万能のゆりかごと、薪たちの村 1 〜記憶の採取家たちと、生ける屍の工場〜
1.
アーカス連邦の国境近くの町を離れ、コロとウルはなだらかな山道が続く街道を北へと歩いていた。
この数日、珍しくコロの足取りは軽く、その機嫌もすこぶる良い。
「この先にある『ハルデン村』は、薬草採取の腕が立つ人類が多かったよね」
『ん、そこは俺は行ったことがある村か?』
「え?うーん、どうだったかな……いや、居たね。もう大きくなってた頃だよ」
『ふむ、イマイチピンと来ないな……』
「えー?ついこの前だったと思うんだけどね」
『どんな村だ?』
深く印象に残っている様子のコロに対し、丸っきり覚えていない様子のウル。
首を傾げるウルの背中に片手を乗せつつ、コロは少し考えてから言葉を続けた。
「うーん、そうだね。山肌にへばりつくような小さな村なんだけど、とにかく活気があったよ。険しい山に分け入って、命がけで希少な薬草を獲ってくる『誇り高い採取家』たちばかりでね」
コロは氷藍色の瞳を細め、遠い過去の記憶を引っ張り出すように空を見上げた。
『ふむ。人類の喧騒は好かんが、美味い肉があるなら悪くない。……で、その活気ある村に最後に行ったのはいつ頃の話だ?』
「さあ、何十年前だったかな?ウルが大きくなっていたはずだから……んー、百年前に伯爵と会った頃よりも後ではあるけど……じゃあ――」
『……お前の「ついこの前」の感覚には、いつも呆れさせられる』
ウルが深くため息を吐く。
数百年という時間を、変わらぬ姿で生き続ける少女。
彼女にとっての「記憶の中の昨日」は、人類にとってはすでに歴史の彼方の出来事であることも珍しくない。
「兎に角さ。夕方になると、彼らが持ち帰った金でもてなされる酒場から、山の下まで届くような大きな笑い声が聞こえてくるんだ。荒くれ者ばかりだけど、みんな自分の足で山を歩くことに誇りを持っていた。……すごく、いい村だったよ」
その口調は、幼い少女のものとは思えないほど落ち着き払っており、どこか遠い昔を懐かしむような、深い郷愁を帯びていた。
「だから、今回摘んだこの珍しい薬草だって、きっとあそこの人類たちならちゃんとした値をつけてくれるはずだよ」
コロは背負った鞄をポンポンと叩きながら、隣を歩くウルに楽しげに語りかけた。
「山の男たちの気質なんてさ、そう簡単に変わるものじゃないから。きっと今も、元気な声が響いてるはずだよ」
コロはふふっと笑い、山の稜線を越えるための最後の坂道を軽快に登っていく。
『お前がそこまで楽しみにする村か。あー……思い出してきたかもしれん』
「あ、思い出した?」
『そうだそうだ。思い出した!お前が饒舌になってあれやこれやと薬草談義に花を咲かせていた、あそこか!』
「そうそう!そこだよ、そこ」
『ふむ、そこそこ悪くない村だったな。あれだ、そこそこ悪くなかった村だからこそ、印象が薄かったのかもしれん』
「天邪鬼だなぁ。良くなかった村の方を覚えているの?いつも顔をしかめて『臭い』とか『鼻が曲がりそう』とか文句を言うのに」
『文句ではない。事実を述べているだけだ。というか、あれは精々三十年とか四十年とか、そんなものだったと思うぞ』
「そう?そうだっかも」
そんな、一人と一匹の他愛もない会話は続く。
だが、峠を越え、記憶の中の「ハルデン村」があるはずの盆地を見下ろした瞬間――コロの足が、ピタリと止まった。
峠の頂、一陣の風が吹き抜ける。
本来ならば、そこからは薬草の香りを孕んだ瑞々しい森の吐息が届くはずだった。
しかし、コロの鼻腔を突いたのは、喉の奥がチリチリと焼けるような、不快で尖った薬品の臭気だった。
『おい、臭い!!』
「……あれ?場所を間違えたかな……」
眼下に広がる光景に、コロの言葉が凍りつく。
記憶の中にある、山肌にしがみつくように点在していた石造りの家々は、跡形もなく消え失せていた。
かつて原生林が深く覆っていた峻厳な山々は、無慈悲に削り取られ、段々畑のように画一的な「栽培棚」が連なる歪な形へと変貌している。
誇り高き採取家たちが命綱一つで登った険しい岩肌は、土を盛られた人工的な斜面で塗り固められ、同じ種類、同じ背丈の薬草だけが気味の悪いほど等間隔に植え付けられていた。
盆地の中心部には、天を衝くような数本の巨大な煙突が聳え立ち、そこから吐き出される濃厚な黒煙が、鉛色の空をさらに重く塗り潰していた。
『……おい。これはひどいな。俺の鼻が、腐った泥でも詰め込まれたかのように悲鳴を上げているぞ』
ウルが深く、嫌悪を露わにしてマズルを歪める。
かつての豊かな土や緑の匂いは、大量の薬草を強引に煮詰め、無理やり精製した際に生じる、ツンとした刺激臭と煤の匂いに完全に塗り替えられていた。
舌の裏が痺れるようなその異臭は、生き物が住む場所の匂いではなく、まるで巨大な廃棄物処理場に足を踏み入れたかのような錯覚さえ覚えさせる。
コロは無言のまま、吸い寄せられるように山を下り、かつての「村」へと続く道へ足を踏み入れた。
村の入り口。
そこには門と呼ぶにはあまりに無機質な、重厚な鉄柵が設けられていた。
掲げられているのは、王都に拠点を置く巨大商会の冷徹な紋章だ。
「……ロスパーナ商会ハルデン工場って書いてる」
『場所違いでさなさそうだな』
「だね。ロスパーナ商会って、薬草店じゃなくて、よく雑貨屋とか宿で売っているような量産品のポーションを売っているところだ」
『水に色をつけただけのようなアレを、か?』
「うん。へえ、こういうところで沢山作っているわけだ」
そこを行き交う人々は、コロが知る「誇り高き採取人」たちとは似ても似つかぬ姿をしていた。
「……ゲホッ、ゴホッ……!!」
すれ違う村人たちは皆、泥を被ったような灰色の制服を着せられ、背中には管理番号が大きく刺繍されている。
薬品の煙を長年吸い込み続けているせいか、彼らの肌は不自然に赤黒く焼け、あるいは土気色に沈んでいた。
頬は削げ、目は窪み、その瞳には光の欠片も宿っていない。
すれ違いざまに肩がぶつかっても、誰一人として怒ることも謝ることもなく、亡霊のようにただ前だけを見て歩き続けている。
彼らは互いに言葉を交わすことすら忘れたかのように、ただ黙々と、巨大な精製所と労働者宿舎の間を機械的に往復しているようだ。
かつて山の下まで響いていたという酒場の笑い声は、今や絶え間なく続く重苦しい咳き込みと、工場の駆動音にかき消されていた。
『……これが、お前のお気に入りの村か?新人アンデッドの養成所にしか見えんが』
「……だね」
コロは答えず、ただ氷藍色の瞳を細めた。
村の中心部。
かつて村長が住み、夜な夜な村人たちの寄り合いが行われていたであろう広場には、周囲の淀んだ空気から切り離されたように、一際立派で清潔な『管理棟』が鎮座していた。
労働者たちの住むバラックのような宿舎とは異なり、立派な石造りで、窓には磨き上げられたガラスまで嵌め込まれている。
「とりあえず、今夜の寝床を確保しようか。宿屋なんて残ってなさそうだし、外部から来た客が泊まるとしたらあそこくらいでしょ」
『ふん。あの小綺麗な建物か。外の泥まみれの連中との落差に吐き気がするな』
「それが人類の社会の弱肉強食ってやつだよ」
コロは管理棟の重い扉を押し開け、エントランスへと足を踏み入れた。
外の不快な刺激臭は完全に遮断され、代わりに微かなハーブの香りとインクの匂いが漂っている。
大理石のカウンターの奥には、パリッとした清潔な制服に身を包んだ人間族の受付嬢が座っていた。
「いらっしゃいませ。本日はロスパーナ商会・ハルデン工場へどのようなご用件でしょうか?」
受付嬢は、コロと背後の巨大な魔狼を見ても微塵も動揺することなく、まるでマニュアルを読み上げるような、完璧で事務的な愛想笑いを浮かべた。
その瞳には、外の労働者たちとは全く違う意味で『人間らしい感情』が宿っていない。
「こんにちは。私たち旅の者なんだけど、一晩泊めてもらえる部屋ってあるかな?」
「はい、視察員や行商人様用のゲストルームが空いております。一泊二食付きで、銀貨二枚となりますが、よろしいでしょうか?」
「うん、じゃあ、一人と一匹分でお願い」
大手商会らしい、ぼったくりのない明朗会計だ。
コロが鞄から銀貨を取り出してカウンターに置くと、受付嬢は手際よくそれを回収し、真鍮の鍵と、ペラペラの紙片を差し出した。
「ありがとうございます。お部屋は二階の二〇三号室です。こちらのチケットは、併設されている食堂での夕食・朝食券となっております。食堂の利用時間は――」
流れるような、しかし一切の温もりのない業務連絡。
洗練された対応と、清潔な空間。
しかし、そのすぐ窓の外では、泥に塗れた村人たちが命を削って釜の火を焚き続けているのだ。
この徹底された『管理と効率』のシステムこそが、この村から自由を奪い去った化け物の正体だった。
「ありがとう。行こっか、ウル。まずはご飯だね」
『……ああ。あの受付の女、精巧な操り人形なのか?気持ちの悪い笑顔だ』
「大きな商会の末端なんて、みんなあんな感じじゃない?」
コロは鍵とチケットをポケットにしまい、受付嬢に教えられた一階奥の食堂へと向かった。
夜の食堂。
と言っても、並べられているのは簡素な長机と硬い椅子、そして冷え切った石壁に囲まれた無機質な空間だ。
ゲスト用のテーブルと労働者用のエリアは一応分けられていたが、出される食事は同じ配給口から受け取る仕組みになっているらしい。
「……」
コロの前に並んでいた労働者の男は、今にも消え入りそうな足取りで、一人と一匹が座る席がある部屋とは、また別の部屋へと消えていった。
『食い物に関する冗談は笑えんぞ』
「これが……食事ってわけね」
『……おい、コロ。お前、こんな不味そうなものを食うのか?これならその辺の汚い草を食った方がマシだ』
コロに寄り添うようにして歩いていたウルが、心底嫌そうに鼻を鳴らす。
乗っているのは、あの労働者の男に配給されていたものと全く同じ、本来の食材の形を失った『灰色の栄養ペースト』だ。
大量生産のポーション工場らしく、食事の効率のみを追求した、家畜の餌に近い代物に見える。
「……見た目は最悪だけどね。でも、お金は払ったんだし、残すのはもったいないから」
コロは木のスプーンで灰色のペーストを掬い、おずおずと口に運んだ。
それをジッと眺めていたウルは、思わずといった具合に目をギュッと閉じてしまう。
そして、コロが数回咀嚼したところで、氷藍色の瞳をパチリと瞬かせる。
「……あれ?」
『どうした? やはり泥の味がしたか?別に吐き出してもいいぞ』
「ううん、違う。……思いのほか、不味くないんだ」
『ん、まさか』
ウルの金色の瞳が疑念に細められる。
だが、コロはもう一口ペーストを掬い、今度はしっかりと味わうように飲み込んだ。
「うん、間違いない。これ、料理の中にポーションが混ざってないかな?」
『ポーションだと?』
「それも、ただのポーションじゃない。多分、この工場で作っている労働者向けの、滋養強壮とか疲労回復に特化した安価なやつじゃないかなって思う。特有の苦みやエグみがあるはずなんだけど……うまくスパイスや肉の出汁で消して、まろやかに仕上げてる」
その時、食堂の入り口付近から、この場には不釣り合いなほど賑やかな声が聞こえてきた。
声の主はシルクの帽子を被り、高価そうな外套を羽織った数人の男たち――王都から来たと思われる商会の視察団ようだ。
彼らは中央の特別席に陣取ると、コロたちが食べているものと同じペーストを、物珍しそうに、かつ優雅に口に運び始めた。
「ほう!これは素晴らしい!滋養強壮剤の不快な後味を微塵も感じさせない。それどころか、スープの旨味が実に濃厚だ」
「ええ、実に合理的だ。これ一杯で、労働者は休息を最小限に抑え、かつ活力を得て再び釜の火の元へ戻ることができる。実に人道的な『発明』ですな、我が商会のポーション精製技術は!」
「これなら戦場でも引っ張りだこだ!飛ぶように売れるでしょう?ガンガン量産せねばなりませんな!」
男たちは「ハハハ!」と快活に笑い合い、ワインを嗜むかのようにペーストを味わっている。
彼らにとって、この食事は『効率的な管理の成功例』という名の美食に他ならなかった。
コロの耳に、彼らの満足げな声が届く。
ペーストが胃の腑に落ちた瞬間から、体の内側からじんわりとした温もりが広がり、一日の歩き疲れがスッと引いていく。
『正解だったな。ポーションがドバドバはいっているらしいぞ』
「やっぱね。ふぅん、ポーションなんかを大量に混ぜて、どうやってこの美味しさを保っているんだろう。でも確かに、薬効はしっかり感じるんだから不思議だよ」
コロの言葉を聞き、ウルも訝しげに自分の木盆に顔を近づけた。
スンスンと濡れたマズルで匂いを嗅ぎ、ペロリと一口だけ灰色のペーストを舐めとる。
『……む』
「どう?」
『……妙な毒が混ざっている匂いもせんな。それに、見た目に反して悪くない味付けだ。純粋に、労働者の肉体を限界まで酷使させるためだけの「極上の燃料」というわけか』
「だね。朝も晩も休まずに釜の火を焚かせ続けるための、一番効率の良い『餌』なんだ」
『味に関して、存外悪くないのが、また腹立たしいな』
「ははは、分かる分かる」
不味い飯では労働者の士気が下がる。
かといって、豪勢な食事を出せば金がかかり、休息を長引かせる原因になる。
ならば、消化吸収が早く、疲労を強制的に回復させ、かつ『美味い』と感じさせるペーストを開発すればいい。
ロスパーナ商会という巨大資本の、あまりにも冷徹で、そして完璧に計算し尽くされた狂気が、この一杯のペーストに凝縮されていた。
『フン。この泥のような酷い見た目から、これほどの味と効能を引き出すとは。人類の『食に対する貪欲さ』だけは褒めるべき点だな』
「だね。この世界のどの生き物よりも抜きん出ているね」
『尤も、食にうつつを抜かしている場合かと言いたくなるような人類ばかりだがな』
ウルが呆れたように、しかしどこか感心したような声で鼻を鳴らし、残りのペーストを一気に平らげる。
コロもまた「本当だね」と小さく笑いながら、スプーンを進めた。
窓の外で煌々と燃え続ける、精製所の巨大な火。
それは、かつて自由を誇った村を焼き尽くし、その住人を薪として消費し続ける、飽くなき資本の象徴だ。
その絶対的な搾取のシステムと、それを支える人類の異様な執念に少しだけ感心しながら、一人と一匹は意外と美味しい夕食の時間を楽しむのだった。
面白かったという方はブックマークや☆を頂けますと幸いです。




