石の都と、泥濘の記憶 1 〜真っ白なミルクと、悪いヤツら〜
1.
標高が上がるにつれ、空気は薄く、研ぎ澄まされた刃物のように冷たく澄んでいった。
緩やかな曲線を描く街道の両脇には、カルスト地形特有の奇妙な風景が広がっている。
すり鉢状に深く窪んだ『ドリーネ』があちこちで口を開けて、その周囲を埋め尽くす白い石灰岩の群れは、まるで青々とした草原に群れる羊の群れのようだった。
「ほら見て、ウル」
『ん、岩のことか?別に普通に岩だが……』
「そうだけどさ。もう、夢がないなぁ」
『む。馬鹿を言うな。お前が岩に向かって指さして言ったのだから、俺は「岩だ」と、見たままに言ったまでだ』
コロに寄り添うように歩いていたウルが、マズルを顰めつつ、ボフッと軽く身体をぶつけた。
少しよろけつつもコロは、笑いながらウルの背中にポンポンと手を当てる。
「ふふ、このあたりにある岩はね、『羊岩』って呼ばれているらしいんだよ」
『ほう?あの動物の羊か?』
「うん、本当に羊みたいに見えてこない?今にも動き出しそうだよ」
『……フン。紛らわしい石ころだが、さすがに岩を生き物と間違える程、平和ボケはしてない』
不機嫌そうに鼻先を震わせるウルだったが、その尻尾は機嫌良さそうにゆらゆらと空を撫でるように揺れている。
「そりゃ私だって本気で間違えているわけじゃないよ。ははは、ウルは生真面目だね」
『人類共みたいに気の利いたことなど言えんぞ。岩は岩だ。動き出したら、それはもうゴーレムだ』
「ウルらしいや。そうそう、羊で思い出したけど、次に行くモースって町はね、家畜肉の中でも羊の肉が有名みたいだよ。鉄の円盾に乗せて焼くのが有名なんだって」
『む。いいな、羊の肉か!焼いた肉が食べたいと、ちょうど思っていたところだ』
ゆらゆらと空を撫でていたウルの尻尾が、ピンと勢いよく立った。
そんな相棒の姿を見て、コロは声を出して笑ってしまう。
「あはは!ウルだって岩が羊に見えると思ってたんじゃない」
『お、お前が羊に見えると言うから……!』
視界の先、カルスト台地の中心にぽっかりと開いた巨大な盆地である『ポリエ』が見えてきた。
岩壁に囲まれたその広大な底には、黄金色の小麦畑と、鏡のように光るいくつもの溜池が点在し、中心には白亜の石造りの都市が鎮座している。
「ほら、あれがモースの町だよ」
『大雨が降ったら水没しそうだ』
「さすがにそんなに降ることはないよ」
切り立ったすり鉢状の岩壁が、外界からの侵入を拒む巨大な城壁のように街をぐるりと取り囲んでいる。
その隔絶された箱庭の中だけが、狂おしいほどに豊かで、不自然なほどの平和に満ちていた。
「とにかく、あそこなら、美味しい家畜のお肉も手に入るはずだよ。ここ最近は保存食ばかりだったし、今日は奮発してウルに大きな塊肉を買ってあげようかな」
『奮発?……ほう。言うようになったな、コロ。ならば最低でも牛の腿一本は要求させてもらおうか』
「はは、それは鞄に入り切らないよ。あ、そういえば、モースは酪農も盛んだから、新鮮な搾りたてのミルクも名物なんだよ」
ミルク、という言葉に、ウルはあからさまに嫌そうな顔をして耳を伏せた。
『ミルクだと?断る』
「言うと思った」
『この俺が、牛の乳などという甘ったるい飲み物をぺろぺろと啜ると思っているのか?誇り高きアッシュウルフの威厳が台無しだ』
「またそんなこと言って。この前、美味しそうにチーズを食べてたのはどこの誰だったかな?」
『あれだろ……チーズは別だ。あれは、その、肉に近い……発酵した魂のようなものだ』
「苦しい言い訳だね。でも、あんなに真っ白な街で飲むミルクは、きっと格別だよ」
コロは楽しげに笑いながら、ドリーネを縫うように伸びる白い道を進んでいく。
吹き抜ける風が眼下に広がる黄金色の小麦畑を波のように揺らし、サァァという心地よい音を響かせている。
頭上の空はどこまでも高く、どこまでも青い。
吸い込む空気は冷たいが、陽の光は暖かく、マントを揺らす微風が旅の疲れを優しく撫でていくようだ。
その石畳の下に、何層にも積み重なった「かつての住人たち」の呪いが眠っていることなど、今の穏やかな陽光の中では想像することさえ難しかった。
モースの町は、その名に違わぬ白亜の都市だった。
切り出されたばかりの真新しい石灰岩で舗装された大通りは、馬車の車輪の跡すら見当たらないほどに清掃が行き届いている。
精巧な彫刻が施された噴水広場からは澄んだ水がとめどなく溢れ出ており、色鮮やかな絹や上質な綿の衣服を纏い、誰もが穏やかで満ち足りた表情を浮かべて裕福そうな身なりをして行き交う人々。
陽光を反射する白亜の石畳は、思わず目が眩むほどに眩い。
水路を流れる澄んだ水が太陽の光を乱反射し、街全体が淀みのない光の繭に包まれているかのような錯覚さえ覚える。
市場には新鮮な野菜や果物、そして美味しそうな肉が並び、活気に満ち溢れていた。
「すごいね、活気がある」
『人類がウジャウジャだな』
「とりあえず、あそこのお肉屋さんでウルの分を買ってこようか」
『……』
てっきり鼻を鳴らして尻尾をバフンとしならせるかと思っていたコロ。
しかし全く思っていた反応が返ってくる気配がない。
「ウル?どうしたの?」
隣を歩くウルの様子がどうもおかしい。
先程までの機嫌の良さはすっかり影を潜め、首の毛を逆立て、低い唸り声を喉の奥で転がしている。
『……チッ。鼻がひん曲がりそうだ。コロ、お前は何も感じないのか』
「え?パンが焼ける匂いとか、香辛料のいい匂いしかしないけど……」
『この白々しい石畳の下だ。……何層にも重なった、おびただしい数の人類……恐らくだが、「獣人」のような死体の匂いがする』
立ち止まってしまったウルが、地面に鼻先を付けるようにしてスンスンと匂いを嗅いでいる。
『それも、ただの死ではない』
「ただの死じゃないって?」
『ああ。無念、絶望、そして怨嗟……そういった負の感情ばかりが幾重にも重なり合い、何百年も地底で煮詰まって、憎しみが真っ黒に焦げ付いたような、ひどく胸糞の悪い匂いだ。この綺麗に磨き上げられた石畳のすぐ裏側に、そいつがびっしりとこびりついている』
コロは足元の、チリ一つ落ちていない真っ白な石畳に視線を落とした。
まだウルが隣に居なかった頃にも訪れたことのある町だったが、その頃から、この辺りの広大なカルスト台地特有の石灰岩による綺麗で整っている平和で穏やかな町だ。
だが、ウルの鼻が嘘をつくはずもない。
この美しい街は、骸や血肉を土台にして塗り固められて出来たものなのかもしれない。
「……そっか。まあ、人類の街なんてどこも似たような成り立ちだと思うけどね」
コロが淡々と事実を飲み込んでいると、ふと、甘い香りが漂ってきた。
「あら、可愛いお嬢ちゃんと、立派なワンちゃん。新鮮なミルクはいかが?」
声をかけてきたのは、ふっくらとした大きなお腹を撫でながら微笑む、ミルク売りの人間族の女性だった。
「ほら、ウルも飲むでしょ」
『胸糞悪い悪臭に気がついてしまった以上、どうも牛の乳なんて飲む気に……』
「よし、飲むね。お姉さん、二杯ください」
コロは銅貨を渡し、真っ白なミルクが入った木杯を受け取る。
木杯になみなみと注がれたミルクは、一切の濁りもなく純白。
しかし、笑顔の妊婦が立つその足元の石畳からは、ウルにしか嗅ぎ取れない『真っ黒な憎しみの泥濘』が、じわりと滲み出しているようで、ウルの尻尾はずっと垂れたままだ。
「はい、どうぞ。そっちのワンちゃんは……」
「そのままでいいよ。ありがとう、お姉さん。もうすぐ生まれるの?」
「ええ、来月にはね。だから、今のうちにこの子が安心して暮らせるように、あの『悪いヤツら』を何とかしてほしいものね」
「悪いヤツら?」
急に飛び出した『悪いヤツら』という物騒な言葉に、コロとウルは呆気に取られてしまう。
しかしミルク売りの女性は肩を竦めつつも、軽い口調で言葉を紡いた。
「お嬢ちゃん、知らないの?」
「うん、全然知らない。来たばかりなんだ」
「そうなのね。実は、北から野蛮な猫の獣人たちが、この平和なモースの街を奪いに来てるみたいなの。もっぱらの噂よ?本当に、恐ろしいったらないわ」
妊婦が顔をしかめると、周囲の客や通行人たちも次々に同意の声を上げた。
「全くだ!俺たちの平和な街を狙うなんて許せねえ!」
「いざとなったら、俺が一人残らずあの猫どもの皮を剥いでやる!」
「神様は我々、正しい者の味方だ!」
誰もが憤り、純粋な『正義感』に燃えている。
美しい日傘を差した貴婦人でさえ、忌々しそうに眉をひそめて同調していた。
コロは無表情のまま、真っ白なミルクをごくりと飲み干した。
舌の上に広がるのは、豊かな大地が育んだ搾りたての優しい甘み。
だが、その栄養の源泉が何処から来ているのかを想像すると、酷くグロテスクな飲み物にも思えてくる。
「……ふぅん。『悪いヤツら』、ね……」
コロは冷徹な視線で街の喧騒を一瞥し、空の木杯を妊婦に返した。
大通りから少し外れた路地にある、石造りの立派な薬草店。
カラン、と乾いた鐘の音を鳴らして重い木の扉を開けると、むせ返るような乾燥した植物の匂いと、微かな土の香りが鼻腔をくすぐった。
天井からは無数の薬草の束が逆さに吊るされている。
コロは道中で採取してきた薬草や、その他の素材を手際よくカウンターに並べ、納得のいく適正価格で売却を済ませていた。
「うん、いい取引だったね。ありがとう、おじさん」
「お嬢ちゃん、見た目によらず随分と目利きだな。また良いもんがあったら持ってきな」
機嫌の良さそうな店主から路銀を受け取ると、コロはついでとばかりに、このカルスト地形特有の薬草事情について聞き込みを行った。
「――そうだな。この辺りの石灰岩の土壌だと、夜露を吸ってからじゃないと見つけにくい『白影草』ってのがドリーネの底によく生えてるぜ?」
「なるほどね。そう言えばあれの群生地ってこの辺りだったね」
「まぁ、夜の街の外は魔物も出るから、ガキにはお勧めしねえが、そんなに頼もしそうな従魔がいるなら問題ないだろ。持ってきた薬草の品質的にも、な」
「だね。有益な情報をありがとう」
店を出たコロは、隣で欠伸をしている相棒を見上げた。
「……というわけだから、ウル。今日は宿を取らずに、夜通し街の外のドリーネを回って薬草採取をしようと思うんだけど、いいかな?」
『フン、構わんぞ。どうせこの街の地面は、猫の死臭と人類の生活臭が混ざって鼻がひん曲がりそうだからな。野宿のほうが幾分マシだ』
相変わらずな様子のウルの頭に、ポンと手を置くコロ。
そして一人と一匹は、市場の肉屋へ立ち寄り、約束通りウルのための『羊の肉』を豪快に塊で購入した。
購入したのは、店先の太い鉄のフックに吊るされていた、脂の乗った新鮮な骨付きのもも肉だ。
紙に包んで背負い籠に押し込んでもなお、微かに漂うむせ返るような血の匂いが、ウルの野生を静かに刺激しているようだった。
夕暮れが近づき、街の門を抜けて再びカルスト台地の街道へと足を踏み出す。
背中の荷物の中にずっしりと重い羊の肉を感じながら、ウルはふと、機嫌良さそうに尻尾を揺らして提案した。
『……おい、コロ』
「ん、なに?」
『今夜はドリーネの底で火を熾して、この羊の肉をこんがりと焼いて食おうではないか。以前お前が言っていた、美味いジャムを塗って柔らかくするやつだ』
「駄目だよ」
ウルのささやかで壮大な夕食の計画は、コロの冷淡な一言によって一秒で却下された。
『なっ……なぜだ!?俺は今日、あの胸糞の悪い街で我慢したのだぞ!』
「街の外でそんな美味しそうな脂の匂いを撒き散らすなんて、自ら『美味しいお肉がここにありますよ』って魔物に宣伝して回るようなものだよ。狂気の沙汰としか思えないね」
『……っ』
コロの身も蓋もない正論に、ウルの言葉が詰まる。
誇り高きアッシュウルフとはいえ、夜の荒野で四方八方から有象無象の魔物や飢えた獣に群らがれながら食事をするのは、物理的に鬱陶しいことこの上ない。
『……たしかに。食事中に羽虫の如く魔物に集られるのは、無駄な戦闘を強いられて体力を消耗するだけか。愚の骨頂だな』
「でしょ?すぐに冷静になってくれてよかったよ」
コロは肩をすくめ、呆れたようにため息をついた。
「だから、いつも通り血抜き前の生肉で我慢してね。ウルなら骨ごと噛み砕けるでしょ?」
『我慢も何も……我々アッシュウルフにとっては、血の滴る生肉こそが至高のご馳走だからな。火を通すなど、人類の軟弱な文化も悪くないと思っただけだ』
いかにも負け惜しみのような言い訳を喉の奥で鳴らしながら、ウルは不満げにそっぽを向いた。
コロはそんな相棒の背中をポンポンと軽く叩き、夕闇が迫る白亜の石灰岩地帯へと足を踏み入れていく。
「はいはい、分かってるよ。それじゃあ、暗くなる前に手頃なドリーネを見つけて、早めに夕食にしようか」
『……フン。次は絶対に焼かせてやるからな』
太陽が地平線に沈むと同時に、昼間は長閑な『羊』に見えていた白い岩肌が、青白い月光を吸い込んで、立ち並ぶ無数の不気味な墓標のように姿を変えていく。
すり鉢状の窪地へと吹き下ろす夜風が、ザワザワと冷たい音を立てていた。
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