芳香の裏庭と、色街の熱病 3 〜洗脳の魔法と、何者でもない旅人〜
3.
――グチャッ、バキィッ。
薄暗い森の奥底に、生肉を食いちぎり、太い骨を噛み砕く生々しい音が響き渡っていた。
先ほどまでリコを絶望の淵に突き落としていたグレートウルフとその群れは、すっかり闘争心を忘れ、コロが持ち込んだ豚や羊の半身に夢中で齧り付いている。
そんなおぞましい光景を背景に、一人と一匹、そして一人の青年が、獣道の傍らで静かにしゃがみ込んでいた。
「うん、白影草が百二十本に、竜胆の根が五十本。あとは泥這い苔と腐葉土のシダ……これだけあれば十分だね」
コロは敷いた布の上に、森から刈り取ってきたばかりの大量の薬草を並べ、淡々と最終確認を行っていた。
その対面で手伝いをしているリコの顔からは、すっかり先ほどのヒステリックな敵対心は消え失せ、ただただ深い『畏怖』と『呆然』の色が浮かんでいた。
リコが言葉を失っているのは、コロがテイムスキルも使わずに魔物の協力を仰いだことだけが理由ではない。
目の前に積まれた薬草の、一本一本の『品質』があり得ないほど高かったからだ。
リコの手元にある白影草は、どれも教本の図鑑に『最高特級品とはどんなものか』として載せたくなるほどの美しい仕上がりだった。
オーソンヌ王立学院の植物学全過程を首席で卒業したリコであれば、時間をかけて一本を丁寧に採取しろと言われれば、これと同じ品質を出すことは理論上可能だ。
だが、薄暗く足場の悪い森の中で、周囲を警戒しながら、これほどの数を『百発百中』で最高品質のまま刈り取るなど、人類の集中力と体力が持つはずがない。
しかもコロは、採取の道中でリコが思わず口にした「なぜその角度で刃を入れるんだ?」といった疑問に対し、「切り口を斜めにすると、植物自身の樹液で傷が早く塞がって魔力が漏れないからだよ」と、目から鱗の、それでいて完璧に筋の通った答えを即答してみせたのだ。
「……僕を殺して、後釜に座るつもりだろう、なんて……」
リコは手元の美しい薬草を見つめながら、自嘲気味にポツリと呟いた。
「こんなの……狙うわけがないよな。こんな腕があれば、どこにいたって……」
己の浅はかさと、ちっぽけなプライドを底の底まで恥じ入るリコ。
そんな彼の感情の揺れなど全く気にする様子もなく、確認を終えたコロは「んーっ」と両腕を上げて大きく伸びをした。
「大収穫だね。やっぱり薬草採取ってすごくお金になるからね。誰かの下について、定額の給料で働くなんて非効率だよ」
「…………なぁ、君は」
リコは、たまらず顔を上げた。
どうしても聞かずにはいられなかったのだ。
「なぜ……なぜそこまで深い知識があり、採取の腕も一流なんだ?どんな崇高な師に教えを乞い、どれほどの献身をもって学べば、そこまでの高みに到達できるんだ?」
王立学院での数年間、血の滲むような座学と実習を繰り返してきたリコにとって、それは魂からの問いかけだった。
その問いかけに対する答えは、少なくともオーソンヌ王立学院には存在していなかった。
しかし、コロは不思議そうに小首を傾げ、氷藍色の瞳で瞬きをすると、こともなげに言い放った。
「そんなの、お金になるから覚えただけだよ」
「えっ……?」
「崇高な師匠なんていないし、ただの独学、見様見真似だよ。これを知っていれば、もっとお金が稼げるって思ったから」
「み、見様見真似……?」
コロの言葉には、リコが期待したような『植物への愛』や『命を救う使命感』といった崇高なものは一切含まれていなかった。
あるのはただ、純粋で冷徹なまでの『利益の追求』だけだった。
完全に価値観の土台を崩され、プライドの欠片すら残っていないリコは、すがるようにコロに問いかけた。
「……君から見て、腕のいい採取家に必要なものは、なんだと思う……?」
それは、かつて首席としてふんぞり返っていた青年の、初めての心からの教えを乞う言葉だった。
しかし、コロは相変わらず興味なさそうに肩をすくめた。
『いちいちうるさいヤツだな』
「そう言わないの、ウル。で、必要なものだっけ?そんなこと、私には分からないよ」
「分からない……?」
何かしらの金言が返ってくるのかと思っていたリコは肩透かしを食らってしまう。
「うん。ただ、採取した草を綺麗に処理すれば、それだけ価値が上がるでしょ。それで、高品質の薬草を薬草店に持っていけば、信用されて、もっと割の良い仕事を貰える。……私はただ、それを繰り返しているだけだよ」
特別でもなんでもない、当たり前の事実。
だが、コロが言うその「ただ繰り返すだけ」という言葉の裏にある、途方もない経験値と死線の数々を、リコは痛いほどに感じ取っていた。
『……俺も肉が食いたくなってきた』
フォレストウルフたちやグレートウルフが夢中になって肉を食らっている姿を眺めていたウルが、不平不満を漏らしながら、バフンと地面に伏せた。
「ウルには後でちゃんとベルザがくれるよ」
『義理堅いヤツだったものな、ふむ……干し肉で我慢するか』
「ふふ、はい。その干し肉だって別に安物じゃないんだからね」
クスクス笑いながら、斜めがけの鞄から取り出した干し肉をウルに差し出したコロ。
ウルはマズルを顰めたまま、干し肉をむしゃむしゃと咀嚼し始める。
コロはパンパンに膨れ上がった薬草の袋を空の荷車に積み込むと、骨を噛み砕くのに夢中になっている巨大な狼へと声をかけた。
「ねえ、私たちはもう十分採れたから帰るね。お肉、全部食べていいから」
『おお! 感謝いたします、上位種様方!』
血まみれの口のまま顔を上げたグレートウルフは、恐ろしげな外見とは裏腹に、ちぎれんばかりに尻尾を振って応えた。
『これほど美味なる肉は初めてだ!また草が必要になれば、いつでもお越しくだされ!我々が森の隅々までご案内しよう!』
「うん、ありがとう。それじゃあね」
コロが空いた片手でひょいと荷車の取っ手を握ると、ウルも立ち上がり、ふてぶてしい足取りで荷車にハーネスを接続してもらう。
腕に包帯を巻いたリコは、彼らの数歩後ろを、まるで迷子のようにフラフラとついて歩いていた。
木漏れ日の落ちる静かな森の中、車輪が落ち葉を踏む音だけが規則的に響く。
やがて、リコがたまらずといった様子で口を開いた。
「……なぁ。一つ、教えてくれないか」
「ん、また薬草のこと?」
「君はさっき、テイムスキルを使っているわけじゃないと言った。じゃあ、どうしてあんな風に魔物と意思疎通ができるんだ? 魔法陣も媒体もなしに……」
「別に魔法陣なんてなくても、言葉をかければ伝わるよ。それに、世界中を旅しているような人類はね、テイムスキルを学んだうえで、現地の魔物に家畜肉と引き換えに道案内してもらったり、安全を確保してもらったりしてるものだよ」
コロのあっけらかんとした答えに、リコは目を丸くした。
「か、家畜肉で……?魔物がそんな人類の食べ物につられるのか?」
「つられるよ。お兄さん、家畜肉がどういうものか分かってる?」
「え……豚や羊の肉だろう?」
「そう。人類が何百年もかけて、安全で、脂が乗って、一番美味しく食べられるように品種改良を重ねて育てた動物の肉だよ」
コロは荷車を引きながら、前を向いたまま淡々と語る。
「自然界を生き抜いてきた野生の魔物や動物の肉は、筋肉質で固くて、血の匂いも強い。でも、人間の管理下でたっぷり餌を食べて育った家畜の肉は、自然界では絶対にあり得ないほど柔らかくて美味しいんだ。……魔物からすれば、一生に一度味わえるかどうかの『極上のご馳走』ってわけ」
「……極上の、ご馳走」
「うん。だからね、賢い魔物にとって、言葉が通じる人類相手なら、ちょっとした草の場所を教えるくらい、喜んで引き受けてくれる。彼らだって、無駄に血を流して怪我をするより、安全に美味しいものを食べたいからね」
リコは絶句した。
オーソンヌ王立学院では、薬草採取とテイムスキルは一切関連付けられていない、丸っきり別物の学問でしかなかった。
それどころか、教本には「血の匂いは魔物を過剰に引き寄せる最大の愚行」としか書かれていなかった。
だが、その血の匂いの正体が「自然界に存在しない極上の美味」であるならば、彼らが理性を失って群がり、そして取引に応じるのも、生物の理屈として完璧に筋が通っている。
「……じゃあ、テイマーなんていう職業は……」
「テイムスキル自体は、意思疎通のためだけに身につけておくと便利だけどね」
コロは振り返り、氷藍色の瞳でリコを真っ直ぐに見つめた。
「でも、本当にテイムしたらおしまいだよ」
「お、おしまい……?」
「だって、あれは要するに『洗脳』だからね」
「洗脳……!」
「相手の意思を上書きして、無理やり従わせる魔法。……お兄さんは、人類を洗脳して無理やり従わせようとする魔物と、対等に対話したいと思う?思わないでしょ」
コロの静かな問いかけに、リコは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「嫌悪感しか残らないし、洗脳が解けたら絶対に裏切られる。だから、必要なのは支配じゃなくて、お互いの利益を提示する『取引』だよ。まあ、採取家に絶対に必須な技術ってわけじゃないけどね」
『俺はあれは好かん。嫌悪感すら覚える』
「私だって見ていて良い気はしないよ」
コロは何事もなかったかのように再び前を向き、鼻歌でも歌い出しそうな足取りで獣道を進んでいく。
その小さな背中を見つめながら、リコは痛感していた。
己が学んできた「魔物生態学」がいかに一方的で、人間の驕りに満ちた浅はかなものだったかということを。
森を抜ける風が、リコの火照った顔を冷やしていく。
彼が長年抱え込んでいた分厚いプライドは、もはや一片の欠片も残っていなかった。
銀の繭の診療所に、コロとリコが大量の薬草を持ち帰った時、ガラムとベルザ、そして彼女が手配して待機させていた数名の薬師たちは、その『圧倒的な質』を見て一瞬だけ言葉を失い――そこからは一切の無駄口を叩かない職人の時間となった。
「おいおい……マジかよ。これを数時間で集めてきやがったのか」
「完璧だ。しかも、一番魔力が乗ってる最高の部位だけを、傷一つつけずに正確に摘み取ってる……」
薬師たちはコロが持ってきた薬草に釘付けだ。
リコはそんな様子をジッと見つめている。
「さあさあ!さっさと取り掛かってちょうだい!」
ベルザの鋭い号令とともに、薬師たちが一斉に動き出す。
彼らは熟練の手つきで薬草をすり潰して煮出し、またたく間に濃密な緑色の薬液を作り出していく。
ベルザは自ら手を動かすことはせず、壁際で長い煙管を燻らせながら、彼らの作業を厳しい視線で静かに見守っていた。
出来上がった薬液をガラムが娼婦たちの口に含ませ、同時に治癒の光を背中から流し込む。
完璧な状態で刈り取られた薬草の生命力は、ガラムの魔法と溶け合うようにして、枯れ果てていた女たちの内臓へとスムーズに浸透していった。
やがて、みるみると女たちの顔に赤みが戻り、苦しげだった呼吸が穏やかな寝息へと変わっていく。
「……ふぅ。これで一山越えたな。最高の草だったぜ、コロよ」
「助かったわ、コロ。ほら、約束の報酬よ」
ベルザからずっしりと重い金貨の袋を受け取ると、コロは中身を確認してコクリと頷いた。
「うん、ありがとう。相変わらず払いが良いね」
「駆け出しの頃の恩を忘れていないだけよ」
「あの時だって報酬は受け取っているし、あんなのは恩じゃないんだけどね」
「ふふ、あの頃は満足に払えなかったんですもの」
「その報酬で引き受けると決めたのは私だよ。でも有り難く貰っておくよ」
「そうしてちょうだい。今回だって女神様が遣わせてくれた使者のようよ」
「女神様じゃなくて、カシムが連れてきただけだけどね」
その部屋の隅で、空になった荷車の傍らにへたり込んでいたリコは、ただ静かにその光景を見つめていた。
自分の信じていた教本の知識が現場で木っ端微塵に砕かれ、技術でも、精神性でも、目の前の幼い子供に完全な敗北を喫した。
だが、リコは頭の中で、今になって『もう一つの決定的な矛盾』が警鐘を鳴らし始めているようだ。
リコは、豪奢な煙管を燻らせるベルザの横顔を見た。
彼女は長命な種族であるダークエルフだ。
彼女が「駆け出しの娼婦」だった時代がいつなのか正確には分からないが、少なくとも数十年、あるいは百年以上前の話である可能性が高い。
獣人族の子供が、数十年前にダークエルフと知り合っているはずがない。
それに、グレートウルフすらひれ伏す獣を連れ歩き、学院の生態系教本すら凌駕する知識と、熟練の職人ですら到達できない採取技術を持っている。
点と点が繋がり、リコの背筋にゾクッと冷たい汗が流れた。
目の前にいるのは、決して『ただの優秀な子供』などではない。
人類の理から完全に外れた、途方もない年月を生き抜いてきた『何か』だ。
「よし、帰ろうか、ウル。香水の匂いでおかしくなりそう」
『全くだ。鼻が曲がる。早く美味い肉を食わせろ』
「ふふ、そればっかり。ベルザ、ウルに――「ちゃーんと用意しているわ。特上の肉を、ね」
『いいな!では、それを食ったら行くぞ』
「まったく。曲がりそうな鼻はどこへ行っちゃったの」
『いちいち揚げ足を取るな』
「いてっ!ははは、今回はウルの手柄でもあるもんね。よし、肉を食べてから行こうか」
金貨の袋を鞄にしまい込み、一人と一匹が診療所の重い木扉に手をかけた、その時だった。
「……ま、待ってくれ!!」
リコは、弾かれたように立ち上がり、喉の奥から絞り出すような声で叫んだ。
『またその煩い猿か……』
「まだ何かあった?」
「君は……君は、一体何者なんだ……!?」
それは、学院の首席としてのプライドでも、敗者の僻みでもない。
ただ純粋に、人知を超えた存在の真理に触れてしまった者が抱く、根源的な畏怖と探求心からの問いかけだった。
その声に、コロは扉のノブに手をかけたまま、ゆっくりと振り返った。
診療所の魔石ランプの淡い光が、彼女の氷藍色の瞳をガラス玉のように無機質に照らし出している。
深い森の奥底よりも冷たく、そしてどこまでも透き通ったその瞳で見つめ返され、リコは思わず息を呑んだ。
どんな偉大な賢者の名が返ってくるのか。
それとも、伝説に名を残す不老の怪異か。
リコが固唾を呑んで見守る中、コロは不思議そうに小さく小首を傾げると、一切の感情を感じさせない平坦な声で答えた。
「別に何者でもないよ。ただの気ままな旅人、かな」
「え……?」
「じゃあね、お兄さん。せいぜい、ベルザに借金を返し終わるまで頑張って」
パタン、と。
呆気ないほど軽い音を立てて、分厚い木扉が閉ざされた。
「気ままな……旅人……?」
リコはその場に立ち尽くしたまま、閉ざされた扉を呆然と見つめていた。
そこには崇高さも、長命な存在としての威圧感も、一切の虚飾もなかった。
ただ世界を歩き、必要なものを得て、そして去っていくだけ。
彼が学んできた分厚い教本には、あんな途方もない存在を説明する言葉は、どこにも記されていなかった。
「……カッカッカッ!!いいツラしてやがるぜ、お坊ちゃん!」
静まり返った診療所に、ガラムの豪快な笑い声が響く。
「理屈で測れねえモンに出会って、ようやく現場の『匂い』ってやつが分かってきたんじゃねえか?ほれ、ボケッとしてねえでモップ掛けでも手伝え!まだまだ親父の借金は残ってんだぞ!」
「あ、ああ……分かってる……!」
リコは、足元に転がっていたモップを拾い上げた。
その顔にはもう、学院の首席を気取る浅ましいエリートの面影はない。
色街の安っぽい香水と、血と、薬品の匂いが混じり合うむせ返るような空気の中で、彼はただの一人のしがない採取家として、静かに床を磨き始めた。
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