まだ精製所の黒煙が鉛色の空を汚し続けている。
だが、一人と一匹の足取りは軽く、彼らの意識はすでにその黒煙の向こう側――美味しいご飯と新しい街へと向かっていた。
資本の搾取も、村の悲劇も、誇り高き男たちの隠れ里も。
この世界のすべては、長い時を生きる彼らにとって、気まぐれに立ち寄っては通り過ぎていく、ほんの一瞬の景色に過ぎないのだった。
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