潮流の拾得物と、届かない祈り 2 〜絶対的な孤独と、女神の微睡み〜
2.
日が沈みかけ、空が濃密な紫と橙の混じり合った色に染まる頃。
コロとウルは、再び昼間の砂浜へと戻ってきていた。 寄せては返す波の音は昼間よりも高く響き、どこか寂しげな潮風が砂丘を撫でていく。
『……ふぁぁぁぁぁ……っあ』
本日何度目か分からないウルの大あくびが、夕暮れの空に溶けていく。
コロは平らな岩に腰掛け、酒場で回収した曇り硝子の瓶から古い羊皮紙を取り出すと、夕日に透かして静かにその文字を追っていた。
夕日を吸い込んだ分厚い鉛ガラスは、まるで燃え尽きる寸前の炭火のように、内側から赤黒く鈍い光を放っている。
潮風でパリパリに乾燥した羊皮紙の上を、等間隔の波の音だけが優しく撫でていった。
『読み終えたらどうするんだ?』
「……どうするって?」
『あれだ、また海に返すのか?』
「また蝋で固めるのなんて、お金の無駄だよ」
『じゃあどうするんだ』
「どうしようかな。この瓶は雑貨屋なんかで案外高値で売れるかもしれないね」
「お嬢ちゃん。やはりそれが読めるようだな」
不意に、背後の砂を踏む音がして、しゃがれた声が掛けられた。
コロとウルが振り返ると、そこには酒場にいた元行商人の老人――ロブ爺さんが、潮風に目を細めながら立っていた。
夕日を背に受けて長く伸びた影。
深く刻まれた顔の皺は長年の過酷な旅を物語っているが、細められた眼光だけが、熟練の狩人のように鋭い光を宿している。
「……どうしてそう思うの?」
コロが淡々と問い返すと、ロブ爺さんは皺だらけの顔を綻ばせ、岩の傍らにどっこいしょと腰を下ろした。
「酒場でのお嬢ちゃんの目の動きさ」
「目の動き……?」
「ああ、ただの模様として眺めているんじゃねえ、明らかに『文章として』情報を読み取っているヤツの目の動きだった。……長年、言葉も通じねえような異国の商人たちと渡り合ってきたからな。そういう微かな仕草には、ちっとばかし敏感なのさ」
コロは小さく息を吐き、手元の羊皮紙をパタンと膝に置いた。
「なるほどね。……こんな見た目の少女が、大陸から遠く離れた西アリア語を読めるなんて、お嬢ちゃん一体何者だ?って聞きたいのかな」
氷藍色の瞳で真っ直ぐに見透かすように尋ねるコロ。
だが、ロブ爺さんは首を振って、くつくつと喉の奥で笑った。
「ははは、まさか!長生きの秘訣はな、余計な好奇心を持たないことだ。世の中には、理屈じゃ測れねえもんが幾らでも転がってるってことを、俺は行商の旅で嫌というほど学んでるんでね」
「……賢明だね。お爺さんは」
「へへ、伊達に歳は食ってねえよ。ただ……」
ロブ爺さんは、コロの膝の上にある羊皮紙へと視線を落とした。
「俺の知らねえ『地の果て』で、一体何が起きてるのか。手紙になんて書いてあったのか……俺にも、ゆっくり読ませてくれねえか」
コロは少しだけ考える素振りを見せた後、「いいよ」と短く応え、あっさりと羊皮紙をロブ爺さんに差し出した。
「おっ、すまねえな」
老眼鏡をかけ直したロブ爺さんは、震える手で羊皮紙を受け取ると、沈みゆく夕日の光を頼りに、その難解な西アリア語の文字列を、記憶の底にある単語と結びつけながらゆっくりと拾い読みし始めた。
「……ふむ。まずは……『魔物も、人を襲う猛獣もいない』……『一年中が夏のようで、果物や野菜も豊富にある』……ほう」
そこまで読んで、ロブ爺さんは驚いたように顔を上げた。
「こりゃあ、たまげた。毎日生きるか死ぬかの海に漕ぎ出してる俺たちからすりゃ、誰もが憧れるような『楽園』そのものじゃねえか。……だが」
「うん。問題はその続きだよ」
コロに促され、ロブ爺さんは再び文字に目を落とす。
その声のトーンが、次第に重く、沈痛なものへと変わっていった。
「……『だが、見渡す限りの水平線で、一度も舟の姿を見たことがない』……『誰の助けも来ない』……『帰りたい。これを読んだら、どうか助けに来てほしい』……」
ロブ爺さんの手が止まり、静かに羊皮紙が降ろされた。
波の音だけが、二人の間に重く横たわっている。
太陽が水平線の半分を沈め、空の赤みが急速に夜の蒼へと浸食されていく。
足元まで押し寄せては引いていく潮騒が、先ほどよりもずっと冷たく響く。
それは、絶海の孤島に囚われた男が、何千日も聞き続けたであろう『絶対的な孤独』の音そのものだった。
「……なるほどな。腹は満たされても、誰の目にも触れず、ただ一人で朽ちていくのを待つだけの場所か。……そりゃあ、楽園って名前の『地獄』だ」
「この世界で、魔物も猛獣もいない安全な場所なんて、極端な高山か、絶対に外敵が辿り着けない絶海の孤島くらいしかないからね。理の厳しいこの世界で、そこは『誰からも見つからないこと』で成立している箱庭なんだよ」
コロの言葉に、ロブ爺さんは深々と頷き、懐から煙草を取り出して火をつけた。
「……酒場の連中に、この手紙の本当の意味を教えなかったのは、正解だったな」
「教えても意味がないよ。こんな海域の漁船じゃ、座標も分からない絶海の孤島なんて探しに行けるわけない」
「違いねえな。この馬鹿みてえにだだっ広い中央オルタナ海の、どこを探しゃ良いのか皆目見当がつかん」
「中央オルタナ海ならまだいいよ。南北アスバス大陸の向こう側の海から流れてきている可能性だってあるしね」
コロが提示した極めて現実的な可能性に、ロブ爺さんはカラカラと笑い声を上げた。
「ははは!助けに行けるのは女神様くれえなもんだ。だが、女神様は俺達『塵芥』の一粒一粒なんざ見てられねえと来た」
「うん。助けに行ける算段なんて、最初からどこにも存在しないね」
紫煙を吐き出しながら、ロブ爺さんは悲しげに水平線を見つめた。
口から細く吐き出された煙が、夜風に攫われて海の方へと流れていく。
「ああ。どう足掻いても助けられねえ悲劇ってのは、知らねえ方が幸せな時もある。……連中は今頃、この手紙の主が、綺麗な姫君や財宝の持ち主だと信じたまま、気楽に酒を飲んでるだろうよ。……あの馬鹿騒ぎの裏で、こんな残酷な声が波間を漂っていたとはな」
ロブ爺さんの吐き出した煙は、まるで、決して届くことのない誰かの祈りのように、暗い波間へと溶けて消えた。
その夜。
村で唯一の、潮の匂いが染み付いた粗末な宿屋の1階。
コロとウルが夕食の焼き魚と干し肉をつついている周囲では、昼間以上の異様な熱気が渦巻いていた。
「よーし、俺は『王都の金持ちの未亡人が迎えに来てくれますように』だ!」
「うはは!馬鹿だねえ、お前は!」
「お?なんだよ!じゃあお前はなんて書いたんだよ?」
「ん、俺か?俺なんか『網を引き上げたら黄金の魚が掛かってますように』って書いたぜ!」
「分かった!うん、お前、馬鹿だな!」
「金持ちの未亡人よりはよっぽど現実的だろうが!」
「ほれほれ!よーし、お前ら!蝋でしっかり蓋をしとけよ?水が入ったら願いが滲んじまうからな!明日、海に出たらドボドボ流すからな!」
酒場のテーブルのあちこちで、漁師や村人たちが貴重な紙の切れ端に下手くそな字で自分勝手な願いを書き殴り、空き瓶に詰め込んではゲラゲラと笑い合っている。
届くはずもない遠い海のかなたへ、自分たちの「退屈な日常」をひっくり返してくれる奇跡を丸投げする。
それは、海の恐ろしさを知っているはずの彼らにとって、あまりにも滑稽で無責任な『宴』だった。
ウルは骨ごと魚を噛み砕きながら、呆れたように鼻を鳴らした。
『……馬鹿な奴らだ。あんな紙切れを海に投げ込んだところで、何が叶うというのだ』
「まあ、お祭りみたいなものだよ。退屈な毎日に、ちょっとした『期待』っていうスパイスを振りかけてるだけ」
『期待もクソもあるか。あれを拾ったヤツはなんと反応すればいい?』
「深い溜息を吐いて、そのまま浜辺にポイって捨てるだけだよ」
コロは淡々と魚の身をほぐしながら、熱狂する村人たちを氷藍色の瞳で冷ややかに見つめた。
「でも、どうせやるならもう少し頭を使えばいいのにね」
『ん?あんな馬鹿な行為、頭を使ってどうなるというのだ?』
「あの瓶、漁場からポイって投げるつもりみたいだけど。……この季節の夜の海は、陸に向かって風が吹いてるし、潮も満ちてきている。よっぽど船で沖合の海流に乗せに行かない限り、明日の朝にはすぐそこの浜辺に全部打ち上げられるよ」
身も蓋もない、完全な物理法則の宣告。
コロの言葉を聞いたウルは、思わず「グルル」と喉の奥で皮肉めいた笑いを漏らした。
『明日の朝、自分たちの欲望が書かれたゴミを、自分たちで拾い集める羽目になるわけか。そりゃあ傑作だな』
「しかも、紙もガラス瓶も、こういう片田舎じゃタダじゃないからね。彼ら、数日分の稼ぎを文字通りドブ、じゃなくて海に捨ててるんだよ。……そんなお金があったら、もっと良い釣り針を買うとか、美味しいものを食べた方がよっぽど建設的なのに」
「奇跡」に酔いしれる大人たちを、子供の姿をした少女が「不経済」と切り捨てる。
彼女にとって、海は願いを叶えてくれるロマンの揺り籠ではなく、ただの巨大な塩水の塊であり、命を奪う無慈悲な自然現象でしかない。
「それにしても……」
コロは窓の外、暗い海の方へと視線を移した。
「ああやって『誰かの助けを待つだけのゴミ』が浜辺に溢れかえったら、本当に助けを求めている遠い国からの悲鳴も、一緒に埋もれて見えなくなっちゃうね」
『……気にするのか?』
「ううん。どうせ誰も助けに行けないんだから、同じことだけどね。ただ、ちょっと皮肉だなって思っただけ」
コロは最後の一口を飲み込むと、温くなった水を口に含んだ。
宿の喧騒は夜が更けても一向に収まる気配を見せず、村人たちの空虚な願いだけが、安酒の匂いと共に部屋の中に充満し続けていた。
※ ※ ※
その夜。
潮の匂いが染み付いた粗末な宿のベッドの上で、コロは深い微睡みの中へと落ちていった。
――ふわり、と。
生臭い現実の空気から一転して、鼻腔をくすぐるような甘く清らかな香りがコロを包み込む。
気がつけばコロは、真っ白な空間で女神の温かい腕の中にいた。
「おかえりなさい、私の愛おしいコロ」
「ただいま、女神様。今日ね、海で『届かない福音』を拾ったよ」
「ええ、見ていたわ」
女神の腕の中で、胸元に顔を擦り付けるようにして甘えるコロ。
日中の騒がしい漁師たちの声や、波の音など、ここには一切届かない。
そこには、ただただ絶対的な平穏と、両腕でも抱えきれない程の愛だけが存在している。
女神は微笑みを浮かべたまま、コロの背中をトントンと優しく叩いている。
「……絶海の孤島で安全を手に入れた人は、誰にも見つけてもらえない孤独の中で、深く絶望していたみたい」
「そうね。絶対の安全とは、世界からの断絶を意味するものよ。人類はね、何かを得るための『等価交換』という理をすぐに忘れてしまう」
「いや、その人はね、新天地を目指したわけじゃなくて、乗っていた船が難破して漂流したって書いてあったよ」
「あら?ふふ、そうだったのね」
女神は愛おしそうにコロの銀髪を撫でながら、クスクスと楽しげに笑い声を立てた。
「安全な場所で退屈してる下の階のおじさんたちも、海に願いを書いたゴミを投げて、都合のいい奇跡を待ってる」
「ふふ!ええ。自分たちで海図のない暗い海へ漕ぎ出す勇気もないくせに、波が都合よく奇跡を運んできてくれると信じているのね」
「うん。暫くしたらきっと自分たちの村の近くの浜辺に流れ着くだけだと思うけどね」
女神の胸にぴったりと頬をくっつけたまま、コロは言葉を継いだ。
「……助けを求めていた人も、奇跡が起きて声が届いたけど、結局、物理的に助けに行けないんじゃ意味がないね」
「ふふ……。でもね、コロ」
女神はコロの頬をそっと撫で、その氷藍色の瞳をじっと見つめた。
コロもジッと女神の黒い瞳を見つめている。
「あなたは、あの広大で無慈悲な海の『本当の冷たさ』をちゃんと理解しているわ」
「うん」
「……奇跡やロマンという甘い毒に酔いしれる哀れな子羊たちと違って、私のコロは、この生々しく厳しい世界を自分の足で、真っ直ぐに歩いているのね。なんて愛おしくて、誇らしいのかしら」
「凄く嬉しいけど、当たり前のことを言っていただけだよ?」
「ふふ、いいのよ。……ただ、少しだけ、本当に少しだけ……」
女神の甘い声の奥底に、ほんの微かな、だが絶対的な冷酷さが滲む。
「現実の海は、あの子羊たちの『身勝手な願い事』を遠くの楽園へ届けてあげるほど、優しくも甘くもないわ。……明日の朝、足元に打ち上げられた自分たちの欲望の残骸を見て、少しは現実という理を思い知ることになるでしょうね」
女神の底知れない微笑みに包まれながら、コロは再び温かい眠りの中へと溶けていった。
地の果ての楽園で、名もなき男がたった一人で朽ち果てようと。
愚かな村人たちが明日の朝、浜辺で自分たちの書いたゴミを拾い集める羽目になろうと。
それは、ただ気ままな旅を続けるコロにとっても、愛おしいコロを慈しむ女神にとっても、本当に知ったことではない。
面白かったという方はブックマークや☆を頂けますと幸いです。




