芳香の裏庭と、色街の熱病 1 〜奇跡の限界と、役立たずの教本〜
1.
オーソンヌ王国が隣国の小国を蹂躙し、莫大な戦利品と血の匂いに酔いしれている頃。
王都の片隅に存在する完全なる自治区、色街『銀の繭』は、未曾有の特需によってむせ返るような熱気に包まれていた。
勝利の美酒に酔った兵士や、戦争特需で懐を温めた商人たちが、夜な夜なこの街に金と欲望を落としていく。
通りには安っぽい香水と酒の匂い、それに混じって微かに饐えた吐瀉物の臭いが漂い、色とりどりの魔石ランプが、行き交う人々のギラついた目を毒々しく照らし出していた。
そんな喧騒から完全に切り離された、街の最奥にある豪奢な娼館の応接室。
分厚いビロードのカーテンが外の狂騒と腐臭を完璧に遮断し、室内には最高級の香木が甘く重たい煙をくゆらせている。
「で、どうだよ?ババアんとこの女たちに。相場よりずっと安くしとくぜ?」
豪奢な真紅の絨毯の上に、かの小国から巻き上げたばかりの宝飾品の数々を並べ、強欲商人カシムが下品な笑みを浮かべていた。
つい数日前まで小国の貴族たちが身につけ、そして暴徒たちが泥水の中で奪い合った品々。
魔石ランプの光をギラギラと反射する首飾りや指輪は、滅んだ国の血と悲鳴を吸い込んだような生々しい輝きを放ち、カシムの脂ぎった顔を下から不気味に照らし出している。
対面で長椅子に腰掛けているのは、この自治区を統べる元娼婦のダークエルフ、ベルザだ。
彼女は長い煙管を咥えながら、品定めするように宝石を一瞥し、それからカシムの背後に立つ一人と一匹へと視線を向けた。
「……しっかし、あのアンタが、コロやウルと一緒に動いていたとはね」
「おうよ!あのアッシュウルフを手懐けて旅してんだぜ?驚いたぜ!用心棒をさせてえから、是非うちのキャラバン隊に乗ってくれねえかなって思っていたら、お嬢ちゃんの方から乗せてくれって声を掛けてくれてよ!」
「よほど物欲しそうな顔をしてたんじゃないの?」
ベルザが呆れたように紫色の煙を吐き出すと、カシムはガハハと豪快に笑い飛ばした。
「ウハハ!だろうな!しかしよう、まさかお嬢ちゃんが、こんな色街を仕切ってるババアの知り合いだったとはな!」
「アタシがババアじゃなくて『姐さん』って呼ばれてた、駆け出しの頃からの知り合いよ」
ベルザの言葉に込められた『時間の長さ』。
ダークエルフの彼女が駆け出しだった頃から知っているとすれば、人間であるコロが今も「子供の姿」であることは明らかに異常だ。
だが、カシムは「へえ、そうかそうか」と、まるで今日の天気でも聞いたかのように軽く相槌を打っただけだった。
「普通の人類なら、気味が悪そうな顔をするところだと思うけどね」
コロが氷藍色の瞳で淡々とそう告げると、カシムは懐から葉巻を取り出し、火をつけながらニヤリと笑った。
「その好奇心が『金』になるなら興味津々だがな!金にならない好奇心は身を滅ぼすってな。そもそも、んな達観したようなガキンチョが、テイミング出来るなんて聞いたことのねえアッシュウルフと仲睦まじく旅してる時点でな、おおよそ察しくらいつくってもんよ!」
カシムは深く紫煙を吸い込み、世界の謎や不老の怪異など目の前の金貨一枚ほどの価値もないとばかりに笑い飛ばした。
「それより俺が持ってきた品物を見てくれよ!」
「お、良いもんを仕入れてくるあたり、また腹が立つわね」
「独裁国家の崩壊だぜ?上物だけですげえパーティメンバーが組めるぜ」
「これとこれと……うん、これも頂こうかしら」
「おい、こっちはどうだよ?今じゃどこの鉱山をほじくり返しても出てこねえマイティメラをあしらってるぜ?」
「おや!これは……偽物じゃないわね」
「だろ?本物なんだよ、これ!買えよ!なっ!?」
「……」
「……カァーッ!仕方ねえな、それを買ってくれたら、こっちもオマケでつけてやる!」
「買った!」
「よし、持ってけ泥棒!」
「ははは!泥棒はどっちよ!こんなにがっぽりせしめておいて!」
「真っ当な商売だ!ただ、タイミングが良かっただけでな!」
カシムは手元の算盤をはじき、ベルザも金貨がたんまり詰まっているであろう革の袋を取り出し、カシムに差し出した。
そんなベルザとカシムのやり取りを眺めていたウルが、ポツリと漏らした。
『……こいつ、根っからの『職人』だな……』
カシムから全く持って嘘の匂いがしてこないことに、感心しているのだろう。
口を半開きにしてジッと見つめてくるウルの様子に、カシムが首を傾げた。
「ん?なんだよ、犬っころ。ウルって言ったか、何ガウガウ言って、ぽけーっとしてんだ?」
「ウルはね、カシムさんから『嘘の匂いがしない』『まさに職人だ』って言って、感心しているみたい」
『感心というより、呆れだ、呆れ』
マズルを顰めて文句を言うウルを無視し、カシムは再び大きな声で笑い出した。
「売をするときはな、俺はいつだって金に実直な、生真面目な男だからな!コロが何百歳だろうとな、売と関係ねえ話題なんざ、昨日した糞の回数くらいどうだっていいんだよ!」
徹底した商売人気質というより、狂気じみた信念に、ウルはそれ以上は何も言わなかった。
「で、カシムさんが言ってた『腕があれば払いの良いババアがいる』っていうのが、ベルザのことだよね」
「ええ。よくぞ失礼な紹介してくれたわ、この悪徳商人」
「へへっ、旧知の仲ってことで紹介料はサービスしておくぜ!この町は最近、病気が蔓延しているって噂だからな、せいぜいババアからたんまり巻き上げてやんな!じゃあまたな、あばよ!」
用は済んだとばかりに、カシムは代金の金貨が入った袋を懐にねじ込み、嵐のように応接室を去っていった。
残されたベルザは煙管を灰皿に叩きつけ、忌々しそうに眉を顰めた。
「あの強欲商人……次会ったら絶対にその減らず口を縫い合わせてやるわ。……それでコロ、アナタ、薬草集めはできる?」
「うん。何かあったの?」
「実はね、オーソンヌがお隣を蹂躙するって話が出てからというもの、客の数が異常なのよ。うちの娘たちは文字通りフル稼働。……でも、身体は正直だわ。睡眠不足と過労で内臓が悲鳴を上げて、原因不明の『熱病』で倒れる娘が続出してる」
ベルザは重い息を吐き出し、立ち上がった。
「うちのガラムの治癒魔法があれば、表面上の傷や病気はどうにでもなる。でも、すり減った『内臓の疲労』だけは魔法じゃ治せないのよ。上質の薬草で身体の底から治癒力を引き上げないといけないんだけど……肝心の『薬草採取』が、クソの役にも立ってないの。ほら、百聞は一見にしかずってやつね。ガラムの診療所へ行くわよ」
ベルザに案内されて足を踏み入れたのは、娼館の裏手にある薄暗い診療所だった。
扉を開けた瞬間、安い蒸留酒と、きつい葉巻の煙、そして血と薬品の混じった不気味な臭いが鼻腔を殴りつける。
部屋の奥では、無精髭を生やしたドワーフ族で破門僧ガラムが、ベッドでぐったりとしている娼婦の背中に手を当て、微かな治癒の光を放っていた。
ベッドシーツは嫌な汗でじっとりと濡れ、青白い肌からは浅く掠れた呼吸音だけが漏れ出ている。ガラムの掌から注がれる淡い光は、まるで水のない砂漠に落ちた水滴のように、彼女たちの身体に浸透することなく干からびて消えてしまっていた。
「……チッ。ダメだ、魔力が通らねえ。これ以上無理に光を流し込めば、この女の寿命が縮むだけだ」
ガラムは忌々しそうに舌打ちすると、ベッドの傍らに置かれた酒瓶を掴み、乱暴に喉を鳴らした。
「ガラムのおじさん、治癒魔法じゃダメなの?」
コロがひょっこりと顔を出すと、ガラムは「おう、来たか」と短く応え、咥え煙草のまま重い息を吐き出した。
「いいか、コロ。俺たち僧侶の『奇跡』ってのはな、身体に開いた物理的な穴を強制的に塞ぐだけのもんだ。その際、治癒のエネルギーとして患者自身の『生命力』をゴリッと消費する」
「ふうん」
「怪我ならそれでいい。だがな、今のこいつらみたいに過労で内臓がスッカラカンになってる奴らに奇跡を使うのは、底の抜けたバケツに泥水を流し込むようなもんだ。……枯れた井戸に水を湧かせるのは、俺の『奇跡』の領分じゃねえ。上質な『草』の領分だ」
ガラムの言葉は、神に仕えていたとは思えないほど即物的で、しかし生命の理を冷酷なまでに正確に捉えていた。
「だが、その『草』を採ってくるはずのすっとこどっこいが、あそこの隅で泣き言を喚いてるせいでな」
ガラムが顎でしゃくった先、診療所の隅の丸椅子に、場違いに身なりの良い、しかしあちこち泥と血に塗れた若い男がうずくまっていた。
上等な絹で仕立てられた王立学院の制服は無惨に引き裂かれ、磨き上げられていたはずの革靴は泥と魔物の返り血でドロドロに汚れている。
男の腕には包帯が巻かれ、プライドと恐怖が入り混じったような顔でブツブツと呟いている。
「あ、ありえない……!オーソンヌ王立学院の最新の『生態系教本』によれば、あの森の浅い階層は危険度2のはずだ!なのに、なぜあんな強力な魔物が群れで現れるんだ!教科書の記述と全く違うじゃないか!腕に自信があるって触れ込みだった傭兵たちも、自信があるのは腕じゃなくて逃げ足の方だったぞ……!」
道中、ベルザから聞いた話では彼の名前はリコ。
オーソンヌ王立学院を優秀な成績で卒業したばかりの、頭でっかちな若手採取家のようだった。
親がベルザにした借金の形として、この青年が薬草採取係として無理やり従事しているとのこと。
「……うるせえな、ポンコツ。教科書が身を守ってくれるとでも思ってんのか、このお坊ちゃんは」
「なっ!?僕は学院で植物学と魔物生態学の全過程を首席で修めたんだぞ!決して僕の腕が悪いわけじゃない、イレギュラーが起きたんだ!」
「へいへい。そのイレギュラーで腕をかじられて、ピーピー泣いて逃げ帰ってきたのは誰だ?」
「ピ、ピーピー泣いてない……!」
「ピーピーでもビービーでもいい。知識ばっか詰め込んで現場の『匂い』も分からねえ素人のおかげでな、こっちの女たちが死にそうなんだよ」
「くそっ……!父上の借金さえなければ、こんな掃き溜めじゃなく、今頃は……!」
「今頃は、なんだよ?苦しんでいる女たちのあられもない姿を見て、情けねえくらい欲情している、浅ましいお坊ちゃんよう?」
「よ、欲情してない……!」
「ウハハハッ!下半身は正直者なんだがな!」
ガラムが葉巻の煙を吹きかけながら鼻で笑うと、リコは顔を真っ赤にして口ごもった。
「とりあえず新鮮な『白影草』と『竜胆の根』があればいい感じかな?」
喧嘩など全く興味がないという風に、コロが、ガラムの机に無造作に置かれていた紙を片手に、淡々と問いかける。
コロが背負っていた鞄から、数日前に別の森で採取した余りの薬草の切れ端を取り出して見せる。
途端、診療所に充満していた酒と血の臭いを切り裂くように、目が覚めるような鮮烈な蒼葉の香りが広がった。
瑞々しい生命力をそのまま凝縮したような深い緑色の葉脈を見て、ガラムの目の色が変わった。
「……ほぅ。見事な保存状態だ。香りが全く飛んでねえ」
ガラムの感嘆の声に、それまで呆れ顔でガラムとリコのやり取りを聞き流していたベルザも、コロが取り出した薬草を眺める。
リコもその高品質な薬草を目の当たりにして、言葉を失っている。
「ええ。これなら、すり潰して飲ませるだけで、娘たちの熱病も三日で引くわ。……この水準の草を、今の十倍の量で集めてこれる?」
「いいよ。ねえウル?」
『フン。このむせ返るような香水の匂いから逃れられるなら、森の方が幾分かマシだ』
「だね。ベルザ、ちなみに、別に十倍以上でもいいんでしょ?」
「ええ、お願い」
「後は適当に良さそうな薬草を見繕って摘んでくるよ」
コロが平然と引き受けると、隅で聞いていたリコが信じられないものを見るように立ち上がった。
「お、おい!き、君たち正気か!?あの森は今、イレギュラーな魔物のせいで安全な採取ルートが完全に潰されているんだぞ!子供と犬一匹で十倍以上の量なんて、自殺しに行くようなものだ!」
「……ふうん、そうなんだね」
コロはリコの方を一瞥すらせず、ベルザに向かってスッと一つの『条件』を提示した。
「ベルザ、報酬は採取から戻ってきてからでいいから、その代わり、今すぐ『血抜き前の家畜の肉』を、台車一台分用意して」
「血抜き前の生肉?」
「うん。持っていく」
「……いいわ。裏の厨房にある豚と羊を全部回してあげる」
「な、生肉を持って森に入るだと!?自殺志願者か!教科書の第3章にも『血の匂いは魔物を過剰に引き寄せる最大の愚行』だと明記されているぞ!!」
ヒステリックに叫ぶリコを、ベルザは「チッ」と鬱陶しそうに一瞥した。
「アンタの薄っぺらい教科書なんてどうでもいいのよ。……大人しく見てなさい。コロに同行したら、その理由が嫌でも分かるわよ」
リコにとって、これまでの彼の学んできたものが根本的に否定されているような図式。
平然としている三人を見つめたまま、ただただ口をパクパクとさせていた。
当のコロとウルも、口には出さずとも『この人類がついてくるのか』と、内心でため息をついているようだ。
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