石の都と、泥濘の記憶 3 〜歴史の懺悔と、カッコウの托卵〜
3.
夜明け前。
青白い月明かりが少しずつ白み始め、カルスト台地の空が淡い桔梗色に染まる頃。
一人と一匹は、夜露に濡れた薬草で満たされた鞄を揺らしながら、白亜の都市モースの正門へと帰り着いた。
「ふぁ……流石に徹夜で歩き回ると少し眠いね」
『フン。だが、その甲斐はあったというものだ。あの忌々しい軍勢の臭いも、今は遠ざかっているからな』
ウルが鼻先をピクつかせる通り、昨夜遭遇した獣人族の軍勢は、街に直接なだれ込むのではなく、周囲のドリーネや岩陰に身を潜めて包囲網を敷いているようだった。
嵐の前の静けさというやつだ。
しかし、モースの街そのものは、静寂とは程遠い異様な熱気に包まれていた。
「……なんだか、昨日よりも人が多いね。それも、物騒な格好の人たちばかり」
コロが街の広場を見渡すと、朝日が昇り始めたばかりだというのに、広場には金属の擦れ合う音と怒号が飛び交っていた。
慌ただしく走り回る正規軍の兵士たちが、荷馬車から大量の槍やバリケード用の木材を下ろし、街の外周に仮設の陣を設営し始めている。
そして何より目を引くのは、どこからともなく『戦いの匂い』を嗅ぎつけて集まってきた、荒くれ者の傭兵たちのようだ。
「おい!今度の相手は野良猫の集まりだってな!右耳一つにつき銀貨何枚だ!?」
「久しぶりの大仕事だな!俺のこの戦斧で、綺麗に皮を剥いで絨毯にしてやるよ!」
刃こぼれだらけの剣を研ぐ者、朝から強い酒を煽って気勢を上げる者。
彼らの顔に浮かんでいるのは、街を守るという使命感ではなく、これから始まる殺戮と略奪への下劣な期待だけだった。
『……どいつもこいつも、自分たちが狩る側だと信じて疑っていない顔だな。実に滑稽だ』
「そうだね。昨日のあの『大角熊』を操っている軍勢相手に、あの程度の装備じゃ半日も持たないと思うけど」
『興味はないが、どっちの軍勢も五十歩百歩だろう』
「……まあ、私たちには関係ないね。ウル、約束通りお腹を満たしに行こうか」
『おお!待っていたぞ、その言葉を!』
これから血の雨が降るというのに、一人と一匹の関心事は、もはや目前の「朝食」にしかなかった。
コロとウルが足を向けたのは、市場の裏手にある、庶民や労働者向けの大衆食堂だった。
まだ薄暗い店内は、出陣前に腹ごしらえをしようとする兵士や傭兵たちでごった返しており、むせ返るような男たちの汗の匂いと、安っぽいエールの香りが充満している。
「おばさん、羊の肉。鉄の円盾に乗せて焼くやつを、一番大きなサイズでお願い」
「あいよ! 朝から景気がいいねぇ、嬢ちゃん!」
ドサリ、と重たい音を立てて木製のテーブルに運ばれてきたのは、使い込まれた鉄の円盾を裏返したような分厚い鉄板だった。
その上では、新鮮な羊の腿肉が、これでもかと豪快に敷き詰められている。
ジウゥゥゥッ!!という暴力的な音と共に、羊肉特有の濃厚な脂が熱された鉄板の上で弾け飛び、香ばしい煙がもうもうと立ち上った。
表面には岩塩と粗挽きの香辛料がたっぷりとまぶされており、肉の焼ける匂いが周囲のエールの匂いを一瞬で駆逐していく。
『……おお……!』
ウルの黄金色の瞳が、かつてないほどに輝いていた。
普段の冷静沈着なアッシュウルフの面影など微塵もなく、ただ鉄板の上で焦げ目をつけていく肉の塊を、喉をゴロゴロと鳴らしながら見つめている。
「ほらウル、もう食べていいよ。火傷しないようにね」
『バカ言え、火傷などするか!!』
ウルは鉄板に顔を近づけると、熱々の肉塊を骨ごとガブリと咥え込んだ。
ボリッ、メキメキッ! という硬い骨を砕く音と、ジュワリと溢れ出す肉汁の音が混ざり合う。
『……たしかに美味いな!表面の香ばしさと、内側の生々しい血の味が絶妙に絡み合っている!』
「あはは、気に入ってくれてよかったよ。これぞウルにとっての『聖戦』だね」
コロも自分の分の肉をナイフで小さく切り分け、口に運ぶ。
噛み締めるたびに弾力のある肉から旨味が溢れ出し、徹夜の薬草採りで疲れた身体の隅々にまで染み渡っていくようだった。
外で軍勢が殺し合いの準備をしていることなど完全に忘れ去ったかのように、一人と一匹は至福の朝食に没頭した。
「そこの年端もいかないお嬢さん」
肉の山が半分ほどに減った頃、不意にコロの背後から声をかける者があった。
振り返ると、そこには不釣り合いなほど神経質そうな、細身の男が立っていた。
煤けたローブを羽織り、分厚い本や羊皮紙を詰め込んだ鞄を抱え込んでいる。
目の下には酷い隈があり、震える指先はインクで黒く汚れている。
どう見ても傭兵や兵士ではなく、学者風情の男だ。
「ん?何か用?」
「……お嬢さん方、旅の方ですね」
「そうだね。一人と一匹、気ままな旅だよ」
「その立派な従魔もいらっしゃる。もし可能なら、朝食を済ませたらすぐにでも、この街を出ることをお勧めします」
男は周囲の傭兵たちに聞かれないよう、声を潜めて早口で告げた。
「……程なくして、このモースの街は戦火に呑まれます。そしてモースは陥落する。北の国境へ向かう『エルマルビル』行きの乗合馬車が、広場の裏手から出ているはずです。それに乗って、一刻も早く遠くへ逃げなさい」
「ふーん。馬車ね」
「ええ。そして……これは私の推測に過ぎませんが、できれば『獣人族の御者』が引いている馬車を選ぶといいでしょう」
その具体的なアドバイスに、コロは羊肉を咀嚼する手を止め、少しだけ目を細めた。
「どうして獣人族の御者がいいの?」
「……今回の北からの侵略者は、ただの野盗ではありません。統率された獣人族の正規軍です。彼らは人間族を憎悪していますが、同胞である獣人の馬車であれば、あるいは見逃される可能性が高い。……それに、あの森や台地の抜け道を知っているのは、古くからこの地にいた彼らの方ですから」
学者の男は、そこまで言うと、酷く苦しそうな表情で顔を歪めた。
「……うん、そうだね。ウルも目立つし、その方が効率的に逃げられそうだよ。有益な情報をありがとう」
コロが淡々と、極めて実務的に了承すると、学者の男はホッとしたような、しかし同時に、どうしても吐き出さずにはいられないというように、震える唇を開いた。
「……彼らが攻めてくるのは、我々に対する『正当な報復』なのです」
「報復?」
コロが聞き返すと、学者の男は抱え込んだ鞄をギュッと握りしめ、まるで懺悔をする罪人のように語り始めた。
「私はこの街の歴史院の地下書庫で、禁書とされている四百年前の古い記録を読んでしまったのです。……この美しい白亜の都市が、どのようにして築かれたのかを」
男の声は微かに震えていた。
「四百年前、この豊かなカルストの盆地には、猫の獣人族たちが平和な集落を築いていました。そこへ、北の飢饉から逃れてきた人間族の難民――つまり我々の先祖が流れ着いたのです。獣人たちは哀れな我々の先祖を歓迎し、温かいスープを振る舞い、冬を越すための家畜の飼い方まで教えました」
そこまで語り、男はギリッと奥歯を噛み締めた。
「しかし、翌年の『収穫祭』の夜。人間族は獣人たちを祝宴に招き……そこで出された酒に、致死量の毒を盛ったのです」
「……」
「毒で動けなくなった獣人たちを、男も女も、幼い子供でさえも、我々の先祖は生きたまま毛皮を剥ぎ、笑いながらなぶり殺しにしました。逃げ惑う者は猟犬を放って狩り尽くし……彼らの骸を、あのドリーネの底に無数に投げ捨てたのです」
食堂の喧騒の中、男の語る凄惨な歴史だけが、冷たい泥濘のように足元に広がっていく。
「そして我々は、その骸の上に分厚い石灰岩を敷き詰め、この白々しい街を建てた。彼らの流した血の上に、今の我々の繁栄がある。……今、街の広場で正義を気取っている傭兵たちや、無邪気に笑う子供たちでさえ、その呪われた罪の上で生きているのです! ……ああ、神よ!彼らが我々を皆殺しにしに来るのは、当然の権利だ!」
学者の男は、絶望と罪悪感に押し潰されそうになりながら、頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
知識を得てしまったがゆえに、これから起こる虐殺を「神の罰」として受け入れるしかないという、悲痛な叫びだった。
「……」
「こちらは平和ボケした軍勢なのに対し、あちらは四百年間も牙を研ぎ続けた軍勢……私も逃げますが、ここはもう陥落する……!」
コロは、学者の語る身の毛もよだつ凄惨な歴史を、最初から最後まで、一切の表情を変えずに黙って聞いていた。
相棒のウルに至っては、学者の話など全く耳に入っていない様子で、最後の骨の髄まで美味そうにしゃぶり尽くしている。
「ごちそうさま。おばさん、お会計」
コロは鞄から銀貨を取り出してテーブルに置くと、口元の脂を布で拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「……あ、あの……」
「ねえ、おじさん」
頭を抱える学者を見下ろし、コロは本当に、心底不思議そうな声で言った。
「おじさんは賢いから色んな本を読んできたんだろうけどさ。……それ、人類の歴史の中で、飛び抜けて残酷で珍しい話というわけではないと思うけどね」
「な、なに……?」
コロの氷藍色の瞳には、憐憫も、嫌悪も、歴史に対する憤りも存在しなかった。
「親切にしてくれた相手を油断させて裏切って、皆殺しにして、豊かな土地と資源を丸ごと奪う。そして自分たちの都合のいいように歴史を書き換える。……それって、人類という生き物が勢力を拡大する時に使う、ごく一般的な『常套手段』だね。四百年前にこの場所で、たまたまそれが効率よく実行されたってだけで」
「こんな凄惨な裏切りが、一般的な手段だと!?」
「他所の大陸の歴史は明るくない?安心して、別におじさん達の祖先が飛び抜けて残虐って訳じゃないから。それにね、おじさんはカッコウの托卵する習性に嘆き悲しむ?元からある卵を落とすなんて残虐だって。そんなことはないよね。だって、そういう生き物だもん」
「そ、そんな……!」
「実際、今おじさんたちが着てる服も、食べてる肉も、そうやって誰かから奪った土地の上に成り立ってるわけでしょ。今更『我々は罪深い』なんて頭を抱えられても、何を寝惚けたこと言ってるのって感じかな」
コロの身も蓋もない、極めて生物学的な事実の羅列に、学者の男は言葉を失い、ポカンと口を開けた。
彼が必死に抱え込んでいた『歴史の重罪』という名の悲劇は、目の前の幼い少女によって「よくある縄張り争いの手法の一つ」として、あっさりとゴミ箱に捨てられたのだ。
「まぁ、馬車のアドバイスは助かったよ。火の粉が被る前に、私たちは失礼するね。……ほらウル、行くよ」
『フン。満足した。最高の聖戦だったぞ』
コロは呆然と立ち尽くす学者をその場に残し、満腹で機嫌の良さそうなウルの背中を叩いて食堂を後にした。
外の広場では、相変わらず傭兵たちが「悪いヤツらを皆殺しにしてやる」と威勢のいい声を上げている。
人間族が築いた白亜の虚構と、獣人族がもたらす血塗られた復讐。
そのどちらにも一切の興味を示すことなく、一人と一匹は、乗合馬車の発着所を目指して、白々しい朝の街を身軽に歩き出していった。
二頭立ての乗合馬車が、乾いた土煙を上げてカルスト台地に伸びる街道をひた走る。
御者台に座る獣人族の男は、時折背後の白亜の都市を振り返っては、微かに口元を歪めていたが、乗客である一人と一匹に干渉してくることはなかった。
心地よい馬車の揺れと、満腹感。
隣で丸くなって高いびきをかいているウルの温もりを感じながら、コロはゆっくりと微睡みの中へと落ちていった。
※ ※ ※
ふわり、と。
血生臭い傭兵たちの匂いや、立ち込める土煙の匂いから一転して、鼻腔をくすぐるような甘く清らかな香りがコロを包み込む。
真っ白な空間で、コロは女神の温かい腕の中にいた。
「おかえりなさい、私の愛おしいコロ」
「ただいま、女神様。……あの街、今夜あたり騒がしくなるかな」
「ええ、なんだか人類たちがせわしなく動いているわね。……それよりも、朝の羊肉は美味しかった?」
女神にとって、人間族と獣人族が何百年の憎しみをぶつけ合い、ひとつの美しい都市が灰燼に帰すことなど、庭の隅でアリが喧嘩をしている程度の、死ぬほどどうでもいい些事に過ぎない。
それよりも、愛しいコロが美味しい朝食を食べられたことの方が、よほど宇宙の重大事なようだ。
「うん、すごく美味しかった。ウルなんて、鉄板で焼いた羊肉を『最高の聖戦』だって喜んでたよ」
「ふふふ。なんて可愛らしい聖戦かしら。人類が一生懸命に理由をつけて殺し合う『聖戦』なんかより、ずっと実りがあって素晴らしいわね」
「ウルったらね、『火を通すなど、人類の軟弱な文化』だなんて言ってたくせに、いざ焼いた羊肉を食べたら大興奮してるの!」
「見てたわ!ふふふっ、尻尾なんてブンブン振っちゃって!」
女神はクスクスと笑いながら、コロの銀髪を優しく撫でつける。
「そういえば、物知りなおじさんがね、自分たちのご先祖様の所業に頭を抱えてたから、カッコウの托卵と同じだよって教えてあげたんだけど、あんまりピンときてなかったみたいかな」
「そうね。彼らは自分たちがただちょっと賢い『動物』であることを、どうしても認めたがらない不器用な子たちだから。……でも、そういう無駄な悩み方をするのも、彼らの愛おしいところなのよ」
女神は慈愛に満ちた瞳で微笑み、コロの頭の上の狼の耳をゆっくりと撫でた。
「あなたは、あなたのままの『算段』でいいのよ。……さあ、ゆっくりおやすみなさい。火の粉の届かない、安全な場所まで」
「うん……おやすみ、女神様」
女神の温かい声に包まれながら、コロは再び深い眠りの中へと溶けていく。
現実のカルスト台地では、遠ざかる白亜の都市の澄み渡る青空に、いよいよ黒い煙が上がり始めていた。
だが、心地よく揺れる馬車の中で眠る一人と一匹が、その焦げ臭い煙に気づくことは、もう二度となかった。
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