不法な越境者と、約束の地の檻 1 〜血塗られた獣道と、厄災の黒雷〜
1.
街道から遠く外れた、深い森の中。
頭上を覆い隠すほどの鬱蒼とした樹冠が太陽の光を遮り、湿った土と腐葉土の匂いが色濃く漂っている。
人が踏み入るための道などとうの昔に途絶え、剥き出しの木の根や棘のある茂みが、侵入者の行く手を阻むように群生していた。
朽ちた倒木には見たこともない毒々しい色のキノコが群生し、視界の端では正体不明の羽虫が不快な羽音を立てて飛び交っている。
そんな過酷な獣道を、氷藍色の瞳を持った獣人の少女であるコロと、魔狼のウルが、まるで裏庭を散歩するかのような気軽さで歩いていた。
「この辺りの国境沿いはね、隣のアーカス連邦からの難民が急増してるらしいよ」
コロは、顔の高さまであるシダの葉をパシリと払い除けながら、背後を歩くウルに淡々と話を振った。
『なるほどな。たしかに、この辺りを縄張りにしているヤツらは、そこまで強くはないようだ』
「ウルにとっては、ね」
『ちょっと腕の立つ人類が入れば、越境など容易そうではあるな』
ウルは退屈そうに喉の奥で低い音を鳴らし、巨大な前足で倒木を軽々と踏み越えた。
『現に、俺達がこの森に踏み入った途端、その貧弱な主どもは蜘蛛の子を散らすようにどこかへ散歩してしまったからな』
「そんなに長期間滞在するわけじゃないし、ちょっとだけ我慢してもらおうかな」
コロは悪びれもせず小さく肩を竦めた。
ウルの言う通り、本来であればこの深さの森には、人喰いの魔獣や凶暴な捕食者がうようよしているはずである。
しかし、ウルという『厄災級』の魔物が放つ圧倒的なプレッシャーを前に、生存本能に長けた現地の魔物たちは、一目散に縄張りを放棄して逃げ出していた。
結果として、現在この森は、不気味なほどに静まり返り、驚くほど安全な場所と化している。
小鳥の囀りはおろか、風に揺れる葉擦れの音すら、見えない巨大な圧力に押し潰されているかのようだ。
そんな『厄災』である張本人は、コロの隣を歩きながら、大きなあくびをしている。
やがて、斜面を少し下った先にある、ひらけた窪地に辿り着いた。
そこは湿気が溜まりやすく、苔生した岩肌の周囲に、コロがお目当てとしていた珍しい薬草が青々と群生していた。
「おっ、あったあった。『縄斑草』の群生地っていうのは本当だったみたいだね」
コロは背負っていた鞄を下ろすと、さっそく岩肌にしゃがみ込み、慣れた手つきで淡々と薬草の採取を始めた。
プチッ、プチッ、と小気味の良い音が森に響く。
千切られた茎の断面からは、僅かにツンとする薬草特有の清涼な香りが漂っていた。
一方のウルは、『ふぁぁぁぁぁ……っあ』と牙を剥き出しにして特大のあくびをひとつ零すと、コロのすぐ傍の平らな地面にドスンと巨体を横たえた。
絶対的な安全地帯となった森の中、ウルは心地よい土の冷たさを腹に感じながら、うつらうつらとうたた寝を始める。
コロの採取作業の音と、ウルの静かな寝息だけが、木漏れ日の落ちる窪地に満ちていた。
――それから、しばらくの時間が経過した頃。
『……む』
伏せていたウルの漆黒の耳が、ピクッと鋭く跳ねた。
同時に、閉じられていた金色の瞳が薄く開き、濡れたマズルがスンスンと微かな風の匂いを嗅ぎ取るように動く。
『……おい、コロ』
「ん?」
『人類がワラワラと来るぞ』
「んー、ワラワラ?」
『ああ、十や二十ではないな』
「どういう感じ?」
『どういうって……そうだな。訓練されたような輩でも、盗賊のような類でもないのが大半……といったところか』
ウルの低い警告の声。
だが、コロは岩肌に向かったまま、薬草を摘む手をピタリとも止めなかった。
「ふーん。そういう人類なら、息を潜めて静かにやり過ごそう。どうせ人類の索敵能力なんてたかが知れてるしね。私たちがこんな茂みの奥に隠れてるなんて気づかないよ」
コロのあまりにも危機感のない、というより『作業を中断する気がない』返答に、ウルは呆れたように鼻を鳴らした。
『……呆れた奴だ。いつも面倒事になるのを嫌がって、すぐに距離を置きたがるのはお前の方だろうが』
「だって、ここで見つかるのを警戒して一旦町に引き返したら、明日またここまで草を摘みに来なくちゃいけなくなるでしょ?そっちの方がよっぽど面倒だもん」
『……お前のその、変なところでの頑固さはどうにかならんのか』
コロは「ふふっ」と小さく笑うだけで、黙々と手を動かし続ける。
その瞳は、接近してくる人類への関心など微塵もなく、ただ目の前の良質な薬草だけを冷徹に見つめていた。
――ザッ、ザザッ。
やがて、斜面の上方から、不規則で重い足音が幾つも聞こえ始めた。
それは、訓練された兵士の行軍でも、慎重な狩人の足運びでもない。
木の根に躓き、茂みに衣服を引っかけながらも、這うようにして前へ進もうとする泥臭い音。
ただがむしゃらに、何かに追われるように、あるいは何かにすがりつくように森を彷徨う、統率の取れていない弱者たちの足音だった。
不規則な足音と、荒い息遣いは、コロたちが身を潜めている窪地のすぐ上方――斜面の獣道でピタリと止まった。
さすがのコロも薬草を摘む手を止め、鬱蒼と茂るシダの葉の奥で息を殺す。
隣に伏せているウルも、完全に気配を絶ってジッと耳を澄ませていた。
木々の隙間から見上げるような形で俯瞰できる獣道には、異様な集団が立ち止まっていた。
数十人の群れの大半は、ボロボロの衣服を身に纏い、土気色の顔で肩で息をする老人や女子供たち。
そして、彼らを庇うように外側を囲んでいる数人の痩せこけた男たちだ。
彼らを引率しているのは、薄汚れた革鎧に身を包み、帯刀した数人の屈強な男たち――どう見ても真っ当な案内人には見えない、悪辣な気配を漂わせるブローカーたちだった。
「……おい、どうして止まる!約束の国境はもうすぐなのだろう!?」
集団の中から、難民のリーダー格と思しき初老の男が、掠れた声で前に立つブローカーの男に問い詰めた。
ブローカーの男は振り返ると、下卑た笑みを浮かべて肩をすくめた。
「ああ、そうだ。この森を抜ければ、お前たちが夢見た「約束の地」だ。……だがな、ここから先は道が険しい。追加の案内料を払ってもらわねえとな」
「なんだと!?話が違うぞ!越境の案内料として、前金で一人あたり銀貨三十枚を払ったはずだ!」
「三十だと?ハハハッ!……寝言は寝て言え。ここまで案内してやったんだ、追加で銀貨八十枚だ。出せねえヤツは、ここで置いていく」
「は、八十!?そんな大金、もうどこにも……っ!!」
悲痛な叫びを上げる初老の男。
その後ろで、疲弊しきった女子供たちが絶望に顔を歪め、身を寄せ合って震え出す。
「……ふん。やっぱりもう金は絞れねえか。なら、荷物検査といくか。女たちを調べろ、金目の物を隠し持ってるかもしれねえ。若い女はそのままでも売り物になるしな」
ブローカーの男が顎でしゃくると、部下の男たちが下劣な笑い声を上げながら、難民の列へと歩み寄っていく。
「や、やめろ! 妻や娘に触るな!!」
「くそっ、この悪党どもめ!!」
難民の男たちが数人、家族を守るために素手でブローカーたちに飛びかかった。
だが、結果はあまりにも一方的なものだった。
――ドゴッ!ズバァッ!
「ぐあぁっ!?」
「ひぃぃぃっ!あなたぁっ!!」
長旅と飢えで痩せ細った難民の男たちが、武装したブローカーの暴力に敵うはずもない。
抜かれた刃が容赦なく男たちの身体を切り裂き、鈍器が骨を砕く。
飛びかかった男たちはあっという間に血の海に沈み、痙攣しながら物言わぬ肉塊へと変わっていった。
絶叫と悲鳴が、静寂に包まれていた森に虚しく響き渡る。
その凄惨な一部始終を、コロとウルは斜面の下の茂みから、まるで舞台劇でも見るかのように冷ややかに傍観していた。
「……なるほど。なけなしの厳選した荷物を持っているわけだからね。こうやって身ぐるみ剥がされるわけだ。密入国斡旋業者の手口としてはオーソドックスだね。後に引けなくなったら追加請求」
『清々しい気持ちにすらさせるクズだな』
「人類らしいよ、本当」
血の匂いが漂ってくるのを感じながら、コロはウルは淡々と呟いた。
『こんな、鼻がひん曲がりそうな腐臭を漂わせている人類を、よくもまあ信じ込んで大金を渡せるものだ。奴らの目は節穴か?』
ウルが呆れ果てたように鼻を鳴らす。
その鼻息で、鼻先の小さな花がひらりと揺れる。
ウルの鋭い嗅覚からすれば、あのブローカーたちが放つ悪意と強欲の匂いなど、遠くからでも一瞬で嗅ぎ分けられるレベルの異臭なのだろう。
しかしコロは小さく肩を竦めながら口を開いた。
「切羽詰まって、見極める余裕すらなかったんだよ」
『余裕がなかった?』
「うん。ああいう分かりやすい輩に全財産を払って、違法に越境するリスクを負ってでも逃げ出さなきゃいけないくらい……そっちのアーカス連邦での迫害が酷いんじゃないかな」
『フン。だからといって、あんな下劣な輩に命を預けるのはただの愚行だ。弱肉強食の理からすれば、喰われて当然だな』
上層では、邪魔な男たちを排除したブローカーたちが、泣き叫ぶ女子供たちの荷物を乱暴に漁り、金目の物を奪い取っていく音が聞こえ続けている。
「……まあ、私たちには関係のない話だけどね」
『そうだな、こんなところであのような弱い人類を押し付けられたら敵わん』
「さ、見つからないうちに、静かに採取の続きを――」
コロが再び岩肌の『縄斑草』へ向き直ろうとした、その時だった。
『――おい!お前ら、そこで何をしている!!』
頭上から、鋭い怒声が降ってきた。
コロとウルが静かに見上げると、斜面の上からブローカーの男の一人が、鬱蒼としたシダの葉の隙間に佇むコロの姿を指差していた。
この状況で用を足そうとズボンを降ろしていた間抜けなブローカーの一人に見つかってしまったようだ。
しかし、その事実に対してもコロは特に慌てる様子はない。
『……それ見たことか。ひどく面倒な事になったぞ』
「あのままおしっこを掛けられるよりはマシでしょ」
『フン。その前に小便ごと消し炭にしてやる』
「ふふ、怖い怖い。さてと――」
ウルは立ち上がりもせず、ただニヤリと凶悪な笑みを浮かべて鼻を鳴らした。
コロはやれやれと言わんばかりに小さく肩を竦めると、膝の土を払いながらゆっくりと立ち上がった。
「見てわからない?薬草採取をしに来ているんだよ。採取家を見るのは初めてかな」
一切の動揺も恐れもない、あっけらかんとした声と、シャキンと小気味良い鋏の刃がこすれ合う音が森に響く。
斜面を滑り降りてきた数人のブローカーたちは、武器を構えたままコロとウルを取り囲むように距離を詰めてきた。
その顔には、隠しきれない下卑た笑みがべったりと張り付いている。
「へえ、こんな森の奥に上玉が隠れてたとはな。獣人のガキは殊更金になるんだよ」
「そっちのデカい狼の毛皮と角も、相当な値打ちがつきそうだぜ」
品定めするような男たちの視線と下劣な言葉。
それでもウルはやれやれと深い溜息をつき、伏せたまま退屈そうに欠伸を噛み殺すなど、どこまでも余裕の態度を崩さなかった。
強者が弱者の戯言を遠くで聞き流している、まさにそのものだ。
だが、ブローカーの一人が放った『次の一言』が、森の空気を一変させた。
「なぁ、売り払う前に俺が金を払うからよ……その獣人のガキを、先に俺が『味見』してもいいか?ムラムラして収まりがつかねえんだよ」
ニタニタと歪んだ欲情の目をコロに向ける男。
――その瞬間だった。
――カッ!!
世界から一切の色彩が消し飛ぶほどの、圧倒的な閃光。
漆黒の雷撃がウルの双角から迸り、無数の枝分かれを描きながら、斜面の下にいたブローカーたち『だけ』を正確無比に呑み込んだ。
遅れて、大気を引き裂くような轟々たる破裂音が森を震わせる。
悲鳴を上げる暇すら与えられない。
ほんの数秒前まで下卑た笑いを浮かべていた男たちは、刃を向ける間もなく一瞬にして炭化し、肉体を維持することすらできずに崩れ落ちた。
――サァァァ……。
焦げ臭い突風が吹き抜け、さっきまで肉体だったはずの灰が、サラサラと風に乗ってどこかへ運ばれていく。
後に残ったのは、黒焦げになった大地と、森の異様な静寂だけだ。
ゆっくりと立ち上がったウルの全身の毛は逆立ち、二本の双角にはいまだバチバチと怒りの余韻である黒雷が纏わりついている。
その絶対的な暴力の顕現を前に、コロは全く怯えることなく、むしろはにかむような笑みを浮かべた。
静かに膝をつき、まだ電気が爆ぜるウルの太い首元へと、愛おしそうにそっと抱きつく。
『……つい、な』
コロの温もりと銀髪の柔らかさを感じながら、ウルは気まずそうに視線を逸らし、ポツリと言い訳のように溢した。
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