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元・魔物の少女と魔狼の異世界観測記 〜狼の鼻と、神の余暇〜  作者: 三沢 七生


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綺麗な死刑囚と、嘘の罪 2 〜澱んだ罪悪感と、死刑台という切符〜

2.


刑務所を後にした一人と一匹が次に向かったのは、街の入り口近くにある古びた薬草店だった。

軒先には乾燥させた苦味のあるハーブの束が吊るされ、夕暮れの風に乗って独特の薬臭い匂いが通りに漂っている。


扉のカウベルのくすんだ音が鳴り響くと、むせ返るような薬草の匂いが一段と濃くなった。

壁際までびっしりと並べられた棚には、濁った液体の入ったガラス瓶や、ねじれた指先のように干からびた木の根が詰め込まれている。


「……だから、あの証言はよくなかったんじゃねえかって言ってるんだよ!」

「アンタ、まーだそれを言ってるのかい!?」


薬草店を営む人間族の夫婦と思しき男女のやりとりのようだ。

西日が僅かに差し込む店内には細かな塵が舞い、まるで夫婦の澱んだ罪悪感を物理的に可視化しているかのようだった。

思わず目を見合わせてしまうコロとウル。


「俺の言った『似たような男を見た』って言葉を、あの憲兵共が勝手に捻じ曲げやがったんだ!」

「今更ウジウジ言ったって仕方ないでしょ!あのドラ息子が真犯人だってことくらい、街の人間なら皆気づいてるわよ。でも、誰があの有力者に逆らえるって言うのさ!」

「分かってる、分かってるが……!あいつ、捕まった時に俺の顔を見て、静かに頷きやがったんだ。あの目が忘れられねえんだよ……!」

「だーから気の所為だって!アンタの勘違いだよ!」


店主の情けない震え声と、それを塗りつぶそうとする奥さんの鋭い声。

薄暗い店内には、瓶に詰められた標本や乾いた根が所狭しと並び、夫婦が抱える「澱んだ罪悪感」をさらに濃密に閉じ込めているようだった。


「ごめんください。薬草の買い取りで来たんだけど」


コロがカウンターをコツコツと叩いて声をかけると、奥から慌てた様子で店主が顔を出した。

その目は赤く、脂汗で額の髪が張り付いている。


「あ、ああ……旅の嬢ちゃんか。悪いな、今はちょっと立て込んでて……」


店主の手元には、小さな革袋に包まれた銀貨の束と、丁寧に調合された、深い碧色の薬瓶があった。

それは、恐怖を和らげ、心に偽りの平穏をもたらすという、高価な鎮静剤の類だった。


「おじさん、それ……あのお兄さんに届けたいの?」

「な……!なんでそれを」

「だってそれ、鎮静剤だよね。さっき、宿屋からの出前で地下牢に行ってきたばかりだから」

「そうだったのか。まぁ、そうなんだけどな……」

「おじさんたちは行きたくないんでしょ。さっきの宿屋の人たちと同じだね。さっき、直接届けた来たばかりだよ」


図星を突かれた店主は、幽霊でも見たかのように絶句した。

そこへ奥の部屋から、さらに顔色の悪い奥さんが縋るように身を乗り出してきた。


「お嬢ちゃん、本当にかい!?あいつ……あのお兄さんに会ってきたのかい?」

「うん。静かな人だったよ。……ねえ、おじさん。その薬、私が代わりに届けてあげようか?」


コロは無表情なまま、淡々と『二度目の商談』を持ちかけた。


「もちろん、タダじゃないよ。さっきは宿泊代だったけど、今度はこの『白影草』の買い取り価格を倍にして、さらに銀貨3枚。それでいいなら、サクッと戻って届けてあげる」


店主は、銀貨3枚という子供にしては法外な要求に一瞬躊躇したが、目の前に積まれた「罪悪感という名の重荷」を肩代わりしてもらえる誘惑には勝てなかった。


「……よし、分かった。頼む、これを持っていってくれ。あいつに……『皆で金を出した、せめてもの薬だ』と。そう伝えてくれりゃあいい」

『フン。一度ならず二度までも。人類という生き物は、自分たちの良心を安く買い叩いてもらうために、わざわざ銀貨まで支払うのか』


足元で冷ややかな視線を送るウルの唸り声に、コロは心の中でだけ肩をすくめた。


「商談成立だね。……じゃあウル、もう一回だけあの中に戻ろうか。銀貨3枚なら、明日の馬車を少し豪華にできるよ」


コロは店主から、重たい罪悪感の詰まった薬瓶を受け取ると、皮肉なほど美しく輝く夕日の中を、再びあのカビ臭い地下牢へと歩き出した。




夕闇がさらに深まり、街の輪郭が曖昧になり始めた頃。

家々の窓には温かなランプの灯りが点り、夕餉のシチューの匂いや、家族のさざめきが漏れ聞こえてくる。

しかし、一人と一匹が歩みを進めるごとに、その温もりは冷たい夜風に掻き消されていった。


やがて目の前に現れたのは、周囲の空気をそこだけ切り取ったかのように黒々とそびえ立つ、無骨な石積みの外壁だった。

見上げるほどの重苦しい鉄格子の門は、まるでこの街の罪悪感をすべて飲み込む巨大な怪物の顎のようにも見える。


一人と一匹は、本日二度目となる無骨な石積みの外壁の前に立っていた。


「あれ?お前さんたち、なんか忘れ物でもあったか?」


門を固めていた二人の衛兵が、見覚えのある少女と巨大な狼の姿に怪訝な顔をする。

コロは鞄の中から、深い碧色に揺れる小瓶を取り出して見せた。


「ううん。今度は薬草店のおじさんからのお使いだよ。これをあの人に届けてくれって」


その言葉と、高価な鎮静剤が入った薬瓶の意味を即座に察したのだろう。

二人の衛兵は深くため息をつき、ひどく呆れたような、あるいは同情するような顔を見合わせた。


「……どいつもこいつも。気味が悪いからって、また子供に使いっぱしりさせやがって」

「罪滅ぼしのつもりか知らねえが、大人が揃いも揃って情けねえ街だぜ。……いいよ、入れよ」


ギゴギゴと、再び重い鉄の扉が開かれる。


扉の向こうは、松明の不安定な炎が、濡れた石壁に歪んだ黒い影をいくつも踊らせている。

一段下るごとに空気はひんやりと重く湿り気を帯び、鼻をつくカビの匂いに、得体の知れない饐(す)えた臭いが混じり始めた。

どこかで水滴が落ちる『ピチョン、ピチョン』という冷たい音が、静まり返った地下空間に不気味に反響している。


階段を下りきると、鉄格子で仕切られた檻が両脇にずらりと並ぶ、カビ臭い一本道に出た。


鉄格子の中から泥だらけの囚人たちが顔を覗かせたが、先程ウルに叩きつけられた圧倒的な殺気の記憶が新しいのか、下劣な野次を飛ばしてくる者はいなかった。

代わりに、彼らはヒソヒソと気味悪そうに囁き合う。


「あれ?おい、さっきのガキと狼じゃねえか」

「なんだって二度も……。例の殺人鬼に、またお供え物かよ」

「……この街のヤツら、一体どうなってんだ?薄気味悪りぃ」

「普通、そういうのって、渡してえって当事者の中で有志を募るもんじゃねえの?」


凶悪犯として投獄されている彼らから見ても、無実の罪を押し付けた上で『最後の晩餐』や『薬』を子供に届けさせる街の住人たちの振る舞いは、異様で不気味なものに映っているようだった。


静まり返った通路を抜け、案内役の看守と共に一番奥の特別牢へと向かう。


「しかし、薬草店からの差し入れねぇ……」


前を歩いていた看守が、コロの手の中にある小瓶をチラリと見て、鼻で笑った。


「連中もくだらねえ気を使ってるようだが、アイツにんなもんは要らないと思うがな。……ほら、着いたぞ。俺はまたあっちで待ってるからな」


看守は忌々しそうにそう言い残すと、やはり特別牢には近づこうとせず、足早に階段の方へと戻っていった。




コロは木盆を持たず、今度は小さな薬瓶だけを手にして、薄暗い檻の前へと歩み寄った。


「……はい、これ。薬草店のおじさんからのお使いだよ」


鉄格子越しに、スッと静かに薬瓶を差し出したコロ。

差し出した薬瓶を見つめながら言葉を継いだ。


「心穏やかになれる鎮静剤だよ。かなりの品質のものだね」

「……ああ。何度もすまないね」


鉄格子の向こうの男は、手枷の鎖を鳴らしながら静かに薬瓶を受け取った。

男は深い碧色の液体が入ったその小瓶を、壁に掛けられた僅かなランプの灯りへとゆっくりと透かした。

揺らめく灯りが小瓶のガラスと碧い液体を通り抜け、冷たく無機質な石壁に、波打つ水面のような淡い影を映し出した。

それはまるで、このカビ臭い地下牢の奥底に、突然、透き通るような美しい湖畔が現れたかのような錯覚を抱かせる光景だった。

彼の青白い横顔に落ちるその水面のような影は、死の恐怖など微塵も感じさせない。

彼はまるで、その小さな瓶の中に広がる自分だけの世界で、すでに幻の恋人と語り合っているようだった。


「……死んだら、アンのもとへ行けるだろうか」


男の口から、ポツリと独り言のような言葉がこぼれ落ちた。

アン。それが、彼が殺したとされている、最愛の恋人の名前なのだろう。


「俺は、ちゃんとアンと同じ天国へ行けるだろうか。昔から、罪人は地獄へ落ちると言うけれど……女神は、女神だけは俺のことをしっかりと見極めてくれるだろうか」


ランプの灯りを見つめたまま、男は静かな声でコロに問いかけた。

幼い少女の姿をした旅人に死後の世界の保証を求めるなど、正気の沙汰ではない。

だが、彼はコロの氷藍色の瞳の奥に、常人とは違う『何か』を見透かしているようだった。


「……女神様はね」


コロは鉄格子越しに男を見つめたまま、淡々と、しかし確かな声で紡いだ。


「生きていた頃の細かいことなんて、何も見ていないよ」

「見ていない……?」


返事が返ってくると想定していなかったのか、男はハッと我に返ったようにコロの氷藍色の瞳を見つめる。

コロは一切臆することなく、隣で行儀良く座るウルの首元にポンを手を当てながら言葉を継いだ。


「うん。誰が善人で、誰が悪人で、誰が誰を愛していたかなんて些事だから。この世界に溢れる大勢の人類の一人ひとりを把握するのなんて無理だよ」

「……それはそうかもね。はは、そうかもね」

「ただね、自分のもとに帰ってきた魂を『お疲れ様』って抱きしめて、綺麗に洗って、また次の器(からだ)へと還していく。それだけだよ」


男の願う『愛の証明』も『罪の裁き』も、そこには存在しない。

あるのはただ、絶対的で無機質な、途方もない慈愛のシステムだけだ。


「……教会の教えとは、随分違うね」


男は一瞬だけ目を丸くしたが、やがてフッと柔らかく微笑んだ。


「でもね……不思議と今は、君のその言葉の方が心地よく聞けるかな」


男はランプから薬瓶を下ろし、大切そうに両手で包み込んだ。

その静かすぎる横顔を見て、コロの中に、一つの抑えきれない疑問が湧き上がった。


「……ねえ、お兄さん」


コロが何かを質問するとは思っていなかったのか、ウルのピンと立った耳が、クルッと横を向いた。


「なんだい?」

「街の人達だけじゃない。ここの衛兵も看守も、囚人たちですら、あなたが罪を犯したとは思っていないよ」

「そうか」

「なぜ『やったのは自分じゃない』と言わないの?お兄さん、明日死んじゃうって聞くよ」


生き物である以上、迫り来る死には最後まで抗うのが普通だ。

それが不条理な暴力であればなおさら、真犯人を憎み、復讐に生きるのが生物としての本能であるはずだ。

コロとウルにとって、同族の薄汚い悪意に一切抗うことなく、自ら殺されようとしているこの男の生態は、どうしても理解しがたいものだった。


コロの純粋な疑問に、男はまるで悪戯を見つかった子供のように、少しだけ困ったように笑った。


「……もうね、アンがいない世界に用事はないんだよ」

「……」

「俺がどんなに声を上げて無実を証明しようと、どんなに復讐心を抱いて真犯人を殺そうと……アンがいるのは、天国のままじゃないか。この世界のどこを探しても、もうアンはどこにもいない」


男の言葉には、狂気的なまでの純粋な愛と、この世界に対する絶対的な諦観が入り混じっていた。


「だからね。俺は、この社会の仕組みを利用して、アンのもとへ行こうと思ったんだ」

「社会の仕組み……」

「そう。自ら命を絶つ勇気がない俺を、彼らが確実にあちら側へ送ってくれる。こうして、君みたいな可愛い配達員が、高価な鎮静剤まで届けてくれるだろう?それもタダで」


男はそう言って、再び薬瓶を愛おしそうに撫でた。

街の人間たちが自己保身と罪悪感で回している薄汚い正義の歯車すらも、彼は「最愛の人の元へ向かうための切符」として利用していたのだ。


男は冷たい石の壁に背を預け、目を閉じた。


「……俺は、アンのもとへ行けるだろうか」


それはコロに向けた問いではなく、彼自身の魂に向けた祈りのような独り言だった。


コロは何も言わなかった。

無言のまま、静かに踵を返す。


ウルの足音だけがカビ臭い地下牢に響く中、一人と一匹は、二度と後ろを振り返ることなくその場を後にした。


挿絵(By みてみん)

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