↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
元・魔物の少女と魔狼の異世界観測記 〜狼の鼻と、神の余暇〜  作者: 三沢 七生


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
67/148

石の都と、泥濘の記憶 2 〜崇高な聖戦と、ただの縄張り争い〜

2.


すり鉢状になったドリーネの底には、濃い乳白色の霧が、まるで澱んだ水のように重く立ち込めていた。


切り立った白い石灰岩の壁が月明かりを遮り、見上げれば丸く切り取られた夜空だけが覗いている。

まるで巨大な井戸の底に閉じ込められたかのような、奇妙な閉塞感と冷気が肌にまとわりついてきた。


冷たい夜露を吸って淡く発光する『白影草』を、コロは手際よくナイフで根元から刈り取り、鞄へと納めていく。

少し離れた岩陰では、ウルが先程買った羊の生肉を、骨ごと「ボリッ、メキッ」と豪快な音を立てて噛み砕いていた。


「……うん、ここのドリーネだけでも結構な量が採れたね。ウル、そっちの食事の進み具合はどう?」

『フン。焼かなくとも十分に美味い。やはり血肉の味こそが至高……ん?』


ウルの顎の動きが、ピタリと止まった。

血に染まったマズルをスッと持ち上げ、霧の向こう――北の闇夜へと鋭い視線を向ける。


『……コロ。下がれ』


先程までの呆れ半分の態度とは打って変わった、絶対的な捕食者としての低く冷酷な声。

コロは無言でナイフを構え直し、ウルの背後へと静かに後退した。


「魔物?それとも、ただの獣?」

『いや……違う。これは、もっとずっとタチの悪い連中だ』


――ズズッ……ズッ……


静寂に包まれていたドリーネに、潜むような足音が響き始めた。

それは単なる足音ではなく、冷え切ったカルストの岩肌を微かに震わせる、重く湿った地鳴りだった。


やがて、立ち込める霧を切り裂くようにして、赤黒い松明の炎が浮かび上がった。

炎の揺らめきが、這い寄る無数の影をドリーネの白い岩壁に不気味なほど巨大に投影している。


現れたのは、ボロボロの革鎧や継ぎ接ぎの鎖帷子に身を包んだ、数名の獣人だった。

二足歩行をする筋骨隆々の肉体に、鋭い爪。

そして、暗闇の中でらんらんと黄金色に光る、猫科特有の獰猛な瞳。

人間族の色が限りなく薄い、純粋な獣人族だ。


「……獣人族。猫の獣人ってところかな」


昼間、ミルク売りの妊婦が憎々しげに語っていた『悪いヤツら』の正体が、今、一人と一匹のいるドリーネに続々とやってきた。

彼らの身なりは決して豊かとは言えなかったが、その手にある武器――無骨な大剣や、血こびりついた戦斧――だけは、異常なほどに鋭く研ぎ澄まされていた。


何よりも異様なのは、その『匂い』だ。


『……昼間、あの白々しい街の石畳の下で嗅いだのと似た匂いだ。何百年も煮詰めたような、ドス黒い憎悪の悪臭がする』


ウルの言葉通り、彼らの歩みからは、略奪者特有の「富への執着」や「野心」といったものは一切感じられなかった。

あるのはただ一つ。

奪われた故郷を取り戻し、簒奪者たちを皆殺しにするという、狂気にも似た純粋な『使命感』だけだ。


不意に、先頭を歩いていた一際大柄な獣人の戦士が歩みを止め、霧の奥に佇む一人と一匹を鋭く睨みつけた。

顔の半分を古い火傷の痕で覆われたその戦士は、大剣の柄に手をかけ、威嚇するように喉を鳴らす。


「……何の用だ、狼の従魔と、半獣の小娘。我々の『聖戦』の邪魔立てをする気か」


戦士の言葉には、一片の迷いもない。

彼らにとって、これから向かう先で行う凄惨な殺戮は、まごうことなき『正義の執行』なのだ。


ウルが牙を剥き出しにして低い唸り声を上げるが、コロはスッと手を挙げて相棒を制した。


「邪魔立ても何も。私たちは見ての通り、ただ薬草を摘んでいただけだよ」


コロの氷藍色の瞳と、戦士の黄金色の瞳が、冷たい夜気の中で交差する。

戦士はコロたちがモースの街の住人らしく純粋な人間族ではないことを悟ると、ふいっと興味を失ったように視線を外し、再び南の夜空――街がある方角へと顔を向けた。


「同じ獣人の、それも幼子に手をかけるのは心苦しいが、今この段階で我々の拠点のうちの一つが割れるのはマズいな」


その言葉と共に、戦士がギラリと血走った目で大剣を構え直した。

周囲の霧の中から、さらに数人の獣人たちが姿を現し、コロたちを半円状に包囲する。


「聖戦」という崇高な言葉を口にしながら、彼らが今やろうとしているのは、作戦の都合によるただの無慈悲な口封じだ。


「……待て。気をつけろ。ただの旅人ではなさそうだ」


軍勢の中から、首に無数の奇妙な紋様を刻んだ小柄な獣人が一歩前に出た。

その手には太い鎖が握られており、霧の向こうから巨大な角を持つ『大角熊(ホーンベア)』を引き連れている。


「我々の中にも、魔物を操る術を持つ『テイマー』はいる。その狼、ただならぬ気配だが……我々全員で囲み、この獣をぶつければ、首を獲ることは容易い」


鎖に繋がれた大角熊が、鼻を鳴らしてウルを威嚇する。

だが、コロは怯むどころか、小さく肩をすくめ、憐れむような笑みを漏らした。


「……ねえ。人類が無理やり洗脳して手なずけられる程度の強さしかないの魔物がいれば、このウルに勝てるとでも思った?」

「なんだと……?」

「テイマーだか何だか知らないけど、その安っぽい鎖一本で繋がっただけの関係が、通じると思ってるなら、随分と自分たちの実力を買いかぶってるね」

『フン……興が削げる。操り人形の相手など、欠伸が出るわ』


ウルが重々しく口を開くと同時に、ドリーネの底の空気が凍りついた。


ウルが放ったのは、単なる殺気ではない。

それは食物連鎖の遥か上層に立つ者が放つ、絶対的な拒絶の波動だ。

草むらで鳴いていた名も知らない虫の音すらも一瞬で消失し、呼吸をすることすら躊躇われるほどの、重く冷たい静寂がドリーネの底に圧しかかる。

その瞬間、テイマーが連れていた大角熊が、悲鳴のような声を上げてその場にへたり込み、激しく失禁した。


「な……っ、おい!立て!戦え!」

「無駄だよ。本能が『死』を理解しちゃったからね。……おじさんたち。あなたたちの軍勢は、本番の前にここで数名……あるいは部隊の半分が消えても、作戦に支障がない感じかな?」


コロは無造作に、先頭の戦士の足元に視線を投げた。


「はっきり言って、人間族だか獣人族だか知らないけど、あなたたちの縄張り争いなんてこれっぽっちも興味がないんだ」

「な、縄張り争いなどと……!」

「大袈裟に『聖戦』なんていうけどさ、動物の狼なんかの縄張り争いと何が違うの?やっていることは要するにそういうことでしょ?」

「そんな単純な事ではないッッッ……!」


激昂した戦士の顔の半分を覆う火傷の痕が、怒りと憎悪で赤黒く爛れたように歪む。

太い首筋には青筋が浮かび上がり、力任せに握りしめられた大剣の柄からは、ギリギリと軋むような音が鳴った。


「我々の祖先は、飢えてこのカルストに迷い込んできた人間どもに、温かいスープと寝床を与えたのだ!だが奴らはどう恩を返した!?仲間を呼び寄せ、夜闇に乗じて我々の村に火を放ち、女も子供も老いぼれも関係なく、生きたまま毛皮を剥いで笑っていたんだぞ!!」


戦士の悲痛で血生臭い叫びが、夜のドリーネに木霊する。


「奴らは我々の同胞の血肉を土に混ぜ、その上にあの忌まわしい『真っ白な街』を建てたのだ! 挙句の果てに、今のあいつらは自分たちの先祖が何をしたかも忘れ、被害者ぶって神に祈りを捧げ、平和を享受している! ……これがただの縄張り争いだと!?笑止ッッッ!!……これは、奪われた魂の尊厳を取り戻すための、血の粛清だ!!」


戦士の目には、狂気にも似た涙すら浮かんでいた。

彼らの背負っている歴史は、あまりにも惨たらしく、重い。

だが、コロは、その血を吐くような戦士の叫びを最後まで無表情で聞き流すと、呆れたように小さく首を傾げた。


「……うん。だから、笑止じゃなくて。それのどこが縄張り争いと違うの?『縄張り争い』って言葉、知らない?」

「なっ……貴様、血も涙も……!」

「後から大きな群れでやってきて、元いた群れの弱い個体を噛み殺して、自分たちの都合のいい住処を作る。……野生の獣や魔物が日常的にやってる生存競争と、全く同じじゃない」


コロの氷藍色の瞳には、一切の同情も、軽蔑すらなかった。

ただ、そこにある物理的な「事実」だけを淡々と述べている。


「ひどい裏切りも、残虐な殺し方も、後から来た群れが生き残るためのただの『効率的な手段』でしょ。人間族も獣人族も、少し賢くて道具が使えるから、やたらと言い訳や歴史の御託が長いだけだよ。……何より、もうどっちにも当事者がいないでしょ?」

「……は?貴様……何を言っている……?」

「いやいや、当事者ではない人たちの割には、随分と熱量が高いなって。数百年前から、この辺りは人間族の町だったし、人間族も獣人族も、結構何世代も世代交代していると思うけどね」

「……っ、き、貴様……!」


戦士はワナワナと唇を震わせたが、それ以上の言葉を紡ぐことができなかった。


目の前の幼い少女が、自分たちとは全く異なる時間軸と、冷酷なまでに合理的な『動物や魔物のような理(ルール)』で世界を見ていることを完全に悟ったのだ。

言葉が通じない。感情も通じない。

それに何より、背後で青白い瞳を光らせる巨大な狼のプレッシャーが、本能に『これ以上の接触は死を意味する』と警鐘を鳴らし続けている。


ここでこの狂った一人と一匹に構うのは、彼らの悲願にとって最大の非効率だった。


「私たちに牙を向けるなら『それ相応の対処』をするよ。……復讐に燃える聖戦士さまが、復讐を遂げる前にここで無駄に全滅するのって、凄く非効率だと思わない?」

「……チッ。引け!こんな場所で無駄に血を流す暇はない。……行くぞ!」


戦士が吐き捨てるように命じると、獣人たちは忌々しそうに、しかし逃げるようにして霧の向こうへと踵を返した。


ズズッ……ズッ……と、軍勢の足音が再び遠ざかっていく。


彼らがこれから向かう先で、罪のない――しかし過去の罪の上に立つ人間族たちの血がどれほど流れようと、コロにとっては本当に「どうでもいい」ことだったようだ。




やがてドリーネに再び静寂が戻ると、ウルは鼻先についた熊の悪臭を嫌そうに前足で拭った。


『……ふん。歴史だ復讐だと御託を並べる割には、あの程度の威圧で尻尾を巻くか。滑稽だな』

「そうだね。結局のところ、仰々しい包みを開けてみたら、やってることはさ、やっぱりただの動物の縄張り争いと一緒だよ」


コロは鞄に薬草を詰め込み、立ち上がった。


「さっきの『操り人形』のオシッコ臭くなっちゃったから、別のドリーネに行こうか」

『だな、単純に臭い。しかしあんな大角熊(ホーンベア)程度で勝ち誇られるとはな。つまらん冗談だ』

「人類がテイミング出来る中では、かなり強い部類だとは思うよ。あれ一頭でも人間族側はまあまあ苦戦するんじゃないかな」


遠く、山の下では、白亜の都市がまだ何も知らずに光り輝いている。

分厚い天然の石壁に守られ、温かい暖炉の火と豊かなミルクの匂いに包まれたその街は、まるで地上にこぼれ落ちた星屑のように美しく――そして死の軍勢が迫っていることなど露知らず、無防備な寝息を立てていた。


明日になれば、あの街は火の海に沈むかもしれない。

昼間、真っ白なミルクを売っていたあの妊婦も、正義を叫んでいた男たちも、等しく血の泥濘の一部になるかもしれない。


「……人類が作った街が燃えて、また別の獣人族の街ができる。……それもいつか、また別の『悪いヤツら』に壊されるまで続く」

『……やはり、単なる縄張り争いではないか』

「どうせすぐに忘れちゃうんだよ。……誰が奪って、誰が奪い返したかなんて。……さあ、次のドリーネに行こうか、ウル」


一人と一匹の影が、月明かりのカルスト台地に長く伸びていく。


『次のドリーネへ行って、夜が明けて街に戻ったら、聖戦とやらで台無しにされるまえに、焼いた羊の肉だからな』

「それくらいの猶予はあると思うよ。ふふ、ウルにとっての聖戦だね」

『聖戦、か。フン、なんでも気軽に聖戦と呼べそうだな』

「ほら、私たちの『聖戦』も、もうちょっと続けるよ」

『フン』


明日には、また新しい「真っ白なミルク」を売る、別の誰かが現れるだけのこと。

そう、一人と一匹にはただそれだけの事でしかなかった。


挿絵(By みてみん)

面白かったという方はブックマークや☆を頂けますと幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。