不法な越境者と、約束の地の檻 3 〜地獄の片道切符と、神様の識別子〜
3.
それから数日後の、夕暮れ時。
空は赤みを帯びた黄金色に染まり、家々の煙突からは夕食の準備を知らせる薪の煙が立ち上り始めている。
聖皇国ルミナスの宿場町。
その目抜き通りを、一日の薬草採取を終えたコロとウルがのんびりとした足取りで歩いていた。
「今日も大収穫だったね」
『いい加減、次の町へ行かないのか?』
「ん?そうだね、明日はアーカス連邦に行こうかな」
『ふむ、漸く移動か』
「最後の夜だし、シルフのお姉さんに納品したら、今日の夕食は奮発してちょっと良いお肉にしようか」
『フン。香草ばかりの味気ない飯には辟易していたところだ。血の滴るような分厚い肉がいい』
「ウルは肉食だもんね」
コロの背負う鞄には、今日も質の良い薬草がたっぷりと詰まっている。
平和な町の空気と、これから待っている美味しい夕食。
そんな穏やかな日常の空気を満喫していた一人と一匹だったが――
――チャリ、ジャラッ……。 ズリッ、ズズッ……
ふと、目抜き通りの前方から、この平和な町並みにはひどく不釣り合いな、重苦しく引き摺るような音が聞こえてきた。
コロが歩みを緩めて目を凝らすと、夕陽の逆光を背にして、数十人の集団がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
いや、『歩かされている』という表現が正しい。
彼らは全員、首や手首を太い麻縄と鎖で数珠繋ぎにされ、武装した屈強な傭兵たちに前後を囲まれながら、トボトボと、ただ無気力に足を前に出していた。
「……ん?」
その集団の顔ぶれを見た瞬間、コロの氷藍色の瞳がピタリと止まった。
土気色の顔、光を失った虚ろな瞳。泥と血の滲んだボロ布のような衣服。
間違いない。
それは数日前、隣国のアーカス連邦から不法越境してきて、国境の森でブローカーに身ぐるみを剥がされかけていた――あの『難民たち』だった。
コロとウルから突き放され、森の中に放置されていた彼らだが、どうやら無事に街道まで辿り着き、そして報奨金目当ての傭兵たちによって捕まり、連行されている道中のようだ。
希望に満ちて国境を越えた彼らが、今度は鎖に繋がれて町の目抜き通りを引き立てられていく。
『……ほう。あの時の人類どもか。どうやら無事に捕まったようだな』
ウルが鼻を鳴らし、のんきな声で感想を漏らす。
コロはハッと我に返ると、無言のままウルの首の毛をガシッと掴み、目にも留まらぬ速さで近くの建物の陰――狭い路地裏へと飛び込んだ。
『……おい。何を急に引っ張る』
「しーっ!声を出さないで、ウル」
コロは壁に背中を預け、息を殺しながら通りの様子を窺う。 ウルは呆れたように首を振り、不満げに喉を鳴らした。
『なぜコソコソと隠れる必要がある。あのようなひ弱な輩、道を開けさせればよかろう』
「バカ言わないで。もしあの中で一人でも私やウルのことに気づいてごらんよ。絶対に『神の御使い様!助けて!』って大声で泣きついてくるに決まってるじゃない」
コロは眉根を寄せ、ひどく嫌そうな顔をして首を振った。
「そうなったら、傭兵たちも町の住人も、みんな私たちに注目するんだよ。奴隷を唆したとか、下手したら脱走の手引きをしてる同類だとか疑われて、凄く面倒なことになるのは目に見えてるでしょ」
『なるほど。お前の保身の嗅覚だけは、相変わらず大したものだな』
「人類の『藁にもすがる思い』っていうのは、底なし沼と同じだからね。一度捕まったら、こっちまで引きずり込まれちゃうんだよ」
コロは壁の端からそっと顔を出し、目の前の通りを重い足取りで通り過ぎていく奴隷の列を見つめた。
その時、列の中を歩いていた難民の一人――まだ十歳にも満たないような痩せこけた少年が、ふと路地裏の方へ顔を向けた。
濁りきったその瞳が、建物の陰に潜むコロの氷藍色の瞳と、ほんの一瞬だけ交差する。
「……だから私たちは毎回、真っ当に検問所を通るでしょ?」
コロは、前を向いたままウルに語りかける。
「勝手に国境を越えたら、こうなる可能性があるからだよ」
『フン。同胞だと信じて裏切られた絶望は、計り知れんだろうな』
「面倒でしょ、ああなったら」
一人と一匹に向けられる悲痛な視線を受けながらもも、コロには一切の躊躇いや同情はない。
「まぁ、人類らしいよね。そういう生き物だもんね」
『だな。意外性が皆無だから驚きだ』
一人と一匹は、ただ『自分たちの安全な旅のルール』の正しさを再確認しただけで、一度も振り返ることなく、そのまま美しい夕暮れの町並みの裏通りへと溶けていった。
ただ気ままに、絶対的な理を歩む彼らにとって、これから檻の中で朽ちていく者たちの悲劇など、道端の小石ほどの意味も持たなかった。
翌日。
聖皇国ルミナスでの薬草採取と物資の補充を終えたコロとウルは、宣言通り隣国である『アーカス連邦』の国境検問所へと足を踏み入れていた。
ルミナス側の白亜の城壁とは対照的に、アーカス連邦の検問所は無骨な黒灰色の石造りで、重厚な鉄格子とトゲのある柵が物々しい空気を放っている。
周囲には、目を血走らせた武装兵たちが鋭い視線を巡らせていた。
「はい、二人分の通行税ね」
コロは窓口の兵士に、規定の銀貨をチャリンと手渡した。
兵士はコロの身なりと、背後に控える魔狼――ウルを胡乱な目で見つめたが、正規の通行証と銀貨を確認すると、舌打ち混じりに顎で通行を許可した。
「よし、通れ。……おい、お前ら。採取家か何か知らねえが、最近この辺りの国境は物騒だからな。変な連中に巻き込まれないように気をつけろよ」
「変な連中?」
コロが小首を傾げると、兵士はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「ああ。国を捨てて、隣のルミナスへ逃げ込もうとする薄汚いネズミどもさ」
「ああ、あれね」
「もし、森や街道でそういう越境を試みる連中を見かけたら、すぐに近くの詰め所に通報しろ」
「通報?」
「そうだ。チクリを入れたら、一人につき銀貨三枚の報奨金が出る。逃亡者の一族の財産を丸ごと没収して、その中からくれてやるのさ。いい小遣い稼ぎになるぞ?」
「へえ、そうなんだ。……覚えておくよ」
コロは愛想笑いを浮かべて小さく会釈すると、そのまま重い鉄の門をくぐり抜けた。
『……チクリで報奨金、だと?』
国境を越え、連邦側の街道を歩き始めてから、ウルが呆れたように鼻を鳴らした。
『さっきまで居た国では奴隷に落とし、こちらでは密告で小遣い稼ぎか』
「だね」
『どちらの国も、弱者をしゃぶり尽くすことにかけては余念がないな』
「人類の経済ってそういうものじゃない?需要と供給、あとは搾取のシステムさえ確立できれば、どんな悲劇でも立派なビジネスになるんだから」
『反吐が出るな』
「でも、これでわかったでしょ。検問所を通らないと、あんな風に賞金首扱いされちゃうんだよ。だから私たちは、ちゃんと税金を払って堂々と歩くの」
『この世で一番の害悪は人類だな』
「「そんな事ないよ!」……って言えないところが笑えるね」
『フン。笑えん』
コロは肩をすくめ、アーカス連邦の乾いた風を浴びながら歩みを進める。
やがて一人と一匹は、国境からほど近い最寄りの町へと到着した。
ルミナスの宿場町が清潔で穏やかな空気に包まれていたのに対し、アーカス連邦のこの町は、活気こそあるものの、どこか殺伐として淀んだ空気が漂っていた。
通りを行き交う人々の中には、異端とされ迫害の対象となっている宗派の者たちだろうか――ボロボロの衣服を身に纏い、周囲の目を怯えるように気にしながら歩く者たちの姿が散見される。
「さてと。まずは今日の宿を探さなきゃね。ウルはどんな部屋がいい?」
『馬小屋だけは御免だ。俺の鼻が曲がる。あと、夕飯には肉を出せ』
「はいはい、わかってるよ」
コロは町の目抜き通りを外れ、宿屋が集まる裏通りへと足を踏み入れた。
薄暗い路地には、湿った苔と生活排水の饐えた匂いが漂っている。
少し歩いた先。
昼間だというのに日の光が届かない建物の陰で、数人の人影が身を寄せ合うようにして密談を交わしていた。
「……ん?」
コロは足を止め、壁の陰からそっとその様子を窺う。
そこにいたのは、見るからに柄の悪い、革鎧を着崩した二人組の男。
そして、彼らに対して震える手で小さな革袋を差し出している、見窄らしい身なりの家族連れだった。
「……おい。本当に、これで安全に国境を越えられるんだな?」
父親らしき男が、縋るような声で尋ねる。
柄の悪い男は、受け取った革袋の重さを確かめ、下卑た笑みを浮かべた。
「ああ、安心しな!ついこの前までここらへんで幅を利かせていたあくどい連中はどっかに消えちまった」
「どうりで……」
「な?で、俺たちの案内なら、警備隊の目もごまかして、確実にルミナスの森まで連れてってやるよ。あっちに着きさえすれば、お前らも同胞に歓迎されて自由の身、ってわけだ」
「あ、ああ……ありがとうございます!ああ、女神様、感謝します……っ!」
母親が子供を抱きしめながら、涙を流して祈りを捧げている。
「俺ら、同じサルバトーレ派だろ?女神エスメラルダ様のご加護がありますように」
――数日前に森で消し炭にしたブローカーたちと、全く同じ手口。
その家族が全財産を払って手に入れたのは、希望への切符ではない。
深い森の奥で身ぐるみを剥がされ、あるいは命を落とし、運良く生き延びても奴隷落ちが確定している『地獄への片道切符』だ。
その無慈悲な構造を完璧に理解しているコロは、路地裏の光景を冷ややかな氷藍色の瞳で見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……なるほどね。こうしてまた、餌食になるわけだ」
『愚かなことだ。わざわざ金を払って自ら肉食獣の口へ飛び込むとはな』
「藁にもすがる思いってやつだよ。……まぁ、私たちには関係のない話だけど」
コロは興味を失ったように踵を返すと、悲劇へのカウントダウンを始めた家族に一切の言葉をかけることなく、再び宿探しの歩みを再開した。
『……ところで、女神はエスメラルダという名前だったのか?初耳だ』
「私だって初耳だよ」
『なんだ!じゃあヤツらは何を信仰しているんだ?』
「さあね、人違い――女神様違いじゃないかな」
搾取する者と、される者。
『今晩、女神から名前を聞いておけ』
「多分だけどね、人類みたいに固有の名前なんて持ってないんじゃないかな」
『ふむ、そういうものなのか?』
「じゃない?今まで聞いたことがないよ」
『よくよく考えれば、固有の名前を持つなど、人類くらいしかせんな』
「でしょ?」
そのどうしようもない人類の営みを背中で聞き流しながら、一人と一匹はただ気ままに、今日の寝床と夕食の肉のことだけを考えていた。
※ ※ ※
その日の夜。
アーカス連邦の宿場町の薄暗い宿の一室。
念願の分厚い肉を平らげて満足そうに丸まるウルを横目に、コロもまた硬いベッドに身を横たえていた。
瞼を閉じ、意識がゆっくりと深い底へ沈んでいく。
次に目を開けた時、コロは柔らかな光に満ちた、果てしなく白い空間にいた。
現実の淀んだ空気や血の匂いなど一切存在しない、清浄で甘い香りに満ちた夢の世界。
「おかえりなさい、私の可愛いコロ」
「ただいま、女神様」
「今日は一段と呆れた顔をしているわね」
背後から、鼓膜を甘く撫でるような声が降ってくる。
コロが振り返るよりも早く、豊満で温かい腕がコロの小さな身体を後ろからすっぽりと抱きしめた。
艶のある美しい黒髪がコロの頬をくすぐり、女神が愛おしそうにその頭に頬擦りをしてくる。
「うん、まあね。……ねえ、女神様」
「もっと撫でてほしいの?」
「撫でてほしいけど、違うよ。女神様ってさ、『エスメラルダ』っていう名前なの?」
コロの唐突な質問に、女神はパチリと瞬きをした後、くすくすと上品な笑い声をこぼした。
「ふふっ、やだ。なにその、埃っぽくて重苦しい響き。私がそんな野暮ったい名前なわけないじゃない」
「あ、やっぱり。だよね。ウルが聞いておけって言うから一応確認しただけ」
「今日のあのやりとりの話ね?」
「うん。神様にね、人類がしているみたいに、固有の名前なんてないかなって思ってたんだ」
「ええ、そうね。そもそも『名前』なんていうのは、群れの中で個体を識別するために人類が勝手に作った識別子よ。私はただ在るだけの存在だもの」
女神はコロの銀髪を優しく梳きながら、さも退屈そうに目を細めた。
「今日ね、その名前の女神様を信じて、全財産を騙し取られて地獄に落ちていく人類をたくさん見たんだ。同じ信仰を持ってる相手に縋って、同じ信仰を持ってる相手に奴隷にされてたよ」
「まあ。なんて滑稽なのかしら」
女神の赤い唇が、冷酷な弧を描く。
数多の人間たちが血と涙を流し、命を懸けている信仰と絶望のドラマも、本物の神からすれば『路傍の蟻の殺し合い』程度の関心しか惹かないのかもしれない。
「人類というのは本当に愚かね。自分たちで勝手に幻を作り上げて、勝手に名前をつけて、それに縋って自滅していくんだから。……そんな偽物にすがるより、こうして私に抱きしめられている方が、ずっと幸せで確実なのにね」
ちゅっ、と音を立てて、女神がコロの額に甘いキスを落とす。
「私は他の誰とも信仰を共有しないよ。だからこそ、私の信仰は誰にも搾取されない」
「ええ、それでいいの。私の可愛いコロ」
泥に塗れた現実世界で、名もなき難民たちが鎖に繋がれて暗闇を歩いている頃。
コロは、自分だけを溺愛してくれる神様の温もりの中で、ただ静かに、心地よい微睡みへと身を委ねるのだった。
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