不法な越境者と、約束の地の檻 2 〜盲目な追従と、絶望の鉄格子〜
2.
凄惨な死の匂いが立ち込めていた森に、静寂が落ちた。
つい先程まで難民たちを蹂躙し、下劣な笑い声を上げていたブローカーたちは、ウルの放った『黒雷』によって一瞬にして文字通りの灰と化していた。
風に舞う黒い粉を、斜面の上に取り残された難民たちは、ただ呆然と見つめている。
やがて、彼らの視線は、斜面の下の窪地――雷撃の余韻を纏う漆黒の巨大な狼と、その首に抱きつく一人の少女へと注がれた。
「……あ、ああっ……」
「神の……使い……?」
誰かが、震える声でそう呟いた。
それを皮切りに、生き残った老人や女子供たちが、次々とその場に崩れ落ちるように膝をつき、斜面の下に向かって平伏し始めた。
血だまりの中で震えながら、泥だらけの両手を組み合わせ、必死に祈りを捧げている。彼らの目には、理不尽な暴力を打ち払ってくれたコロとウルが、『奇跡の救世主』として映っているようだった。
だが、当の救世主たちは――
「よし、薬草も十分採れたし、そろそろ行こっか。ウル」
『ああ。こんな血生臭い場所には長居したくないからな。あのゴミ虫を蹴散らしてもなお、ここに留まるのは不愉快だ』
「ふふ、そうだね」
コロは薬草でパンパンになった鞄をよいしょと担ぎ直すと、平伏する難民たちを一瞥すらせず、まるで道端の石ころの横を通り過ぎるかのように、淡々と歩き始めた。
ウルもまた、巨大な身体を揺らしてコロの隣を悠然と歩き出す。
「ま、待って……!お待ちください、神の御使い様!!」
難民のリーダー格であった初老の男が、慌てて斜面を滑り降りてコロたちの後を追おうとした。
しかし、ウルがギロリと金色の瞳だけで男を射抜く。
『……気安く近づくな、人類。それ以上踏み込めば、お前たちも先程の灰の仲間入りだ』
地の底から響くような魔狼の低い唸り声に、男はヒッ、と短い悲鳴を上げてその場に縫い付けられたように動けなくなった。
ウルは鼻を鳴らすと、そのままコロの後を追って森の奥へと歩みを進める。
……ザッ、ザッ。 ……ザッ、ザッ、ザッ。
街道へと向かう獣道を歩き始めて、数十分。
『……おい、コロ』
「ん? なに?」
『後ろから、ワラワラと這い蹲るような音がついてきているぞ』
ウルの指摘通り、一人と一匹の後方――決してウルが警告した「殺傷距離」には踏み込まず、しかし決して見失わないギリギリの距離を保ちながら、あの難民の集団がぞろぞろと後をついてきていた。
案内人であったブローカーを失い、食料もなく、戦える男たちも死んだ彼らにとって、圧倒的な力を持つコロとウルについていくことだけが、唯一残された生存への道だったようだ。
「そうなんだよね。参ったね……」
振り返りもせず、コロは淡々とそう呟く。
『威嚇して追い払うか?』
「ううん。この森は私たちの縄張りってわけでもないし、彼らがどこを歩こうが自由だよ」
『だが、あの人類どもは明らかに俺たちを頼りにしているぞ』
「頼りにするのは勝手だけど、私たちは案内人じゃないからね」
シダの葉を掻き分けながら、コロは氷藍色の瞳を細めた。
「ついてくるなら勝手についてくればいいよ。でも、私たちは歩調を合わせないし、遅れても待たないし、倒れても助けないよ」
『そうだな。俺達から遅れようと、本来の主はすぐに帰ってこないだろう』
「そういうこと。お好きにどうぞってことだね」
その言葉通り、コロは一切足並みを緩めることなく、ただ淡々と自分のペースで森を進み続けた。
やがて、体力のない老人や、傷ついた者が、一人、また一人と森の道中へと倒れ伏していく。
「置いていかないで……」「助けて……」という悲痛な声が背後から何度も聞こえたが、コロは一度も、本当にただの一度も後ろを振り返ることはなかった。
ウルもまた、ただコロの横を歩くのみである。
『それでも死に物狂いで喰らいついてくるヤツがいるな……』
「うーん、困ったね。思ったよりも根性があるね……」
『放っておけばいいだろう』
「距離を離せると思ってたんだ。でもね、こんな行列のまま街道に出てごらんよ」
そう言って、チラリと後方に視線を送るコロ。
「私が彼らのブローカーだと思われちゃうよ。そうなったら益々厄介な事になる。人類を舐めていたね」
『俺の背中に乗れば良い』
「うーん、そうしようかな……」
『そうしろ。これ以上人類のしょうもない弱肉強食に付き合っていられるか』
「……だね」
弱肉強食。
ただそれだけの絶対的な理が、鬱蒼とした森の中に冷たく横たわっていた。
颯爽とウルの背中に飛び乗ったコロ。
ウルはニヤリと口角をあげ、そのまま鬱蒼とした森を突き抜け、あっという間にどこかへと跳躍してしまった。
ウルが強靭な脚力で数度跳躍すれば、難民たちの足では何日もかかる深い森など、あっという間に過去の景色へと変わった。
鬱蒼とした樹海を抜け、綺麗に整備された石畳の街道へと降り立った一人と一匹。
そもそもコロたちは、すでに数日前に正規の検問所を通り、通行税を払ってこの『聖皇国ルミナス』へと入国を果たしている。
今日はただ、国境付近の森にしか生えない薬草を採取するために、町から少し足を延ばして「散歩」に来ていただけなのだ。
そのまま街道をのんびりと歩き、二人は滞在拠点としている最寄りの町へと帰還した。
同じ宗派の信徒たちが集まるこの町は、どこも清潔に保たれ、人々は穏やかな笑みを浮かべて平和な日々を過ごしている。
先程までの血生臭い森の景色が嘘のような、美しい町並みだった。
カランカラン、と軽やかなベルの音を鳴らし、コロは数日前から通っている薬草店へと足を踏み入れた。
「あ、コロちゃん!おかえりなさい。……森で、変な輩と会わなかった?」
カウンターの奥から、パタパタと半透明の羽を揺らして飛んできたのは、小柄なシルフ族の女主人だ。
コロは背負っていた鞄をカウンターに下ろしながら、小首を傾げる。
「ん、変な輩?」
「ええ。最近、あの森を通って密入国してくる連中が多いらしくてね。物騒だから気をつけてって言おうと思ってたのよ」
「ああ……」
コロは鞄の中から、瑞々しい『縄斑草』の束を取り出しながら、淡々と報告した。
「悪辣そうな輩を先頭に、ぞろぞろと歩いている集団がいたね」
「やっぱり……!それで、その人たちは?」
「さあ?彼らがどうなったかまでは分からないけど……あれが例の、越境している人たちなのかな」
シルフ族の女主人は、悲しげに、そしてひどく冷ややかなため息を吐いた。
「ええ、そうね。……隣のアーカス連邦じゃあ、今、派閥争いで彼らの宗派への迫害が酷いらしいの。だから、同じ宗派を国教にしているこの『聖皇国ルミナス』を頼って、全財産をはたいて逃げてくるんだけど」
「ここなら、同胞として助けてもらえるって思って?」
「そう。……でもね、同じ信徒だからって、タダで何百人もの難民を養ってくれるほど、この国も裕福じゃないわ」
女主人は、コロが持ち帰った完璧な品質の薬草を仕分けしながら、この国の残酷なシステムを口にする。
「正規の検問所を通って税を払える者ならともかく、不法に越境してきた難民なんて、国からすればただの『密輸品』扱いよ。捕まればそのまま奴隷商に引き渡されて、安価な労働力として合法的に消費されるだけ」
『……なるほど』
足元で退屈そうに伏せていたウルが、低い声で喉を鳴らした。
「先に逃げた彼らの家族や同胞から連絡が来ないのは、ここが楽園だったからじゃないのよ。……奴隷に堕ちて、連絡すらできない地獄の底にいるからよ」
女主人の語る真実に、コロは「へえ」と小さく相槌を打つ。
その氷藍色の瞳には、同情も哀れみも一切浮かんでいない。
ただ、『なるほど、そういう仕組みか』と、市場の野菜の相場でも聞いたかのように淡々と理解しただけだった。
その日の夜。
コロとウルは、滞在している宿の1階にある酒場で夕食をとっていた。
活気に満ちた店内には、肉の焼ける香ばしい匂いとエール酒の匂いが充満し、あちこちでグラスを打ち鳴らす陽気な声が響いている。
テーブルの上に並べられたのは、香草で焼き上げた鳥肉と、濃厚なチーズのスープ。
コロがナイフで肉を切り分け、ウルが足元に置かれた大皿の骨付き肉に齧り付いていると、偶然隣のテーブルに座った、旅の行商人と思しき人間族の二人組の男たちの会話が耳に入ってきた。
「なあ、聞いたか?」
「何をだ?」
「あれだよ、ほれ。まーたアーカス連邦からの連中が、大量に奴隷商に引き渡されたらしいぜ?」
「ああ、ここ最近の密入国騒ぎだろ?アーカスじゃあ、『ブローカーに金を払えば、安全に通れるルートを案内してもらえる』ってのが専らの噂らしいが……」
男の一人が、ジョッキの酒を煽りながら鼻で笑う。
「そりゃ、ケツの毛まで毟り取ろうと画策してる連中が流してるデマだ。途中で身包み剥がされて奴隷落ちが関の山さ」
「全くだ。仮に運良く無事に街道まで出てこられたとしたって、この国の憲兵にとっ捕まって奴隷商行きか、動ける男は全員鉱山送りだ。端からこの国に楽園なんざ存在してないのさ」
「下手すりゃ、この国自身が奴隷とか鉱夫が欲しくて、たちの悪い連中と結託してわざと流してる噂じゃねえかって話もあるぜ」
行商人たちの口から語られるのは、この『約束の地』のどこまでも黒い裏の顔だった。
同胞を救うどころか、信仰につけ込んで安価な労働力を搾取するマッチポンプ。
それが事実であれば、昼間に見たあの檻の中の難民たちは、最初から破滅へと続くレールの上を歩かされていたことになる。
やがて、男たちは周囲を少し気にするように声を潜め、ヒソヒソと笑い合った。
「……しかし、大声では言えねえけどよ、そんな揉め事になるくらいなら、宗教なんざいらねえよな」
「言えてる言えてる。女神を信じた結果、滅茶苦茶不幸になってるじゃねえか」
「昔からな、他人を崇拝しすぎると、自由はどんどん遠ざかるって言われているのは知らんのかね」
「信じる女神様は、そんな現実的なお告げはしねえんだろうな」
「うはは!俺の実家の近所に住んでた口うるせえ偏屈ジジイの方がよっぽどためになる『お告げ』をしてくれるぜ?どういう輩が『美人局』か、ってな」
「俺はそのジジイの信徒になりてえな!」
「辞めとけ辞めとけ、日に何度も女の話ばかりしてきやがるぜ?」
「ボケてんのか?」
「あんな朝っぱらからガキをとっ捕まえて女についての講釈を垂れんだぞ?ボケてなかったらヤベえよ!」
クハハ、と皮肉げに笑い合う行商人たち。
その会話を耳の良いウルが聞き逃すはずもなく、骨付き肉から顔を上げると、喉の奥で『グルル』と低く唸った。
『……おい、コロ。お前の大好きな女神の悪口を言われているぞ』
ウルの指摘に、コロはスープを飲む手を止め、苦笑いで小さく肩を竦めた。
そして、どこまでも静かな、氷藍色の瞳を伏せてぽつりと溢す。
「いや、そのおじさんたちの言う事は概ね正しいよ」
『……正気か?』
「あれなんだよ。本当に信じたかったらね、他の誰かと共有しようなんて思わないことだね」
『共有?』
「うん。集団で同じものを信じようとするから、解釈の違いで争いが起きたり、誰かを利用しようとする輩が出てくるんだよ。本当に大切なものは、自分なりに、自分の中だけで信じていればいいんだ」
コロは小さく息を吐き、呆れたように天井を仰いだ。
「宗派の違いで迫害して、同じ宗派だからって騙して搾取する。……人類は、本当にため息が出ちゃいそう」
『フン。無闇矢鱈と女神に縋るからそうなるのだ』
「……ふふっ、そうだね」
実体なら、いつでもコロの夢の中で甘い香りを漂わせ、溺愛してくるというのに。
コロは一人密かに口角を上げると、冷めた人類への評価を飲み込むように、熱いチーズのスープを口に運んだ。
自由を奪われる崇拝も、救いのない信仰も、コロには無縁の話だ。
彼女の信仰は、誰とも共有しない、彼女だけのものなのだから。
酒場の喧騒の中、一人と一匹はただ気ままに、美味しい夕食の時間を楽しむのだった。
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