綺麗な死刑囚と、嘘の罪 1 〜無実の生贄と、透明な匂い〜
1.
旅の途中で立ち寄った、とある片田舎の街にて。
日が傾き始めた頃。
コロとウルが滞在先として決めた宿の食堂では、主人が厨房の前でひどく頭を抱えていた。
「おい、誰か行ってこいよ。ただお盆を置いてくるだけだろ」
「絶対に嫌ですよ!明日処刑されるんですよ?見に行けませんって……!」
「とは言え、誰も行かないって訳にはいかんだろ……」
「じゃあガイさんが行ってくださいよ。置いてくるだけなんでしょ?」
「ば、馬鹿言え!俺はアレだ……忙しいんだよ!リリー、お前行け」
「えー?あそこ臭いしぃー、怖いから嫌ですよー」
「そもそもガイさん、もう忙しくないじゃないですか!あと、なんか仕事っつー仕事、残ってましたっけ?」
「あ、えっ!?そ、そりゃあ……あっ!コロッと忘れてた!忙しいんだった!だからマルセル、行ってこい」
「コロッとって……!お、俺は嘘じゃなくて本当に忙しいから嫌ですよ!」
「リリー、鼻に詰め物詰めて行きゃ臭えのは解決するだろ?怖えのだけ我慢して行け」
「ヤダ!私も普通に忙しいしぃー、ダメでーす」
「忙しい忙しいって、お前らアレだろ?」
「えー、ガイさんだってぇー、同じ穴の狢じゃないですかー」
「そうですよ!」
従業員たちが口々に文句を言い、誰も主人の指示に従おうとしない。
少し離れたテーブルでそのやり取りを眺めていたコロは、隣で欠伸をしているウルと顔を見合わせると、トコトコと主人の元へ歩み寄った。
「おじさん、何か困ってるの?仕事なら話を聞くよ」
「ん?ああ、お嬢ちゃんか。いやな……明日の朝、広場で死刑になる男がいてな」
「死刑?へえ」
「この街じゃあな、処刑の前夜には豪勢な『最後の晩餐』を差し入れる決まりなんだが……」
主人はチラリと従業員たちを睨みつけた。
「今回はうちの店がその当番なんだがな?うちの連中ときたら、どいつもこいつも嫌がりやがって。だが、誰かが地下牢まで持っていかなきゃならねえんだ」
「ふーん。そういうことなら、私が代わりに行ってあげようか?」
コロのあっさりとした提案に、主人は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「だ、ダメだ!いくら鉄格子越しとはいえ、あそこの刑務所には凶悪犯がゴロゴロいるんだぞ!?こんな小さな子供を行かせるわけには……」
「別に私が誰かを逃がすわけでも、殺されるわけでもないでしょ。ただのお弁当配達なら、サクッと行ってくるよ」
コロは淡々と事実だけを述べると、スッと交渉のカードをきり始める。
「その代わり、私たちの今夜の宿泊代と、私の相棒のウルの夕食……あそこに吊るしてある特大の骨付き肉を、タダにしてほしいんだけど」
主人は少しの間迷っていたが、背後で従業員たちが「お嬢ちゃんに行かせましょうよ」と必死に懇願してくるのに負け、大きくため息をついた。
「……よし、分かった。でも、決して鉄格子には近づくんじゃないぞ?……それと、あいつには何も話しかけなくていいからな」
「商談成立だね」
こうして、一人と一匹は夕食の特大肉を手に入れるため、極めて実務的でドライな理由から、死刑囚の待つ地下牢へと足を運ぶことになったのだ。
『餌を運ぶだけで宿代と肉がタダか?虫が良すぎるぞ』
「虫が良くても悪くても、サッと行ってパッと届けるだけでしょ。どうせ暇だしいいよ」
『ふむ、まぁ……それもそうか』
そう言いつつむくりと起き上がったウルが、大きな欠伸をしながら身体を伸ばしている。
「まぁ、掲示板の仕事を請け負ったと考えたら『おいしい仕事』の部類だよ」
コロも肩を竦め、ピンと伸びているウルの尻尾をふわっと撫でつけた。
夕暮れの気配が色濃くなり始めた街の通りを、一人と一匹は並んで歩いていた。
コロの小さな両手には、温かいミートパイと果実酒の小瓶、そして色鮮やかなサラダが乗せられた大きな木盆が掲げられている。
周囲には夕食時のパンが焼ける匂いや、シチューの香ばしい匂いが漂う平和な街並みが広がっている。
だが、街の外れに位置する刑務所へと近づくにつれ、人通りはまばらになり、空気は少しずつ冷たく、重みを増していった。
やがて目の前に現れたのは、高くそびえ立つ無骨な石積みの外壁と、重苦しい鉄格子の門だった。
門の前で一人と一匹は立ち止まり、まじまじと鉄格子の門を眺める。
『カビ臭い建物だな』
「まぁ、罪人を収容しておく施設なんてそんなもんじゃない?」
『それもそうか』
「ほら、さっさと済ませよう」
一人と一匹は再び歩みを進めた。
門を固めていた二人の衛兵が、見慣れない少女と巨大な狼の姿に怪訝な顔をして槍を交差させる。
「止まれ!ここは重罪人を収監する刑務所だぞ。迷子なら他所へ行け」
「迷子じゃないよ。宿屋からの出前。明日の朝に処刑される人への、『最後の晩餐』だってさ」
コロが手にした木盆を見せると、二人の衛兵は顔を見合わせ、露骨に嫌悪感を滲ませた表情を作った。
「え?ああ、あの『恋人殺し』の分か……」
「嘘だろ?宿の連中……いくら嫌だからってこんな子供にお使いを押し付けるとはな」
「まぁ気持ちは分かんでもないが……」
「別に押し付けられたわけじゃないけどね。きちんとした商談の結果だよ」
ケロッとそう口を挟んだコロの言葉に、二人の衛兵は呆気にとられてしまう。
「ははっ、ませたガキだ。……よし、通れ。だが、中に入ったら絶対に看守の指示に従えよ?あの男の檻は、一番奥の地下特別牢だ」
ギゴギゴと、耳障りな音を立てて重い鉄の扉が開かれる。
中へ入ると、案内役の看守に連れられ、松明の灯りだけが頼りの薄暗い螺旋階段をどこまでも下へと降りていく。
頭上の石畳を馬車が通り過ぎるたびに、埃の舞う天井からパラパラと細かな砂が落ちてくる。
日光の届かないその場所は、年中湿り気を帯びたカビの匂いと、行き場を失った囚人たちの溜息が重く淀んでいた。
階段を下りきると、鉄格子で仕切られた檻が両脇にずらりと並ぶ、カビ臭い一本道に出た。
コロが手にした木盆から漂う、焼きたてのミートパイと果実酒の芳醇な匂いは、飢えた囚人たちの鼻腔を否応なく刺激したようだ。
暗がりの中で、鉄格子に泥だらけの顔や薄汚れた手が次々と押し付けられる。
「おいおい、なんだその美味そうな匂いはよう……!」
「俺にも一口くれよ!パンの耳でもいい!」
「ひひっ、なんだあのガキは。飯なんかより、そのお嬢ちゃんをこっちの檻に入れろよ。たっぷりと可愛がってやるからよぉ!」
薄汚れた野次と、下劣な笑い声が地下牢に反響する。
看守が「静かにしろ!」と怒鳴るが、飢えた囚人たちにその声は届かない。
コロは彼らの品定めの視線を一身に浴びても、表情一つ変えずにただ木盆のバランスを取って歩いていた。
『……チッ』
だが、コロの斜め後ろを歩いていたウルが、不快げに低く喉を鳴らした。
『薄汚いドブネズミ共が。……俺の相棒を、その汚い目で見ているんじゃない』
「放っておきなよ。どうせ檻の中からじゃ、何にも出来ないんだから」
『……チッ、それもそうか』
ウルが不満げに鼻を鳴らし、少しだけ漏れ出た本能的な圧力と、コロの底知れない無関心さに当てられたのか、囚人たちは急に気圧されたように口を閉ざし、檻の奥へと引っ込んでいった。
「ここだ。俺は向こうの階段のところで待ってる。大人しいヤツだから、そんなに身構えんで良いからな」
案内役の看守は一番奥の分厚い石壁に囲まれた特別牢の前で立ち止まると、それ以上奥へ進もうとはしなかった。
コロは木盆を持ったまま、薄暗い檻の前へと歩み寄る。
「……はい、これ。宿の主人からの出前だよ。頼まれて持ってきた」
「……ああ。こんな暗い所まで、わざわざすまないね」
鉄格子の向こう側に座る男に向かって、コロは木盆を差し出した。
冷たい石の壁に背をもたれかかっていた男は、鎖の擦れる重い音を立てながら静かに立ち上がった。
手枷と足枷に繋がれ、ひどく痩せ細っているというのに、その身のこなしには不思議なほど力みがなく、悲壮感も漂っていない。
ボロボロの囚人服を着た男は、受け取った木盆を膝の上に乗せ、静かに微笑んだ。
普通なら飢えた獣のように食事にがっつくはずの環境にあって、彼はまるで丁寧に淹れられたお茶でも振る舞われたかのように、穏やかな手つきでミートパイを見つめている。
その顔には、死を明日に控えた者特有の、脂汗の浮いた恐怖や、世界を呪うような未練は微塵も感じられない。
男はただ、鉄格子の上の僅かな隙間から漏れ出る、針の先のような月光を穏やかな目で見つめている。
『……おい、コロ』
不意に、背後に控えていたウルが低く喉を鳴らした。
冷たい石の床に爪を立て、鉄格子の向こうの男を値踏みするように睨みつける。
「どうしたの、ウル」
『こいつ……人を殺した奴特有の、骨の髄にこびりつくような鉄錆びた血の匂いも、それを隠そうとする獣じみた脂汗の匂いもしない。……むしろ、死の恐怖すらも完全に抜け落ちたような、ただ、ひどく透明で、からっぽな匂いだ』
ウルの言葉に、コロは男の顔を改めてじっと見つめた。
氷藍色の瞳が、男の纏う空気を見極めていく。
「そうだね、ウル。ねえ、お兄さん」
「なんだい?」
「お兄さんは、人を殺したことがないね」
「……どうしてそう思うんだい?」
『唯一の理解者が現れた』というような希望は、その男の瞳には一切存在していなかった。
冤罪を晴らすチャンスを求めてすがりついてくる気配も、不条理な運命に対する怒りも無い。
薄暗い牢屋の闇の中で、その瞳の奥には、まるで風のない日の湖のように、ただただ静寂だけが凪いでいた。
「心がね、穏やかすぎる。透き通る綺麗な湖みたい」
「透き通る綺麗な湖……か」
木盆に載せられていた木のスプーンをそっと手に取った男が、まるで愛しい人の指先にでも触れるかのように優しくそれを握りしめ、ここではない遠くを見つめながら言葉を継いだ。
その表情は、ひんやりとした地下牢の空気を感じておらず、どこか暖かな日差しの中にいるようだった。
「……賢いお嬢さんと、鼻の利く立派な相棒だ。でも、もういいんだよ」
男は、自分の無実を言い当てられたというのに、助けを求めるどころか、困ったように眉を下げて笑った。
「明日には、俺は出発する。……だから、宿の主人や皆には、美味しい食事をありがとうと伝えておいてくれ。冷めないうちに頂くよ」
男の瞳は、すでにこの薄暗い牢屋の中にはなく、はるか遠くの『綺麗な湖』のような場所を見つめていた。
コロはそれ以上何も聞かず、「分かった」とだけ短く応え、踵を返した。
「……終わったか。盆だけ置いてきたんだろうな?何か妙なことを吹き込まれてないよな?」
階段の入り口で待っていた案内役の看守が、戻ってきたコロを見てホッとしたように声をかけた。
「うん。置いただけだよ。お兄さん、宿の皆にありがとうって伝えておいてくれってさ」
「そうか……そうだよな。察しの通りだ」
看守の複雑な心境を表すような言葉。
自らの胸の奥に澱んだ何かを無理やり飲み込むように、彼は深々と息を吐き出した。
そのまま看守はコロとウルを促して螺旋階段を登り始めた。
重い足音が湿った石壁に陰鬱に反響し、誰もが押し黙ったまま、ただひたすらに上を目指す。
背中を向けて歩く看守の肩は、見えない重圧に押し潰されているかのように丸まっていた。
地下牢から地上へ続く階段を登り切ると、詰所には安っぽい煙草の煙が充満していた。
換気の悪い部屋に紫煙が低く立ち込め、まるで彼らの晴れない心境そのもののように視界を濁らせている。
コロは髭面の看守長らしき男から、受領印の押された紙切れを黙って受け取る。
看守長はコロの澄んだ目を真っ直ぐに見ようとはせず、ひどくバツが悪そうに視線を書類へと逃がしていた。
コロが詰所の重い木の扉を開けようとした、その時だった。
背後の机で煙草の灰を落としていた看守長が、同僚に向かってボソリと零す声が聞こえた。
「……あの男がやってねえって噂は、やっぱり本当なんだろうな……」
「おい、しっ……!声がでけえよ」
「分かってるよ。でも、例の令嬢を殺したのは、街の有力者の息子だって話だろ?」
「そりゃお前……まぁ、な」
「今さらもう覆らねえけどよ。あいつ、捕まった時に一言も弁明しなかったらしいからな」
「……まあ、明日には広場で首が飛ぶ。運がなかったんだよ、あの男」
看守たちは、後味が酷く悪そうな口ぶりで語っていた。
看守長は忌々しそうに、短い吸い殻を灰皿へ何度も強く押し付けて火を消した。
その乱暴な所作には、どうすることもできない自分たちの無力さに対する、やり場のない苛立ちが滲んでいる。
コロとウルは振り返ることなく扉を開け、眩しい街の陽光の中へと歩み出た。
重苦しい罪悪感に満ちた石造りの建物を背にすると、外には何も知らないオレンジ色の夕日が、皮肉なほど美しく、平穏な街並みを照らし出していた。
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