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元・魔物の少女と魔狼の異世界観測記 〜狼の鼻と、神の余暇〜  作者: 三沢 七生


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6/15

籠の中の鳥と、生存の目利き 3 〜嘘のない現実と、嘘だらけの愛〜

3.


馬車が到着したのは、レンガ造りの建物が並ぶ中規模の交易都市だった。

夕闇に包まれた街の入り口、馬車の停車場。

ようやく「人類の保護圏内」に戻ってきた安堵感で御者が息を吐く中、車内には冷え切った沈黙だけが居座っていた。


「……まぁ、この町もハズレだね」


コロが、誰に聞かせるでもなくぽつりと呟く。


『俺はもう、鼻が曲がっていてわけが分からん。この甘ったるい死臭は、二度と御免だ』


ウルが不快そうに鼻を鳴らす。

そんな二人の視線の先、停車場の石畳には、不釣り合いなほど磨き上げられた馬車と、一団の人影が待ち構えていた。


『ん?あれはお迎え……か?』

「だね。そうみたい」


肝心のマリーもテオも、ただただ俯いているままだ。


その中心に立つ、仕立ての良い衣服を纏った初老の男が、馬車が止まると同時に静かに歩み寄る。


「マリーお嬢様。お迎えに上がりました。……さあ、旦那様のもとへ参りましょう」


家令と思しきジェントルな、しかし一切の妥協を許さないような声。

マリーはテオの隣で、まるで断頭台に立つ罪人のように肩を震わせた。

彼女はすがるような、あるいは救いを求めるような顔を、テオではなくコロに向ける。

コロは、重い溜息を一つ吐き出し、リュックのベルトを締め直した。


「……お姉さん。そのドレスを維持するだけで、お兄さんの稼ぎを軽く超えるんじゃないかな」

「え……?」

「籠の中の鳥がね、憧れだけで野に放たれて、その先に待っているのは、自由じゃない。……待っているのは地獄と、死神だよ。全てを捨てたと言うけれど、お姉さんのその白い手は、泥を掘ることも、肉を捌くことも、明日の糧を稼ぐための労働も知らないよね」

「……それは……」

「この先の『花園』にあるのはね、厳しい冬と重労働と飢えだけだよ。お姉さんは冬がやってくる前までに薪を用意できる?」

「薪を……」

「うん。それにね、どんなに寒くても洗濯もしないといけない。お兄さんが一生懸命に絵を描いたって、今の生活は、お兄さんには一生手が届かない。お兄さんが絵を描いている間は、家の一切合切をお姉さん一人でやるんだよ。ちょっとした内職も、かな」


コロの瞳は、夕闇の中で無機質に光る。


「このままお兄さんと泥にまみれて野垂れ死ぬか。それとも、元の退屈で贅沢な籠に戻るか。今ならまだ、本当に大切なものは見失わないはずだよ。……夢から覚めるのはね、早ければ早いほうがいいよ」


マリーの瞳から、最後の一滴の幻想が剥がれ落ちた。


彼女はもう、テオを見ることさえしなかった。

ただ、促されるままに家令の方へと歩き出す。


「……この町ですぐに整えましょう。お嬢様」


家令はテオを一瞥もせず、まるでそこに存在しない石ころを避けるようにして、マリーを馬車へと導いた。

言葉もなく、車輪の音だけを残して、豪華な馬車は街の闇へと消えていく。


残された停車場。


テオは、自分の汚れたつま先を見つめたまま、絞り出すような声で呟いた。


「……あんたたちは、ひどい連中だ」

「ああ、ひどい連中さ」


エルフの男が、呆れたような、それでいて一切の感情を排した声で応じた。

彼は懐から取り出した煙草を指に挟み、小さな火の魔法で先端を灯す。


「だがな、あのままあの臭いお嬢ちゃんを連れてって、一年後に腹を空かせて死なせるよりは、今のうちに嫌われといたほうがマシなんだよ。……恨まれ役ってのは、慣れてるんでな」


そう言った御者の男も、エルフから煙草を一本受け取り、火を分けてもらう。

紫煙を夜空に吐き出しながら、彼はテオに向き直った。


「……青年。お前が今、あのお嬢様のために捧げようとしているのは『若さ』と『根拠のない情熱』だけだ。だがな、お嬢様がお前のために捨てようとしていたのは、家名、財産、教養、明日への安心……まぁ、人生そのものだよ」


御者の声には、長く街道を走ってきた者特有の、重い響きがあった。


「いいか?人はな、あんまり大きなものを捨てると、それを捨てさせた相手をいつか必ず恨むようになるぜ。今は『愛ゆえの犠牲』だと思っていても、空腹に耐えかね、着る服も汚れ、友人とのお茶会さえ遠い日の思い出になった頃、お嬢様はお前を見るたびにこう思うはずだ。『この冴えない男さえいなければ、私はあそこに居られたのに』とな」

「……だね。そんなもんだと思うよ」


コロが、遠くを見つめたままそう同意した。


「その時、お前はお嬢様に何と言い返す?『君が勝手についてきたんだろう』か?それとも、ただ罵声に耐えて、筆を折るか?」


御者は、テオの足元にある古びた絵筆の鞄を指差した。


「憧れのお嬢様が、自分を呪う言葉を吐き続ける化け物に変貌していく。……それを看取るのが、お前の言う『愛』の結末だ」

「……だな、保証するよ。俺は長生きだからな。……散々、見てきたんだ。こういう『夢』の末路をな」


エルフの男が煙草を地面に落とし、靴で踏み消した。

テオはもう、何も言い返さなかった。

ただ、夜の冷気に打たれ、一人で立ち尽くしている。


「さあ、行こう。ウル」

『ん、行くか』

「……今夜は、屋根のある場所で、匂いのついていない寝床を探そう」

『ああ。……全くだ、散々な旅だったな』

「一日で終わって良かったね」

『怖いことを言うな。連日となったら俺は降りる』

「ははは、大丈夫。そもそも乗らないよ」


一人と一匹は、御者と護衛に小さく手を振り、闇に沈む街の雑踏へと歩き出した。

背後に残された一人の青年の、砕け散った「愛」の残骸を、振り返ることさえせずに。


「あのお姉さん、結局最後まで自分の足で歩こうとしなかったね」


コロが小さく呟き、ウルの首元にそっと手を当てた。

彼のふわふわとした感触を堪能するように撫で、また彼も気持ちよさそうに目を細める。


『ああ。それにしてもまだ鼻が曲がったままだ。早くこの甘ったるい匂いを、マシな脂の匂いで上書きしたいものだな』

「お疲れ様。……今日は乗り合い馬車で楽するはずだったのに疲れたね。早く(からだ)を休ませないとだ」


苦々しい笑みを浮かべて肩を竦めるコロ。




数分歩いて見つけたのは、古びているが手入れの行き届いた、一軒の安宿だった。


「『鈍色の煙突亭』……まぁ、ここで良いかな」

『見た目は安宿のようだが、美味そうな飯の匂いがするな』

「でしょ。ここはきっと当たりだね」


コロは何のためらいもなく、まるで馴染みの店に入るかの如く、その重厚な木の扉を引く。


「おじさん、一晩泊めて。それと、温かい食事も」

「おぉ、ちび助。一人と、そっちは従魔か?食事付きならお前が1200、そっちのデカいのが追加で500だ。合わせて1700リト、前金でもらうぜ」


宿の主人が提示した金額は、この街の相場としては妥当なものだった。

だが、コロは財布を開く代わりに、ずっしりと重い袋をカウンターに置いた。


「お金の代わりに、これ。……『跳ね鎌』の肉。この子が仕留めて、エルフのお兄さんが捌いたんだ。今日の昼頃の話だから、まだ鮮度は最高だよ」

「ふむ……どれ」

「今から肉屋に持っていっても閉まってるだろうけど、おじさんの宿なら、今晩と明日の看板メニューにできるでしょ?」


主人は不審そうに袋の中身を改め、次の瞬間、目を見開いた。

そこには、松明の光を弾くほど瑞々しく、脂の乗った白身が詰まっていた。


「おおっ……!嘘じゃねえな、これは。この捌き、筋一本傷つけちゃいねえ。……いいのか?こんな上等なもん、1700リトどころの騒ぎじゃねえぞ?」

「うん、別にいいよ。魚の肉なんて、旅で持ち歩いても重いだけだし。……その代わり、ウルには一番大きな塊を焼いてあげて。あと、私たちにいい部屋を貸して。それで手を打たない?」


主人は豪快に笑い、袋を抱え込んだ。


「よーし、決まりだ!今夜は特別に二階の角部屋を空けてやる。食事も、俺が腕によりをかけて仕上げてやるからな!タダで泊まっていけ!」

「ありがとう。良かったね、ウル」

「あっちの食堂で座ってな!最高の料理を持っていってやるからな!」


コロが小さく笑みを浮かべてウルの頭をポンポンと撫でる。

彼はピンと尻尾を立て、得意げに鼻を鳴らす。




やがて、食堂の片隅で運ばれてきたのは、香ばしく焼き上げられた魚料理のフルコースだった。

先ほどまでマリーやテオに「野蛮」だと忌み嫌われていた命が、今は黄金色の脂を滴らせ、湯気を上げている。

コロはふっくらとした身を口に運び、ゆっくりと咀嚼した。

ウルもまた、皿の上の大きな身を満足げに食んでいる。


「……ん。やっぱり、『実体のあるもの』は美味しいね」

『ああ。……ようやく鼻が生き返った。この脂の匂いの方がよっぽど魂の栄養になるな』


宿の主人が「最高の一皿」と豪語した通り、跳ね鎌のソテーは絶品だった。

エルフの技で完璧に処理された身は、泥臭さの一片もなく、噛み締めるたびに濃厚な脂が口の中に広がるようで、コロは終始機嫌が良さそうだった。


それは、マリーたちが語っていた「愛」という名の甘い幻想よりも、はるかに力強くコロの(からだ)を満たしてくれた。




「……ふぅ。ごちそうさま。ウル、満足した?」

『ああ。ようやく鼻の奥に残っていたあの腐敗臭が消えた。やはり命を維持するのは、言葉ではなく脂だ』


満足げに喉を鳴らすウルを連れ、案内された二階の角部屋へ入る。


そこは、磨き上げられた木の床に、清潔なシーツが整えられたベッドがある、静かな空間だった。

コロはリュックを下ろすと、ベッドの感触を確かめることなく、中から大切に布で包んでいたものを取り出し、机の上に広げた。


「……よし。煤も綺麗に落ちてるね」


机の上に並んだのは、あの湖畔でコロが丁寧に回収し、洗い流した「跳ね鎌」の硬鱗だ。

松明の光を反射して、鈍い銀色に光るその鱗は、指で弾くと金属のような高い音を立てた。


「これ、明日の朝一番で鍛冶屋通りに持っていこう。跳ね鎌の鱗は、小型の鎌やナイフの素材として需要があるって聞いたことがあるんだ。……ウルの雷を浴びても形を保っていたんだから、かなりの良品だよ。きっと、いいお金になる」

『お前は、本当に無駄がないな。件のヤツらは、自分たちを殺そうとしたものの価値なんて、死ぬまで気づかないだろうに』

「……気づかなくていいんだよ。気づく必要のない場所で生きるのが、あの人たちの『愛』の形なんだから。でも、その『(かご)』から一歩出た瞬間に、鱗一枚の重みも知らない個体は脱落していく」


コロは鱗を一枚ずつ、検品するように指先でなぞる。

硬く、冷たく、確かな手応え。

これこそが、彼女がこの世界で信じられる唯一の「誠実さ」だった。


「これ一枚で、黒パンが何個買えるかな」

『俺の肉のことも忘れるなよ』

「忘れないよ、当たり前でしょ」

『なら安心だ』

「あの画家のお兄さん……どうなるかな」

『ん?どうって……何がだ?』

「いや、これからも絵が描けるのなかって、さ」

『絵で肉を描いても腹は膨れん。身体を動かして対価を得るべきだ』

「……だね」


一人と一匹の間に、静かで、心地よい沈黙が流れる。


「……でも、描けなくなったら、もう何も残らない気がするよね」

『何も無くなったら、別の新しい何かでも始めればいいだけの話だ』

「そうもそうだね」

『ほれ、寝るぞ』


ウルは大きな体をベッドの脇に丸め、深い吐息をついた。

コロもまた、使い込まれた自分の装備を点検し、明日の予定を脳内のノートに書き記すと、ランタンの火を吹き消し、吸い込まれるように清潔なシーツの中へと潜り込んだ。


「……おやすみ、ウル」

『おやすみ、コロ』


お互い、静かに目を閉じた。




※ ※ ※




意識の波が引いていき、世界が真っ白な光に塗りつぶされる。

そこは、時間も、重力も、魔物の匂いすら存在しない、透明な聖域。


「……おかえり、コロ。今回の旅は、随分と『毒』が強かったかしらね」


柔らかな声と共に、女神がコロをそっと抱きしめた。

コロはその腕の中で、今日観測した全ての出来事を、静かに女神へと明け渡していく。


「ただいま。今回の『愛』と『夢』……人類ってなかなか面倒な生き物だね」


コロは女神の腕の中で、停車場で立ち尽くしていた画家の目や、泥に汚れたドレスの裾を思い返しつつ、言葉を続ける。


「……あのお姉さんは、高価な籠の中じゃないと維持できない、すごく壊れやすい存在だった。生きていくうえで少しの価値もないのに、何よりも重くて、それでいてお腹は膨れないものに目が眩んでいる。……私には、あまり必要のないものかな」


淡々と報告するコロの言葉に、女神は慈しむような微笑みを浮かべた。


「……そうね。でも、跳ね鎌の肉は宿代になったし、鱗はお金になるのでしょう?」

「うん。それは嘘のない、確かな事実だもんね。……あのお姉さんは鱗一枚の価値も知らないまま籠の中に戻ったけど、たぶんね、私はそれでいいんだと思う。まあ……ああいう人がいてもいいかもね」


女神はコロの頭を優しく撫でながら、ふふ、と悪戯っぽく笑った。


「……強がりね。あなたはあのお姉さんに、最後の一歩を踏みとどまらせる言葉をあげた。……それは、あなたの中に芽生えた、小さな『慈悲』かもしれないわよ?」

「そうなのかな?ただ、私が知っていること、思ったことを伝えただけ。……あのまま行ったら、ウルの鼻が本当に壊れちゃうし、もう早く離れたかったんだよ」


コロは女神の腕に顔を埋め、ぶっきらぼうに答える。

女神はその温かな腕で、愛おしそうにコロを包み込んだ。


「ふふふ、今はそのままでいいわ。……おやすみなさい、私の愛おしいコロ。明日の朝、あなたがまた『嘘のない一日』を始められますように」


女神の抱擁の中で、コロの意識は穏やかな眠りへと溶けていった。


挿絵(By みてみん)

スタートダッシュのお付き合いありがとうございました。

明日からは毎朝6時50分に更新します。

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