三十秒の静寂と、嘘のない熱 2 〜凍てついた森と、嘘のない空気〜
2.
老婆は忌々しげに、店の奥で煮え立つ釜を見つめた。
「鉄の質が落ちてるって話、そっちのドワーフから聞かなかったかい? ……実はね、山の方の空気が変わっちまったのさ」
「へえ、その手の話は、他所でもたまに耳にするね」
「お陰で薬草の質もガタ落ちだよ。更には特級品を作るのに必要な『氷晶草』の自生地に、質の悪い魔物が居座りやがって、誰も採りに行けない」
老婆は机の上の羽ペンを置き、改めてコロとウルを「観測」するように見つめた。
「……あんた、上等な薬の価値を知ってるね。なら、その鮮度を維持するために必要な苦労も分かるだろ?小遣い稼ぎと思って、あたしと『取引』をしないかい」
「……薬草の採取、だね」
「話が早くて助かるよ。そのアッシュウルフを連れたあんたなら、並の冒険者が束になっても敵わない場所に手が届く。……必要な分を採ってきてくれれば、小遣いだけじゃない。特級品の他にも、在庫の上級のポーションも三瓶、相場より大分安く卸してやるよ。……どうだい?」
コロは、傍らで行儀よく座るウルの金色の瞳を覗き込んだ。
声に出さずとも、その視線には「どうする?」という明確な問いかけが含まれている。
ウルの返答は、呆れたような、それでいてどこか楽しげな響きを伴ってコロの耳に響いた。
『構わんぞ。ちょうど、腹が重くて難儀していたところだ。……少しばかり身体を動かした方が、還元も捗るというもの。腹ごなしの散歩と行こうじゃないか』
その返答を聞き届け、コロは満足げに老婆へと視線を戻した。
「……わかった。その条件で引き受けるよ」
コロがそう答えると、老婆は満足げに、しかしどこか試すような視線で口角を上げた。
だが、コロはすぐに背を向けることはなかった。
カウンターに置かれた手を引かず、そのまま老婆の分厚い眼鏡の奥を見据える。
「……で、お婆さん。素材を集める専門家たちが匙を投げた『本当の理由』を教えて。ただ魔物が強いだけなら、この街の腕利きたちが放っておくはずがないでしょ。割に合わない、決定的な『何か』があるはずだよ」
老婆は一瞬、意外そうに目を見開いたが、すぐにクスクスと喉を鳴らして笑った。
「……はっ、やっぱりただの餓鬼じゃないね。いいよ、教えてやる。あんたの言う通り、あれは『倒す手間』と『得られる実益』の計算が全く合わない、最悪のゴミ溜めさ」
老婆はカウンターの下から、一本の汚れたピンセットを取り出し、机の上に放り出した。
先端が、何かに腐食されたように不自然に黒ずみ、ボロボロに崩れている。
『随分と派手にやられているな』
「だね。腐食している」
そっと腐食したピンセットを手に取るコロ。
ウルも興味津々といった様子で、鼻を近づけてスンスンと匂いを嗅いでいる。
「フロスト・レイスの仕業だよ」
「へえ、じゃあ普通のフロスト・レイスじゃないってことだ」
「ああ。本来のフロスト・レイスは、清浄な氷の精霊だ。だがね、あそこの連中は、山から漏れ出した質の悪い『鉄の煤』を吸い込みすぎた。物理的な攻撃は通らないくせに、あいつらが撒き散らす冷気は、鋼の道具さえ一瞬で錆びつかせる。……あいつに近づくだけで、獲物より高い道具がパーになるのさ。おまけに、あいつを消し飛ばすには専門の聖職者を呼ぶか、貴重な魔力をドブに捨てるような魔法をぶっ放すしかない」
その言葉に目を合わせるコロとウル。
『ふむ……。道具の劣化を嫌って逃げたか。……臆病者というよりは、算盤の弾ける連中だったようだな』
ウルの言葉に、コロは静かに頷いた。
「鉄の道具を錆びさせる、実体のない汚れ……。なるほど、お金も合わないし、討伐となると聖職者の仕事だね、それは。……でも、道具を使わなきゃいいだけの話だよね。そのレイスの索敵方法は?普通なら視覚だけど」
「……あそこの連中の目は潰れてるさ。周囲の『熱』と、怯えた者の『呼吸』を見ているらしい。ま、アッシュウルフの熱量なら、一発で位置を特定されるだろうね。……だから、まともな採取者はあいつの冷気に当てられて、指先を凍傷にして帰ってくるのさ」
老婆はニヤリと、欠けた歯を見せて笑った。
「ウル、私たちはツイていたね」
『だな。案外楽そうなお使いだ』
二人とも、彼らなりの『勝ち筋』が見えたのか、確信めいた口ぶりでそう言い放った。
「誰もが『あいつをどう倒すか』か、『どうやって隠れるか』を考えて失敗した。……あんたはどうするんだい?」
「……別に。そんなものを相手にするのは、領主が軍や聖職者でも連れてきてやる仕事だよ。私たちは、商品を汚さずに持ち帰るだけ。……ウル、私たちの熱量を『囮』に使える?」
ウルはマズルをツンと上に向け、「フン」と鼻を鳴らす。
『容易いことだ。お前さんが摘み終えるまで、あいつらの鈍い頭をかき乱してやればいいんだな』
「うん、そのとおり。頼りにしているよ。……お婆さん、地図を貸して。風向きと、地形の起伏を確認したいんだ」
コロは老婆から手渡された古い羊皮紙を広げた。
魔物を倒すべき「敵」としてではなく、排除すべき「ノイズ」として定義し、その隙間を縫うための最短ルートを頭の中のノートへと書き込んでいく。
そこには、英雄譚のような華やかさは微塵もない。
あるのは、徹底したコスト計算と、確実に成果を持ち帰るための「嘘のない計画」だけだった。
「……よし。サクッと行って終わらせるよ。……行くよ、ウル。腹ごなしの時間だ」
『了解だ』
一人と一匹は、チリンと澄んだ鐘の音を背に、ひんやりとした『水槽亭』を後にした。
フェルムの街路、その先にある鉄錆山を見つめるコロの瞳は、すでに採取の「完了」までのプロセスを淡々とシミュレートしていた。
フェルムの街を抜け、緩やかな斜面を歩くこと数時間。
昼下がりの陽光が山肌を照らしているが、標高が上がるにつれ、空気は物理的な重みを伴って冷え込んできた。
視界に広がるのは、自然の山というよりは、巨大な「剥き出しの仕事場」だった。
『フェルム第二鉱山』。
現役の鉱区であるそこは、無数の足場や運搬用のレールが血管のように張り巡らされ、岩肌は長年の採掘によって階段状に削り取られている。
しかし、今向かっている北側の旧坑道付近だけは、人影もなく、静まり返っていた。
「……あそこだね。現役の鉱区から少し外れた、冷気の溜まり場」
コロは足を止め、手元の古い地図と目の前の光景を照らし合わせる。
日光は届いているはずなのに、その一角だけが薄暗く、地面には不自然な霜が降りていた。
『ふむ。風下からでも、あの老婆の言っていた「煤の匂い」がするな。……実に不快だ。純粋な冷気ではなく、焦げた鉄の脂が混じっている』
ウルが不快そうに鼻を鳴らし、前脚で硬い岩をカリリと掻く。
まだ三日間の納期前なので、彼の胸元には赤いスカーフが巻かれているだけで、ハーネスは鍛冶屋に預けたままだ。
「ウル、準備はいい?あの岩棚の向こうの森に、フロスト・レイスの溜まり場がある。……お婆さんの話だと、あいつらは熱と呼吸を追う。私の採取が完了するまで、あそこの広場で派手に動いて。倒さなくていい、あいつらを『忙しく』させておいてほしいんだ」
『心得た。……お前さんも、その「器」を壊さんようにな。この寒さで指が動かなくなれば、計画変更だからな』
「……大丈夫。対策はしてきたから」
コロはリュックから革手袋を取り出した。
手にはめる前に、その上から動物性の脂を厚く塗り込む。
「熱」を遮断し、「冷気」による腐食と麻痺を遅らせるための、その場しのぎだが確実な防護策だ。
二人は視線を交わす。
そこには、英雄が強敵に挑むような高揚感など微塵もない。
あるのは、最短時間で目的物を回収し、被害を最小限に抑えて帰還するという「プロの工程表」の共有だけだった。
「……30カウントで終わらせるよ。森に入って合図したら開始だ」
『いつでも良いぞ。暴れまわりたくてウズウズしている』
「いいね、行こう」
その言葉を合図に、一人と一匹は、ゆっくりと森に向けて歩みを進めた。
森の中は、外の陽光が嘘のように暗く、湿った冷気が肺の奥まで凍てつかせる。
立ち枯れた木々には、白というよりは「灰色」に近い霜がびっしりと張り付き、老婆の言った通り、鉄の焼けるような、不快な煤の匂いが鼻を突いた。
『この煤こけた匂いさえなければ……な』
「この器だとちょっと寒いから、私はあんまり来たくないね」
『つくづく不便な器だな』
森の向こうに視線を向けたままそう呟くウルの頭に、ポンポンと頭を叩くコロ。
「……あったあった。あそこだ」
静かにそう呟いて足を止めるコロ。
視線の先、大樹の根元に、淡い青光を放つ結晶の花が群生している。
それを取り囲むように、どす黒い煤を孕んだ半透明の影――フロスト・レイスたちが、意志を持たない装置のように虚空を漂っていた。
コロは静かに、指を一本立てる。
『……ふん。準備はいいぞ。派手に「散歩」してくるとしよう』
「じゃあ――開始」
『行ってくる』
ウルが小さく喉を鳴らした瞬間、彼は文字通り、灰色の熱線と化して広場へと躍り出た。
「――ガアアアアアァッ!!」
森を震わせる、暴力的なまでの咆哮。
アッシュウルフが放つ圧倒的な「熱」と「音」に、レイスたちが一斉に反応した。
どす黒い雲のような影がうねり、視界を持たない彼らは、唯一の巨大な熱源であるウルの方へとその矛先を向ける。
(……1)
コロは影に紛れ、最短距離で氷晶草へと滑り込んだ。
脂を塗った革手袋が、レイスの撒き散らす不浄な冷気に触れてチリチリと音を立てる。
鉄のピンセットなら、今頃すでに黒く錆び始めていただろう。
(……5)
指先から熱が奪われていく。
コロは呼吸を止めた。
老婆が言っていた通り、彼らは呼吸を追う。
肺の中の空気を固定し、自分を「ただの動く石」として認識させる。
(……10)
氷晶草は、わずかな振動でも結晶が崩れる。
コロはピンセット代わりに指を使い、茎の根元を正確に、かつ最小限の力で弾くように摘み取っていく。
呼吸が苦しくなる頃になると、阿吽の呼吸の如く、ウルは動線を意識して立ち回る。
視線を送らずとも、コロはその瞬間に呼吸をする。
(……15)
背後では、ウルが縦横無尽に森を駆け回っていた。
ハーネスという枷がない今の彼は、より野生的で、より速い。
レイスの冷気が届くよりも速く、彼は「熱」を置き去りにして次の地点へと跳ぶ。
黒ずんだ影たちは、実体のないウルの残像を追って、虚空を虚しく叩き続けていた。
(……20)
残り五株。
脂が冷気で固まり、手袋の感覚が失われ始める。
コロの脳内ノートには、採取すべき株の優先順位がすでに書き込まれている。
迷いはない。無駄な動きもない。
(……25)
最後の一株をケースに収め、コロは力強く地面を蹴った。
レイスの一体が、不自然な空気の揺らぎに気づき、黒い腕を伸ばしてくる――が、その指先が彼女の服に触れるより速く、一陣の熱風がその影を薙ぎ払った。
『時間だ、コロ!』
ウルの叫び声に、口を噤んだまま頷くコロ。
(……30)
一人と一匹は、一度も振り返ることなく、凍てついた森を駆け抜けた。
背後では、獲物を見失い、ただ不気味に渦巻く黒い霧だけが取り残されていく。
森を抜け、午後の柔らかな光の下へ戻った時、コロは止めていた息を一気に吐き出した。 肺に流れ込む「嘘のない空気」が、ひどく甘く感じられたのか、美味しそうに空気を吸っている。
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