三十秒の静寂と、嘘のない熱 1 〜鉄の価値と、職人の瞳〜
1.
「……ふぅ。それにしても、朝からまた随分と豪勢な朝食を食べちゃったね。しばらくはお腹が重たいよ」
街路を歩きながら、コロは少しだけ歩調を緩めて呟いた。
昨夜の「跳ね鎌」の肉は、朝には旨味の凝縮されたスープや、香ばしいパテへと姿を変えて並んでいた。
宿の主人の「最高のもてなし」は、効率を重視するコロの器の許容量を、物理的に少しだけ超過してしまったようだ。
『……全くだ。だが、あれだけの滋養を注ぎ込まれては、黙って歩いているだけでは申し訳が立たん。これだけ食べたんだ、早くこの身体を使って還元したいものだな』
ウルが大きなあくびを一つして、強靭な四肢を伸ばすようにストレッチをする。
その毛並みは、良質な脂を摂取したおかげか、朝陽を浴びて昨日よりも一層深く、艶やかな輝きを放っていた。
昨日、鼻を麻痺させたあの甘ったるい香水の残滓など、一欠片も感じさせないほどに。
「まあ、まずは、昨日手に入れた『跳ね鎌の鱗』を売りにいこう。……ここ、鍛冶屋の街『フェルム』は、腕利きの職人が集まる場所だって聞いているし、あの鱗が相場通りに売れたら、次はここで何か仕事がないか探してみようか」
コロの視線の先には、街の至る所から立ち上る煙と、規則正しく響く鎚の音が重なり合う「鍛冶屋通り」が見えていた。
「鱗を売ったお金で、ポーションを新しくしておきたいんだ」
『ん?既に持っているだろう』
ウルは不思議そうに少しだけ首を傾げてみせる。
しかしコロは、苦笑いを浮かべて肩を小さく竦めてみせる。
「持ってはいるけどね、だいぶ前に買ったやつだから。そろそろ期限切れだよ。下取りに出して、新しいのを買うんだ。……いざという時に『効きが悪い』なんて、計算が狂うのは嫌だからね」
『そうか。……相変わらず、面倒なほどに抜かりがないな』
「昨日のお姉さんたちじゃないけどさ。私たちは誰かに守られた『花園』じゃなくて、荒野を行く旅人だから」
コロの脳裏を過ったのは、夢から醒めて立ち尽くしていた、あの青白い男女の姿だ。
それらを振り払うように、ウルはマズルの辺りをクシャリと歪め、「フン」と短く鼻を鳴らした。
『コロにしては、少しばかり感傷的な言い草だ。だが、異論はない。俺も、自分の爪と牙で勝ち取った肉の方が、よほど口に合う』
一人の少女と一頭の魔獣は、鉄と煤の匂いが漂う通りへと足を踏み入れた。
そこは、愛だの夢だのという曖昧な言葉が入り込む余地のない、叩けば響く「実力」だけが支配する世界だった。
鉄と煤の匂いが濃くなるにつれ、鎚の音は反響し、肌を叩くような熱気が通りに溢れ出してきた。
フェルムの鍛冶屋通り。
店先に並ぶのは、色とりどりの装飾品ではなく、無骨で冷たい「鉄の塊」たちだ。
コロは一軒の、比較的見栄えの良い店の前で足を止めた。
そこには、陽光を反射して眩いほどに磨き上げられた長剣や、派手な彫金が施された胸当てが誇らしげに陳列されている。
「……ねえ、ウル。あれ、どう思う?」
コロが指差したのは、柄に大粒の模造宝石が埋め込まれた、一際「見栄えのする」細身の剣だった。
ウルは歩みを止めず、鼻をひそめてその剣を一瞥した。
『……ふん。鉄の匂いよりも、磨き粉と油の匂いの方が強いな。俺の牙なら、一噛みで根元からへし折れる』
「だよね。あの宝石、握り心地を犠牲にしてまで『自分は特別だ』って主張してる。あんな凹凸があったら、長く握っていれば手の平がマメだらけになるし、何より血がついた時に滑って使い物にならなくなる」
コロの瞳が、鑑定士のような冷徹さで剣の細部をなぞる。
「装飾の溝は、汚れや錆が溜まる絶好の起点だね。……昨日のお姉さんと同じだよ。美しくあろうとすることが、生き残るための機能を削り取っている。……あれは武器じゃないね。自分を強く見せたいだけの、臆病な人たちのための『お守り』ってところかな」
『全くだな。そんなものに金を払うくらいなら、俺の毛繕い用のブラシでも新調した方がマシだ』
そんなウルの発言に、コロは小さくクスッと笑ってしまう。
「それはそうだね。……よし、この店はパス。私たちが探しているのは、持ち主を格好良く見せてくれる道具じゃなくて、使用者を確実に守ってくれる『道具』を売る店だ」
コロは踵を返し、通りのさらに奥、煙突から一際黒い煙を吐き出している、古びた店へと視線を向けた。
そこには、磨き上げられたショーケースも、宝石のついた剣もなかった。
ただ、使い込まれた無骨な鉄塊が、雨風に晒された木の台の上に、ぶっきらぼうに置かれている。
「……見つけた。あそこの方が、ずっと『嘘のない匂い』がする」
一人と一匹は、華やかな表通りを背にして、火花が散り、煤けた男たちが怒鳴り合うフェルムの深部へと足を踏み入れた。
その工房は古びた看板には文字すらなく、ただ歪んだ鎚の紋章が刻まれているだけだった。
店内に一歩足を踏み入れると、外の喧騒が遠のき、代わりに重く、熱い空気が肌にまとわりつく。
「……ごめんください。買い取りと、相談をしたいんだけど」
コロが声をかけるが、奥の作業場からは一定のリズムを刻む鎚の音しか返ってこない。
赤く焼けた鉄が叩かれるたび、火花が闇を裂き、鉄の焼ける鋭い匂いが鼻腔を突く。
ウルは窮屈そうに身を屈めながら、奥で立ち働く、ずんぐりとしたドワーフの男の背中を見つめていた。
「……うるせえな。今はこの鉄を黙らせるのに忙しいんだ。……死にたくなきゃ、そこにある完成品にでも触って待ってな」
しわがれた、だが地響きのように太い声。
作業場の主は、こちらを一瞥もせず、真っ赤な長剣の原型に渾身の力を叩きつけ続けている。
コロは言われた通り、棚に無造作に置かれた「完成品」の一つに手を伸ばした。
それは、装飾も研磨もない、ただの鉄の小剣だった。
だが、手にとった瞬間に、彼女の視線は鋭いものに変わる。
「……これ、中心が少しもブレてないよ。重心の位置が、刃の厚みと完璧にあっている」
『ふむ……。なるほどな。見た目はただの鉄屑だが、これなら俺の喉元を狙われても、少々は厄介かもしれん』
「……ほう。ガキンチョのわりには、見る目があるじゃねえか」
鎚の音が止まった。
煤まみれの顔に、白髪混じりの髭を蓄えた男が、タオルで汗を拭いながら歩み寄ってくる。
その瞳は、先ほどの華やかな店の店主のような愛想笑いなど欠片もなく、ただ鋭く客を「鑑定」しているようだった。
「……で、買い取りってのは何だよ。うちにはガラクタを置いておくスペースはねえぞ」
コロは何も言わず、リュックから昨日回収した「跳ね鎌の硬鱗」を数枚、カウンターの上に滑らせた。
男は鼻を鳴らしてそれを手に取ろうとしたが――指先が鱗に触れた瞬間、その動きが止まる。
「……跳ね鎌、か。……いや、ただの跳ね鎌じゃねえな。表面が微かにガラス化していやがる」
「よく気が付いたね」
「抜かせ。この商売を何年やってると思ってんだ。……おい、こいつをどうやって仕留めた」
自然とコロの隣で行儀よく座っているウルに視線がいく。
「雷だよ。アッシュウルフの黒い雷。それで焼いて食べた。美味しかったよ」
コロが淡々と答えると、男は鱗を触る手を止め、まじまじとコロ、そしてウルをジッと見つめた。
「黒い雷……。なるほど、跳ね鎌の硬鱗は絶縁性が高いはずだが、それを焼き切るほどの高出力ってわけか。おまけにこの切り口……差し詰めエルフの解体術ってところか。鱗の根元を綺麗に外してやがる。それも全部だ」
男は鱗を光にかざし、爪で弾いて音を確かめる。
「……悪くねえな。その辺の魔術師じゃこうはならねえ。いや、極上品だな……。これなら一枚で銀貨三枚は出せる」
「ちゃんと見てくれる人で助かるよ」
「……で、相談ってのはなんだ?その犬っころの装備か?」
そう言って視線をウルに向けると、彼は小さく鼻を鳴らした。
「ウルっていうんだ。そう、革の方は職人に直して貰ったけどね、金具が少し歪んでるから、腕のある職人に補強と調整をお願いしたかったんだ。代金は、この鱗で払うから」
男は汚れた布で手を拭うと、ウルの体に巻かれたハーネスの金具を無造作に掴んだ。
ウルが低く喉を鳴らして威嚇したが、男は全く動じない。
それどころか、鼻で笑いながら金具の継ぎ目を指先でなぞった。
「……革はいい。丁寧な仕事だ。どこの物好きか知らねえが、こいつを仕立てた職人はいい仕事をしてやがる。だが、金具がな。……これじゃ、アッシュウルフの筋肉が本気を出した瞬間に弾け飛ぶぜ。歪んでんのはその予兆だ」
男はカウンターの下から、自作と思わしき無骨な黒鉄の金具を取り出した。
「最近は、どこの街も鉄の質が落ちてやがる。不純物が多くて、粘りがねえ。……このハーネスについてる金具もそうだ。量産品の脆い鉄だ。命を預ける道具にしちゃ、少々お粗末だな」
「……鉄の質が落ちている?」
コロが聞き返すと、男は忌々しげに作業場の奥、真っ赤に燃える炉を見つめた。
「ああ、そうだ。鉱山の方で何が起きてんのかは知らねえが、フェルムに入ってくる鉄鋼石の質だって、数ヶ月前からガタ落ちだ。……まともな鉄が打ちたきゃ、高い金を払って古い在庫を奪い合うか、あるいは……」
男は、カウンターに置かれた『跳ね鎌の硬鱗』に視線を戻した。
「こういう、鉄より硬くてしなやかな『代替素材』を混ぜるしかねえ。……嬢ちゃん、いい時にこれを持ってきたな。この鱗を粉にして鉄に混ぜ込みゃ、アッシュウルフの突進にも耐えうる、最高の装備に仕上がるぜ」
コロはウルの顔を見た。
ウルは『俺の強度に見合うなら、好きにしろ』とでも言うように、一度だけ短く鼻を鳴らす。
「わかった。じゃあ、その補強と調整……お願いできるかな?鱗は全部預けるよ。金具に使った残りは、好きに買い取って……あ、この街の『腕のいい薬師』を教えてほしいんだけど。ポーションの更新もしたいから」
男はニヤリと笑い、大きな手で自分の髭を雑に撫でた。
「はっ、現金な嬢ちゃんだ。よし、いいだろう。職人の意地にかけて、こいつに最高の『足回り』を奢ってやる。……薬師なら、三軒隣の『静かなる水槽亭』へ行け。あそこのババアは愛想と性格は最悪だが、薬の鮮度だけは保証してやる」
「……ありがとう。助かるよ」
「三日だ。三日後の朝にまた来い」
「うん。三日後ね、そうする」
コロは、鱗の詰まった袋を、男の無骨な手に預けた。
鍛冶屋の工房を出ると、一瞬、外の空気がひどく軽く感じられた。
肌にまとわりついていた熱気が引き、代わりに鼻を突くのは、通りを流れる生活の匂いだ。
「三軒隣……あそこだね」
コロが指差した先には、鍛冶屋通りの喧騒から少しだけ奥まった場所に、緑色の瓦を乗せた小さな店が佇んでいた。
看板には、水の中に沈んだ薬瓶を模したような、奇妙な紋章。
『静かなる水槽亭』。
その名の通り、店の入り口からは水の流れるような微かな音が漏れ聞こえてくる。
「……行くよ、ウル。匂いに酔わないでね」
『ふん。あの大男の煤けた体臭よりは、草木の匂いの方がいくらかマシだ』
扉を開けると、チリンと低く、澄んだ鐘の音が響いた。
店内は、先ほどの工房とは正反対の空間だった。
ひんやりとした冷気が満ち、壁一面に並んだ棚には、乾燥させた薬草や、見たこともない生物の一部が漬けられた瓶が所狭しと並んでいる。
そして、店の奥。
天井まで届く巨大な水槽の中で、淡い光を放つ藻類がゆらゆらと揺れ、その光に照らされて一人の老婆が机に向かっていた。
「……鍛冶屋のおじさんの言った通り、あんまり歓迎されてる雰囲気じゃないね」
『だな』
コロの囁きに、老婆は顔を上げることもしなかった。
ただ、羽ペンを走らせる音だけが、水の音に混じって規則正しく響く。
「……用件を言いな。餓鬼と野良犬の相手をしてやるほど、あたしの時間は安くないんだよ」
男の言った通り、確かに「最悪の性格」を予感させる、突き放すような声だった。
それでもコロは動じることなく、カウンターに歩み寄り、一振りの小瓶を取り出した。
「ポーションの更新。下取りと、新しいのを二瓶……ううん、三瓶ほしい。それと、もしあれば『解毒薬』も」
老婆がようやく顔を上げた。
瓶の底のような分厚い眼鏡越しに、射抜くような鋭い視線がコロを、そしてウルの毛並みをなぞる。
「……ほう。アッシュウルフを連れて、一人歩きかい。どれ、ポーションを見せな。鮮度が落ちた薬ほど、この世で無意味なガラクタはないからね」
老婆は細く、枯れ枝のような指でコロの出した小瓶を掴み取った。
そして、枯れ枝のような指で小瓶を掴み上げ、背後の水槽から漏れる淡い光に透かした。
最初は鼻であしらうつもりだったのだろうが、瓶の中の液体が揺れた瞬間、分厚い眼鏡の奥の瞳がわずかに見開かれた。
「……ほう。驚いたね。濁り一つない、この深い琥珀色……。腕のいい薬師が精製した、特級品じゃないか」
「三年前のものだけどね。保存状態には気をつけていたから、成分の変質はないはずだよ」
コロが淡々と付け加えると、老婆は瓶の栓を抜き、わずかに漂う香りを確かめてから、静かに栓を戻した。
「……確かに。中身は生きてる。あんた、ただのガキじゃないね。このクラスのポーションは、金さえ積めば買える代物じゃない。実力と、何より『良し悪し』が分かる目がないと、手元には残らないものさ」
『ふん、当然だ。お前さんたち人類が、安い酒を薬だと信じ込んで飲んでいる間に、こいつは俺の体調にまで気を配って、最高級の触媒を揃えていたんだからな』
ウルが誇らしげに鼻を鳴らす。
しかし、その賛美はコロにしか聞き取れず、彼女は照れくささを隠すためか、彼の頭にポンと手をおいた。
老婆はふん、と短く笑い、小瓶をカウンターに置いた。
「よし、いいだろう。これなら下取りとしていい値がつけられる」
そこまで言うと、老婆は小さくため息をついた。
「……だがね、嬢ちゃん。今のフェルムには、これに見合う『新しい特級品』の在庫がないんだよ」
「……在庫がない? 三軒隣の鍛冶屋で、ここが一番品質がいいって聞いたんだけど」
コロの眉がわずかに動く。
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