潮流の拾得物と、届かない祈り 1 〜波打ち際の拾得物と、無責任な熱狂〜
1.
空と海が溶け合う水平線は、どこまでも平坦で、刺すような日差しを反射して白く煙っている。
中央オルタナ海の豊かな蒼を、そのまま薄めて流し込んだようなエメラルドグリーンの浅瀬。
それが砂浜に打ち寄せるたび、白い飛沫がレースのような網目模様を描いては、湿った砂の奥へと静かに吸い込まれていった。
潮騒の音だけが支配するこの静かな海岸線で、コロは波打ち際から少し離れた砂丘の縁に跪いていた。
「……よし。ここの個体は魔力の蓄積も安定してる。塩害での壊死もなし、と」
彼女の小さな指先が、砂の中から力強く芽吹いた銀緑色の植物――『塩醒草』の肉厚な葉を検分する。
過酷な塩分をあえて取り込み、結晶化させて自らの鎧とするその薬草は、太陽の光を浴びて、まるで砕いた宝石を散りばめたような鈍い輝きを放っていた。
コロは手慣れた手つきで、根を傷めぬよう砂を払い、最も薬効が凝縮された中心部だけを「採取」という名の定期点検のように、淡々と刈り取っていく。
微かに漂う、磯の香りと、薬草の持つ青臭い苦味。
指先に付着した砂のざらつきと、湿った熱気を含んだ海風が、コロの短い髪を絶え間なく揺らしていた。
一方、その数歩後ろでは、銀色の毛並みを誇る巨大な魔狼・ウルが、すっかり熱を帯びた平らな岩の上で無造作に寝そべっていた。
『……ふぁぁぁぁぁ……っあ』
顎が外れんばかりの、長い、長い大あくび。
むき出しになった鋭い牙と、喉の奥から漏れる「キュゥ」という退屈そうな鳴き声が、打ち寄せる波の音に混じって消えていく。
ウルにとって、海岸での採取の時間は、退屈を絵に描いたような苦行に等しかった。
獲物の気配は皆無、獲物を追うわけでもなく、死線を潜るわけでもない。
ただひたすらに、動かない草を相手に正確な作業を繰り返すコロの背中を、ウルは半開きの黄金色の瞳で、恨めしそうに眺めている。
『お前が釣りの腕にも自信があればな……』
尻尾を一本の鞭のように気怠げに振り、砂浜に落ちた小さな流木を弾き飛ばす。
「ウルの気配に怯えて、魚も魔物も近寄ってこないからだよ」
『馬鹿言え、人のせいにするな』
「そっちこそ私の腕のせいにしないでよ」
『なんだ、随分と釣りに自信がありそうな口ぶりだな』
「やっている人を何度も見ているからね。ウルがいるから釣れないんだと思う」
『呆れた。やはりお前の腕の問題ではないか』
「あんな糸を垂らしているだけの行為に、腕も何もないよ……きっと」
『フン。はぁ、新鮮な魚が次々に釣れるなら、海岸も悪くないのだがな……』
「はいはい。さてと、次は……」
コロが次の株へと静かに移動するたび、ウルは溜息を吐くように重い身体を動かし、より快適な「昼寝の場所」を探しては、またドサリと砂の上に身を投げ出すのだった。
そんな、ある意味では平和すぎて毒気のない空気が流れる海岸線。
ウルの鼻先を、ふわりと通り抜けたのは、海藻の腐った臭いでも、魚の死骸の匂いでもなかった。
微かに混じる、煤けた蝋の匂いと、古い硝子の冷たい感触の予感。
ウルは耳をピクリと動かし、波打ち際の澱みに視線を向けた。
そこには、長年の漂流で角が取れ、曇り硝子のようになった一本の古い瓶が、絡みついた海藻に抱かれるようにして、ひっそりと横たわっていた。
『……おい。なんだ、あれは』
「ん?」
ウルが鼻先で指し示した波打ち際。
コロが歩み寄り、絡みついた海藻と濡れた砂を払い落とすと、それは鈍く光る一本のガラス瓶だった。
『フン。ゴミか』
分厚いコルクの栓は、上から赤黒い蝋で何重にも塗り固められており、完全に密閉されている。
コロが瓶を拾い上げ、刺すような太陽の光に透かしてみると、曇った硝子の向こう側に、くるくると丸められた古い羊皮紙のようなものが見えた。
「いや、ゴミじゃなさそうだよ。ほら」
『ほう、手紙……か?物好きもいるものだな。開けてみるか?』
「ううん、開けないよ」
『開けないのか?』
「だって、これは私の仕事の範疇じゃないからね」
『仕事ではないだろうが……』
「もしこれで、どこぞの貴族のさ、とんでもない重大な機密事項とかが書いていたらどうするの」
コロは興味なさそうに視線を外すと、濡れた瓶を乱雑に鞄の隙間へと押し込んだ。
「これはただの『拾得物』として、街の衛兵か村長に届けて処理を任せよう。中身が呪いでも宝の地図でも、私には関係ないことだからね。……さ、今日のノルマは終わり。報酬をもらいに村へ行こうか」
『やっと移動か。砂が毛に纏わりついて敵わん……』
その場でブルブルと毛にくっついた砂を飛ばすウル。
コロにとって、見知らぬ誰かの想いや秘密など、足元に落ちている石ころと何ら変わらない価値の無いもののようだ。
「さてと。それじゃあ、この辺りを仕切ってる村の詰め所まで歩こうか」
コロは薬草で膨らんだ鞄と、冷たい硝子瓶の重みを感じながら、海沿いのなだらかな丘へと足を踏み出した。
丘を一つ越えると、すり鉢状の入り江にへばりつくようにして建ち並ぶ、小さな漁村の全貌が見えてきた。
潮風に晒されてひび割れた木造の家々が、肩を寄せ合うように密集している。
村の至る所には、干物を作るための網や、修繕待ちの古びた漁具が無造作に広げられており、むせ返るような魚の匂いとタールの臭いが空気にねっとりと絡みついていた。
「……何もない村だね」
『ああ。活気というものが微塵も感じられん』
コロとウルが村のメインストリート――といっても、荷車がすれ違うのがやっとの未舗装の土道――を歩いていても、すれ違う村人たちの反応は薄い。
巨大なアッシュウルフを連れた幼い少女という、どこからどう見ても異質な組み合わせであるにもかかわらず、日陰で網を編む老婆も、家の前で貝殻を弄る子供も、ただ気怠げな視線を向けるだけで、声をかけてくる者は一人もいない。
「みんな、目に光がないね。毎日毎日、同じ時間に起きて、同じ海に網を下ろして、同じ魚を食べるだけ……。刺激なんて何もない、完全な『凪』の生活なんだろうね」
『……俺はご免だ。獲物を探す喜びすら奪われたら、獣は死んだも同然だ』
「まあ、安全第一って考え方もあるよ。でも、こういう『何もない場所』に住んでる人たちほど、心のどこかでは、とんでもない非日常が空から降ってくるのを期待してたりするんだけどね」
『いざ非日常が降ってきたら、哀れに思えるほどに慌てふためくくせにな』
「人類はそういう生き物だからね。なにもここの人たちだけってわけじゃないよ」
コロは氷藍色の瞳で、古ぼけた看板がぶら下がる一軒の建物を真っ直ぐに見据えた。
周囲の家屋より一回り大きく、村の兵士の詰め所と、安酒を飲ませる酒場を兼ねたその建物からは、昼間からだらしない笑い声とエールの酸っぱい匂いが漏れ出している。
「着いた。ここで薬草の検収と、この『ゴミ』の押し付けだね」
『こんな昼間から呑気に酒盛りか?フン。見上げたものだな』
「いやいや、漁師なんてそんなもんじゃない?その代わり、日が明けきる前から働いているはずだよ」
コロは鞄の奥で転がるガラス瓶の感触を確かめると、重い木扉をギイッと押し開けた。
漁村の小さな兵士詰め所兼、酒場。
「おいおい!そりゃあ『流れ瓶』ってやつじゃないか!?」
コロが窓口の兵士に拾得物として瓶を差し出した瞬間、退屈そうに真昼間からエールを飲んでいた漁師や村人たちが、血相を変えてワッと群がってきた。
「見せろ見せろ!うおっ、すげえ年代物だぞ!」
「こりゃあ間違いない、伝説の海賊が残した隠し財宝の地図だ!」
「この辺りの海域には昔からそういう噂があったんだよな!」
「馬鹿野郎、遠い国の姫君からの救難信号かもしれねえだろ!助けに行けば、俺も晴れて王族の仲間入りって寸法よ!」
日々の単調な漁と、代わり映えのしない潮の匂い。
そんな彼らの「退屈な日常」の隙間に転がり込んできた『見知らぬ瓶』という名の異物は、またたく間に村人たちの脳内で都合の良い『空想』へと変換され、むせ返るような熱狂を生み出していた。
「よーし、俺が開けてやる!」
「慎重にな?地図がビリーっと破れちまったら元も子もねえからな?」
「うるせえ!よし、行くぞ……!」
村で一番腕っぷしの強そうな若い漁師が、ナイフの先でカリカリと慎重に蝋を削り落とす。
ポンッ、と小気味良い音を立ててコルク栓が抜けると、周囲の村人たちは固唾を呑んで、瓶の中から引き出された丸まった紙片を見つめた。
「さあ、見せてみろ!どこに財宝が眠ってるんだ!」
「どこの姫君からの救難信号だ?こっちはいつだって船を出すぜ!」
期待に目を血走らせた漁師が紙を広げ、酒場のテーブルに叩きつける。
だが――次の瞬間、酒場を包んでいた熱狂は、水を打ったようにピタリと止まった。
「……なんだぁ?こりゃあ……」
広げられた紙にびっしりと書き込まれていたのは、彼らが期待したような宝の地図でも、美しい姫の署名でもなかった。
うねるような曲線と、見たこともない鋭角な記号の羅列。
それは、この辺りの海域はおろか、大陸共通語の欠片すら含まれていない、完全に未知の言語のようだった。
「なんだよこれ……読めねえぞ。古代の暗号か?」
「おい、読めるやつ居ねえのかよ!」
「俺達の知ってる大陸共通語と丸っきり違うじゃねえか。そもそも本当に意味のある文字か?」
「ちぇっ、なんだ。がっかりさせやがって。やっぱりただのゴミじゃねえか」
自分たちの『空想』を裏付ける証拠が出なかった途端、村人たちの態度は手のひらを返したように急速に冷めていく。
「……古代の暗号なんかじゃないよ」
不満げに散開しようとする村人たちの背中に、コロの淡々とした声が響いた。
彼女はテーブルの上の紙片と、空になった瓶を氷藍色の瞳で一瞥すると、まるで薬草の品質を鑑定するかのように無機質に告げた。
「その瓶の硝子、遥か南方の気候で精製された鉛ガラスだね。それに、その紙も葦の繊維を漉いたものじゃないかな」
コロの言葉を受け、酒場がしんと静まり返る。
「ロブ爺さん!アンタ、あちこちを旅した行商人だったろ?」
「そうだよ!爺さん、この嬢ちゃんの言ってたのは本当か?」
促されて、酒場の隅で静かに酒を煽っていた老人が、震える手で眼鏡をかけ直し、重い腰を上げた。
ロブと呼ばれた老人は、テーブルの上の瓶を指先でなぞり、次に紙片を光に透かしてまじまじと見つめる。
やがて、彼は深い溜息とともに、首を横に振った。
「……ああ。その嬢ちゃんの言う通りだ。この滑らかな手触りと、微かに青みがかった透明度……これは南方の海を越えた先、『常夏の島々』で精製される特級の鉛ガラスだ。それにこの紙の質感……間違いねえ、乾燥帯に自生する葦を漉いたもんだな」
「その『常夏の島々』ってのは、俺達の船だと何日かかるんだよ」
「阿呆か、百人以上は乗れるようなガレオン船でも数カ月はかかるぞ」
そんなロブの言葉に、酒場の空気は益々白けていく。
「海流の巡りを考えれば、そんなもんじゃ済まねえかもしれんな。……少なくとも、俺たちが一生かけても辿り着けねえような、『地の果て』から流れてきたもんだな」
しん、と酒場が静まり返る。
先ほどまで「宝の地図」や「救難信号」に目を輝かせていた漁師たちの顔から、急速に熱が引いていった。
「……地の果て、か」
「そんな遠くの話じゃ、俺たちには関係ねえな」
「ああ、がっかりだ。そんな遠くから流れてくるなんて、ただのゴミと変わらねえ」
自分たちの『空想』が、自分たちの手の届かない、あまりにも遠い現実であることを突きつけられた途端、村人たちは現金なもので、瓶と紙片を路傍の石ころのように扱い始めた。
「ほら、さっさとどかせよ。酒の邪魔だ」
誰かの無遠慮な手が、テーブルの上の紙片を乱雑に弾き飛ばす。
ひらひらと床に落ちそうになった古い紙片を、コロは無言で手を伸ばして空中で掴み取った。
氷藍色の瞳で冷ややかに酒場の様子を見渡しながら、コロは掴んだ紙片をくるくると丸め、再び青みがかった鉛ガラスの瓶の中へと戻す。
そして、分厚いコルクでしっかりと栓をした。
「……誰も要らないなら、もらっていくよ」
誰に言うともなく呟き、その『地の果てからの手紙』を自分の鞄の奥へとしまい込む。
コロは窓口で薬草の報酬が入った小袋を受け取ると、そのまま静かに店を後にした。
背後からは、海の向こうの真実から完全に目を背け、自分たちの退屈を慰めるように「俺たちも瓶に願いを書いて流そうぜ!」という、新たな、そして空虚な熱狂が湧き上がるのが聞こえていた。
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