芳香の裏庭と、色街の熱病 2 〜雑草の処方箋と、尻尾を振る森の王〜
2.
「森へ行く前に、念のため他の女の人たちの症状も見ておきたいな。白影草と竜胆の根以外にも、拾っておいた方がいいものがあるかもしれないから」
台車の準備ができるまでの間、コロがそう提案すると、ガラムは「おう、助かるぜ」と頷き、診療所の奥へと一人と一匹を案内した。
薄暗い部屋の中には、簡易的なベッドが所狭しと並べられ、過労と熱病で倒れた娼婦たちが苦しげな寝息を立てている。
コロは一番手前のベッドに横たわり、ひどく咳き込んでいる赤毛の娼婦の顔を覗き込んだ。
「気管支と肺がやられてるね」
『臭いな。煙たいぞ』
「だね。お酒と、安い香木や葉巻の煙を吸いすぎたんだ」
「あ、ああ、その通りだ!」
コロの背後から、リコが王立学院の分厚い『生態系教本』を片手に、得意げに声を張り上げた。
「彼女は重度の呼吸器系の炎症だ!教本の第5章によれば、こういう場合は高山帯にしか生えない『氷晶花の蜜』を飲ませるのが最適解だ!だが、今はそれが手に入らないから治療が遅れているんだ。決して僕のせいじゃない!」
胸を張るリコを完全に無視し、コロは娼婦の脈にそっと触れながら淡々と呟いた。
「氷晶花なんて、この辺りの標高じゃ絶対に見つからないし、買えば金貨が何枚も飛ぶよ」
「そ、そんなことは子供に言われずとも分かっている……!だからこそだな――「……ベルザがそんな経費、出すわけないでしょ」
無表情のまま、露骨にため息をついたコロの態度に、リコは顔を赤くして声を荒げる。
「なっ……!だからと言って、他に方法が――「その薬効が欲しいだけなら、あの森の湿地に生えてる『泥這い苔』と『赤斑キノコの傘』を併せて煮出せば、全く同じ薬効になると思うんだけどね」
コロが平然と告げると、リコは目をひん剥いて素っ頓狂な声を上げた。
「こ、苔と毒キノコを混ぜるだと!?教本にはそんな野蛮な調合、一文字も書かれていないぞ!患者を殺す気か!」
「へえ、すげえな」
リコのヒステリックな叫びを遮るように、ガラムが葉巻を咥えたまま感心したように唸った。
「赤斑キノコの微量な麻痺毒で喉と肺の痛みを散らしつつ、苔の粘液で荒れた粘膜を丸ごと保護するって寸法か。理にかなってやがる」
「うん。昔、腕のいい薬師からそう聞いた。ちょっと泥臭いし、痺れるけど、背に腹は代えられないね。呼吸困難で死ぬよりはマシでしょ」
コロが事も無げに頷くと、ガラムは「違いねえ」と笑い、別のベッドで黄疸を起こして苦しんでいる娼婦を顎でしゃくった。
「コロ、こっちはどうだ?肝臓がすっかりイカれちまってる」
『俺ならソイツの内蔵は絶対に食わんな。腐りかけた匂いがする』
「はは、匂いもだけど、もう目の周りとかが思いっきり肝臓がダメになっている人のそれだよ」
あくまでマイペースに患者を分析するコロとウルに対し、リコが得意げな表情のまま口を開いた。
「……ふん!彼女の症状の特効薬は『エルフの涙草』だ! こればかりは代用がきかない! だが、エルフの自治区との交易が止まっている今――「そもそもエルフの涙草は初春にしか芽を出さないよ」
リコの言葉は、もうそれ以上聞く価値もないと判断したのか、コロは患者の女性のまぶたを開き、目の様子を確認しつつ言葉を継いだ。
「今の季節ならね、あの森の南側に群生してる『腐葉土のシダ』の根っこを煎じれば、ちょっと苦いけど、同じくらい肝臓の毒を抜いてくれるって聞くけどね。味は酷くなるだろうけど、まぁあくまで薬だから」
リコの「教科書通りの正解」を、コロはまたしても「季節外れ」という現場のリアリズムで一刀両断した。
「ふ、腐葉土のシダ!?あんな魔物のフンが混じった土に生える雑草を薬にするだと!? 信じられない、でたらめだ!教本をなんと心得ている!!」
「そんなもの、読んだことがないから、なんとも心得ていないよ。ただ、腕のいい薬師はね、そういうときは『腐葉土のシダ』の根っこを欲しがるなって」
努めて冷静なコロ、退屈そうにあくびをするウル。
そんな一人と一匹に対し、顔を真っ赤にして教本を振り回すリコを見て、ガラムはたまらず腹を抱えて吹き出した。
「カッカッカ!!いやぁ、最高だ!はぁ〜っ、やっぱりその筋の『職人』と話すと、胸のムカムカがスーッと晴れるな!!」
「きょ、教本を読んでいないような子供を捕まえて、なーにが職人だ!僕は王立学院を首席で……!」
「ボンボンのお坊ちゃんよう。お前の抱えてる分厚い紙の束には、『春にしか採れない高価な花』の代わりに『今そこにある泥臭い雑草』を使う方法は載ってねえみたいだな。それがいかに現場でクソの役にも立たねえか、身に沁みて分かったか?」
ガラムの容赦ない言葉に、リコはギリッと歯を食いしばり、「王立学院の権威が……!僕の座学の数年間が……!」と、悔しさのあまり床をバンバンと地団駄を踏んで震え上がった。
その滑稽な姿を、ウルは心底呆れたように半目で眺めている。
『……人類の学校とやらでは、目の前の獲物の代わりに、存在しない獲物の獲り方を教えるのか?随分と暇な種族だな』
「まあ、安全な檻の中で賢くなるための勉強だからね。しょうがないよ」
コロは肩をすくめると、ガラムの机にあった羊皮紙の切れ端に、サラサラと必要な薬草と代替品のリストを書き殴っていく。
「じゃあ、白影草と竜胆の根をベースに、今の苔やシダも多めに集めてくるね。……そろそろ、ベルザのお肉も用意できた頃かな」
「おう、頼んだぜ!」
コロが羊皮紙をポケットにねじ込み、ウルと共に診療所の扉に向かって歩き出す。
その後ろから、プライドを粉々にされたリコが、涙目で教本を抱きしめながら「ち、違う! 僕の知識は間違ってない! 見届けてやる……!」と、半ばヤケクソのような足取りで付いていくのだった。
王都の郊外、鬱蒼と茂る深い森へと続く一本の獣道。
その薄暗い道行きには、ただ重い車輪が軋む音と、ボタボタと赤黒い血が土に滴り落ちる不気味な音だけが響いていた。
「……狂気の沙汰だ。信じられない、君たちはどうかしてるッ……!」
腕に包帯を巻いたリコが、カタカタと奥歯を鳴らしながらヒステリックな声を上げる。
彼の視線の先には、ベルザの厨房からかき集められた『血抜き前の生肉』が山のように積まれた荷車があった。
そして、そのおびただしい血の匂いを放つ荷車を牽いているのは、黒いハーネスを身につけたウルである。
誇り高きアッシュウルフが荷物持ちなど本来なら言語道断だが、コロの「お願い」であれば、ウルは一切の嫌な顔をせずに黙々と車を牽いてくれるのだ。
「魔物の巣窟に、こんな血まみれの生肉を持ち込むなんて!教本の第一章、基本中の基本に『血の匂いは魔物を過剰に引き寄せる最大の愚行』だと明記されているぞ!!」
『キーキー煩いな……』
「……ふうん。お兄さんがそうやってギャーギャー騒いでくれたら、より効率よく魔物も集まりそうだね。助かるよ」
「ひっ……!?」
コロが振り返り、氷藍色の瞳で淡々と告げると、リコは顔を真っ青にして両手で口を塞いだ。
『お前も意地の悪いヤツだな』
「仕方ないよ、本当にうるさいんだもん」
『まあ現に、注目の的にはなっているがな』
「でもウル相手にどうにかしようって考えるような、頭の悪い類の魔物は居なさそうだね」
静まり返った森に、生ぬるい血の匂いだけが風に乗ってさらに奥へと広がっていく。
コロの言葉しか聞き取れないリコにとって、一人と一匹の会話は恐怖でしかないようだ。
その足取りは益々ガタガタ震えを増していく。
木々の隙間からは、血の匂いを嗅ぎつけた無数の貪欲な眼光が覗いているが、ウルの存在に気づくと皆、怯えたように息を殺して葉陰へと消えていく。
やがて、森の深部へと差し掛かったあたりで、コロはピタリと足を止めた。
「そろそろかな。……ウル、ここから入ろう」
『わかった』
コロとウルが荷車を街道からゆっくりと外し、道なき茂みの方へと歩みを進め始める。
「ま、待て!そっちは完全に未開拓のルートだぞ!?死ぬ気か!?」
「…………」
小声で必死に制止するリコだったが、コロは一瞥もせずにズンズンと茂みを掻き分けていく。
一人取り残される恐怖に耐えきれず、結局リコはガタガタと震えながら、まるでコロの小さな背中にしがみつくような格好で、情けなく後をついていくしかなかった。
木漏れ日すら届かない、薄暗い森の奥。
コロは周囲の植生と地形を軽く見渡すと、満足げに頷いた。
「じゃあここらへんで。ウル、お願い」
『グルルル……』
ウルの喉の奥から、低い唸り声が漏れる。
「お、おい!何をお願いしたんだ……!?」
次の瞬間、巨大な漆黒の狼は天を仰ぎ、森全体をビリビリと震わせるような、鼓膜を劈くほどの強烈な遠吠えを轟かせた。
――アォォォォォォォォォォォォンッ!!
「ひぃぃぃぃぃぃっ!?な、なにをするんだ!!く、く、狂ったのかッッッ!?!?」
静寂に包まれた森に意図的に響き渡った圧倒的な強者の咆哮に、リコはついに卒倒寸前になり、へなへなと地面に尻餅をついた。
「わ、分かったぞ……!君たちの目的は薬草じゃない!わざと魔物を呼び寄せて、僕を秘密裏に殺すつもりだな!?僕を殺して、あの色街の専属採取家の後釜に座るつもりだろう!!」
恐怖のあまり完全に被害妄想に取り憑かれ、涙目で喚き散らすリコ。
そんな彼を、コロはまるで道端の石ころでも見るような、心底呆れ果てた冷ややかな目で見下ろした。
『狂ったのはソイツの方だろう……はぁ』
「何が悲しくて、ベルザの下で働かなきゃいけないの。私は、あんな香水の臭いがキツい町に定住するなんて、絶対に嫌だよ」
『同感だ。鼻が曲がる』
一人と一匹が、揃って心底うんざりしたように溜め息をついた、まさにその時。
――ガサガサガサッ!!
周囲の茂みが、一斉に不気味な音を立てて揺れ始めた。
その向こうから姿を現したのは、緑がかったの毛並みを持つ数頭の狼――森の生態系の上位に君臨する魔物、『フォレストウルフ』の群れ。
そして、その群れを率いるように中央に進み出たのは、フォレストウルフよりさらに一回り以上も巨大な体躯を誇る『グレートウルフ』だった。
太い四肢が地面を踏みしめるたび、落ち葉が重苦しく沈み込む。
「お、来たね」
「ひ、ひぃぃぃっ!グ、グレートウルフだぁぁぁっ!!」
リコが両手で頭を抱え、地面に突っ伏して絶叫する。
単体でも人類が手を焼く凶悪な魔物だが、その真の恐ろしさはウルフ系魔物を統率し、軍隊のような完璧な連携を強いる『群れの力』にある。
この森にうかつに人間が踏み入れられない最大の理由であり、遭遇イコール死を意味する絶対的な絶望の象徴だった。
「……キャンッ」
だが、絶望の使者たちは、牙を剥くどころか、ウルの姿を視認した瞬間に悲鳴のような声を上げ、一斉に地面に腹をつけて平身低頭の姿勢をとった。
顔や身体のあちこちに歴戦の瘢痕を持つグレートウルフすらも、地面に腹を擦り付けるようにして恐る恐る前に進み出てくる。
『……上位種様。我々の森に、何か御用でしょうか?』
弱々しい唸り声を通して伝わってくる声には、明らかな畏怖と絶対服従の響きが混じっていた。
「ごめんね、急に大きな声を出しちゃって」
『いえ!滅相もない……!』
「実はね……この草と、この草、あとこの苔。これがほしいんだけど、あなた達の森のどこかに生えている?」
コロが懐から羊皮紙の切れ端と、薬草のサンプルを取り出して見せる。
グレートウルフは不思議そうに鼻先をヒクつかせたが、すかさずウルが一歩前に出て、背後の荷車を顎でしゃくった。
『もちろん、タダで案内しろとは言わん。手土産に新鮮な家畜肉をたんまり持ってきた』
その瞬間だった。
『……ッ!!』
今まで恐怖でガタガタと震え、地に伏せていたグレートウルフと配下のフォレストウルフたちが、ガバッと勢いよく立ち上がった。
彼らの視線はウルの背後にある大量の生肉に釘付けになり、ピンと立った耳と、ちぎれんばかりに激しく振られる尻尾が、彼らの歓喜を雄弁に物語っていた。
『なんと!!案内するだけで頂けるのですか!?』
『わぁ!やった!えへへ、俺、全部分かります!!順番に案内します!!』
『その苔ならあっちです!!』
『俺が先だよ!!どうぞどうぞ、こちらへ!!』
『馬鹿者!順番にご案内するぞ!!』
森の絶対的脅威であるはずのグレートウルフが、まるで飼い主に褒められた犬のように意気揚々と尻尾を振り、コロたちの前を率先して歩き始めたのだ。
「ふふふ、ありがとう。じゃあ、案内お願いね」
『よし、案内を頼む』
コロとウルが荷車を引きながら、尻尾を振る狼たちに続いて歩き出す。
その信じられない光景を、地面に突っ伏したまま呆然と見つめていたリコは、パクパクと口を開閉させた。
「え……?あ、あれ……?群れを統べるグレートウルフが……襲って、こない?え?肉で……道案内……?」
リコの脳内で、王立学院で学んだ分厚い『生態系教本』の記述が、音を立ててガラガラと崩れ去っていく。
魔物は人間を襲うもの。
血の匂いは死を招くもの。
使役するには魔法陣と媒体、そして高度なテイムスキルが必須……
そもそも採取家にテイムスキルは必須ではない。
彼が暗記してきた何百ページもの「常識」は、コロが持ち込んだ「ただの食事(肉)」と、ウルの「圧倒的な暴力の担保」の前に、紙屑同然に成り果てていた。
「……あんな幼い子どもが、グレートウルフすらも畏怖するような魔物を使役していたとでもいうのか……?」
パニックになりながら叫ぶリコに、コロは振り返り、呆れ顔で口を開いた。
「ただお腹が空いてる子に、ご飯をあげただけだよ。私たちは草の場所が知りたい、この子たちは血を流さずに肉が食べたい。お互いの欲しいものを交換しただけ」
「そ、そんな、言葉も通じない魔物と、そんな理屈が……!」
「通じるよ、生きてるんだから。早くこないと置いていくよ」
コロの氷藍色の瞳は、リコの信じる「教科書の理屈」よりも、遥かに冷徹にこの世界の「命のやり取りの真理」を捉えていた。
その視線の冷たさに、リコはもう何も言い返すことができず、ただ先導する狼たちの尻尾を見つめながら、フラフラと森の奥へと進んでいくしかなかった。
彼が命綱のように抱きしめていた分厚い『生態系教本』が手から滑り落ち、泥と魔物の足跡にまみれていくことにも、気付かないまま。
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